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死の媛(四)
例の裏路地をそっと覗き込んで、おや?と先生は思った。
「チョコレイト!」
足元に飛びついてきたのは、あの約束好きの少年だ。もじゃもじゃ頭の少年もいる。一人、足りない。
おかっぱ頭の小さな女の子はどこへ行った?
というか、今「チョコレイト」呼ばわりされたな。
「あの子は?」
しがみついた約束くんを振り払おうとするが、左足をしっかりと抱擁されている。様子が変だ。
「捕まっちゃった」
もじゃもじゃくんも、泣きべそだ。捕まった?
それは、まずい。
「いつ?」
「さっき」
チョコレイト先生の脳裏に、黒い姿が想像された。今ではおかっぱちゃんのような6才くらいの子供も、たくさん処刑されている。『罪の区別なく、全ての罪人を死刑に処す』だ。
「どうしたらいい?」
どうしようもないよ、とチョコレイト先生はしゃがみ込む。二人の汚れた頭をよしよしする。
「諦めるしかない」
「でも、」
でももクソもない。無理だ。
チョコレイト先生は密かに、自分の「当番」の日におかっぱちゃんが処刑されないことをお祈りした。見たくない。
「なんで、捕まっちゃったの」
チョコレイト先生の問いに、男子二人は首を振る。なるほど、と先生は察する。
「失敗した?」
問い直す。約束くんが体を離して、こちらを見上げて、力なくうなだれる。もじゃもじゃくんは、頷く。
「逃げようとして、転んで」捕まってしまった。
「そうか」
先生は、もう一度、彼らの頭をよしよしした。お前たちが無事でよかった。そう言うと、約束くんは激昂した。
「よくなんかない!」
その目には、たっぷりと涙が溜まっている。
「見殺しにした!」
裏路地に、彼の声が響く。先生は慌てて人差し指を立てた。「ダメだよ」見つかってしまう。
逃げようとしたぐらいなのだから、この子たちが盗みを働いたこともおそらくばれているはずだ。
「とりあえず」
先生は鞄の中から手早くチョコレイトを取り出した。3枚ある。
「それ持ってしばらく隠れてろ。西門には近づくな。張られてるかもしれない」
あとは、泣くな、と付け足す。泣いてる孤児は、今の時世、怪しまれる。
「そのチョコレイトも、見つからないように」
盗んだと思われる。
先生から渡されたチョコレイトを手にしたもじゃもじゃくんは、それをじっと見ている。3枚だ。悲しい枚数になってしまった。
「じゃあな。がんばれ」
先生は立ち上がって、それからは、彼らを振り返らなかった。
突き当たりの赤鳳楼へと足早に立ち去る。
あの子らと絡んでいるのを見られたら、僕も「死の媛さま」に殺されてしまう。
本当に、嫌な世の中だ。
***
赤鳳楼の軒先の伊呂波紅葉が、季節の移ろいを知らせている。三色入り混じる紅葉の方が、先生は好きだ。
「二城は、秋が進むのが早いのですね」
絢は、秋に見ても美しい。
「山間の盆地だからね」
夏は暑い。だが、その峠を越えると、急に朝晩が肌寒く感じられて、ふと気づくと、日中も涼しくなっている。軒先のあの紅葉も、ついこないだまでは青葉だった。
絢には物珍しいことなのだろう。
「これ」先生は、絢に板チョコレイトを差し出す。
絢は、首を傾げる。
「どうしたのです?これ」
「そこで買ってきたからさ」
まあ、ありがとうございます、と、絢は嫋やかに笑む。本当は、あいつらに渡すついでに自分も食べようと思っていた分だ。でも、当分は、チョコレイトは見たくない。
「で、」
先生は気を取り直すように、注いでもらった盃をひとつ煽る。今日もたらふく飲むぞ。「今日は何の話をする?」
そうですね、と、絢は思案する。
「『雨』さまのお話が、聞きたいかしら」
また、盃を落としそうになった。
「それは」先生は、大変狼狽えている。諸事情により。「どうして?」
彼女の仕事に関わることだろうけども。
「個人的興味です」
また、悪い顔をする。
「だって、この赤鳳楼の、伝説の娼婦ですから。それに先生は、雨さまとお親しかったのでしょ?楼主さまから聞きましたよ」
「……正確には、少年の娼婦だよ」
絢の表情からは「男の子もお好きなんですね?」という心の声が駄々漏れている。色魔冥利に尽きるが、誤解だ。僕は、雨が大好きだっただけだ。もう、大好きだ。とびっきり好きだ。いや、駄目だ。それでは誤解は解けないどころか、却って駄目だ。絢ちゃんの視線が痛い。
「……無茶苦茶、可愛かったよ」
先生は、諦めた。そういう時代もあった。
「雨に最初に会ったのは、彼が5才ぐらいの時でね」
雨は、あの当時贔屓にしていた遊女の稚児だった。色街の子供たちは、遊女の側に付き従い、仕事を覚えてゆく。雨もそうだった。最初の頃は、雨のことを女の子だとばかり思っていた。
「9才で少年娼婦になった」
それは、と、絢が言葉に詰まる。早すぎませんか?
「早熟だったよ」先生は答える。なんなら、初めて会った時から、彼は子供らしくない子供だった。
「あの頃僕は、暇でね。ここの子供たちに読み書きを教えてたんだ。だから『先生』なんて呼ばれてるんだけど」
雨にも教えていた。
「彼は、覚えるのがとにかく早くてね。娼婦になる頃にはもう、文字どころか、政治経済にまで詳しくなってた」
「9才で、ですか?」
「びっくりでしょ?」
約束くんやもじゃもじゃくんがちょうどその年頃だから、あいつらが政治経済に詳しい男娼になるようなものだ。
「ただね、雨に関して言えば、あんまり違和感はなかったよ」
盃を飲み干す。絢に注いでもらう。
肴も用意してくれているけど、なんだかお腹が空かない。
「なんていうんだろう。そういう生き物?」
絢が、その言葉を反復する。そういう生き物。
「うん。そういう生き物」
どんな凡百な言葉を並べても、彼を言い例えるには今ひとつ物足りない。
「頭が良くて。もうとにかく、頭が良くて。気立ても良くって、大人びていて、本当に綺麗で、可愛くて。目の色も他と違ってて」
「目の色、ですか?」
絢の目の色は、少し赤みが強い。
「うん」
やっぱり、食べようかな、と、先生は箸を取る。鮭の幽庵焼きだ。
「僕が、雨の初めてのお客さんになった」
切り身を割る。ちょっと硬い。
「雨だけだよ。僕が、男の子と懇ろになったのはね」
だから、誤解だよ、絢ちゃん。そんな目をしないでくれ。決して男色ではない。
女の子がとにかく大好きだ。
「本当に、綺麗な子だったよ。でも、いかんせん、男の子だからさ」
硬いけど、美味しい。鮭。
「と、思ってたんだけど」
程なくして、雨は、予約しないと会えない娼婦になってしまった。あの頃は、楼主に相当無理言って、お金もたくさん払って、いくら無理な時間でも予約して、会いに行った。
雨は、男からも、女からも好かれた。
この色街にはあまり他所へ出向く遊女はいないように思うけど、雨はしょっちゅう出かけていた。
「それで、11の時に『宵花さま』に選ばれた」
この街には「宵花祭」という行事がある。
春と秋、10人の遊女が選出され、豪奢な花魁衣装を身にまとい、稚児たちを従え、正門から西門までの表小路一里を練り歩く。10人の花魁は、十の四、十の七、など、格によって名付けられ、十の一を「宵花さま」と呼ぶ。つまり、この街一番の遊女だ。
「ちょうど、秋の宵花祭だったよ」
先生は、懐かしいな、なんて言いながら、酢蓮根をいただく。
「あの年は冷夏でね。ここの紅葉だってもっと赤くなってた。当日も、もしかして雪が降るんじゃないか、ってぐらい寒くてね。外套羽織って見に行ったよ」
ボリ、ボリ、と、蓮根の砕音。
絢は静かに話を聞いている。よく考えたら、今日は周りもいやに静かだ。
「まあ、いつも、宵花祭のことは新聞に取り上げられるけど、雨が『宵花さま』に選ばれた時は、一面で、ばーん!だったよ。そりゃ、そうだ。11才だし、男の子だし、十の十とかじゃなくて、いきなり宵花さまになるんだから。多分、最年少じゃないのかな?いまだに」
あの時は、本当にびっくりした。家でその新聞記事を開いた時は、飲んでいた珈琲を落っとこした。
お気に入りだったお椀を割ってしまった。
ばーん!だ。
それで、慌ててお祝い物を買いに行った。何を贈ったっけ。
あれから6期連続で雨は『宵花さま』だったから、何をいつ贈ったのか、判然としないけれど。
「で、そのお祝い物をお昼間に持って、ここに来たんだけど、本人、何してたと思う?」
ええと、と、絢は、思索する。そんな絢も美しい。
「お掃除?」
「残念」
先生は笑う。思い出し笑いだ。
「表で、高下駄で歩く練習をしてたよ」
あの時の雨は、本当に可愛いことをしていたのだ。
「缶詰で高下駄みたいなものを自分で作って、歩いてたの」
裏路地を左に折れて、そこから見えたのは、ぶきっちょに歩く子供の遠影だった。
つんのめり、つんのめり。
どこの子だろう、と近づいていくと、それは彼だった。
地面をゴツゴツ言わせて、歩いていた。
「可愛いでしょう?」
菊花のお浸しに箸をつける。
見てみたかったわ。絢も少し微笑んでいる。
「だから速攻で、雨連れて、練習用の高下駄を買いに行った。でも、子供だからさ。合うものがなくて」
その時、先の春の宵花祭の十の九が、小柄だったことを思い出した。
「その人に頼み込んで、貸してもらったの」
道中引き回されていた雨も、それはそれは可愛かった。よく考えたら、ちょっとした逢引きだ。今となっては、いい思い出でしかない。
後日談として楼主から聞いたところによると、雨はそれから当日の朝まで、その高下駄で毎朝練習をしていたそうだよ。
「真面目な方だったのですね」
絢が、盃に秋の新酒を注いでくれる。良い酒だ。
真面目?
「ちょっと、違うかな?」
雨のこれまでを呼び起こす。
「多分ね、顧客に恥をかかせたくない一心だったんじゃないかなあ」
一献を、ぐい、と一飲みする。
「それは、真面目じゃないですか?」
真面目、かなあ。なんだか今日は、酔いが早い。雨は、あの子は。
「したたか」
先生は言った。
「したたかなだけさ」
晴れ舞台で、子供らしくヘマをするか。
子供らしからぬ所作で、完璧な宵花さまを演じるか。
「あの子は、後者を選んだんだ。自分をより売り出していくためにね」
多分、そうだろうな、なんて先生は考える。本当に子供らしくない『そういう生き物』だった。
そして、
「結果的に、14で引退するまで、ずっと宵花さまだった」
最後の頃なんて、ちらと会うことすらもできなかった。最後に彼を見たのは、春の宵花祭の花魁道中だった。お祝い物は持っていったけど、会うことはできなかった。
「まあ、あれだ、商売上手、というやつだね」
満開の桜並木の、散り始め。
遠くから見ても、花魁姿の雨は綺麗だったな、なんて。
先生は、そうだ、と膝を打つ。
「今度の宵花祭の十の五、せっちゃんじゃない?」
せっちゃんとは、瀬津、という。この赤鳳楼の遊女の筆頭だ。
「せっちゃんと雨は、仲良しだったんだよ。仲良しというか、同い年で、ほぼ同じ頃に稚児だったから」
「瀬津姐さんと同い年ですと、雨さまも19?」
「そうなるねえ」
もう、そんな年なのか。年を取るわけだ。
「せっちゃんも花魁になるなんて、叔父さん感慨深いよ」
本当に。
「瀬津姐さんも、早くからお客をお取りに?」
絢が尋ねる。いや、と先生。「確か、15ぐらいからじゃない?」
寧ろ、それぐらいがふつうだと言いたい。
「雨が、おかしかったんだよ」
笑、えない。あの頃、どんな気持ちだったんだろうなあ、なんて、いまさらに思う。
しばらく、場は静黙した。
下の階が、少しだけ、賑やかになる。新客が到来したようだ。
「雨さまは、」絢が、少し、間を詰めてくる。「今はどちらに?」
先生は、その肩を抱く。
その中指には、無骨な金色指輪が嵌められている。
「さあねえ」
笑う。
「異国の綺麗な街で、のんびりしてるんじゃないかな?」
きっと、一生分は稼いだだろうから。冗談めかして言ったが、多分実際に、それぐらいは稼いでいただろう。
絢の結い髪に、接吻する。
そして、本当に。
「雨がこの国にいないことを、叔父さんは願ってやまないよ」
先生は、絢の体から手を離した。
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