![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/118990617/rectangle_large_type_2_09493379591bda2e729543e11ce2230e.png?width=800)
死の媛(三)
嘉国北部。
山間の廃れた一軒家の居間。
「南の方は、彼の進言通りで私も良いと思う。ただ、」
彼女の肩には、3つの金色金属の星章。
右襟に、桜花の刺繍。
「これ以上の持久戦はさせたくないな」
偵察部隊から届く報告書を、別室から移した文机に雑に広げ、若き女王は軍服に身を包み、思案の様子を見せる。
机上の諸所に見え隠れする「飢饉」の二文字。
その他、停電、高騰、志願兵、粛正などあるが、かねてより最も危惧していたことが、今、燦国で起きてしまっている。
燦国は嘉国の元国民。それだけは決して忘れてはならない。
新女王の口癖。嘉国の防衛の主指針だ。
燦国独立からのこの3年間、嘉国は可能な限りの緩和的な措置を施してきた。女王はそう自負している。
戦争そのものも、初期の防衛戦を除いては武力行使を可能な限り回避したつもりだ。
ただ、南方の一部だけは侵略を許したまま、今もその戦線が残っている。
それも摩耗させてはいるが、元々、燦国は山間の一地域。嘉国の鉱業の主軸拠点だった。
総動員、という単語が、女王の見つめる机上にもある。
彼らの摩耗度は、当初考えていたより少ない。
彼らの武器装備の供給は、思った以上に生きている。
こちらからの侵攻はしたくない。
終結の最短が本当は「それ」だったと、女王は知っている。だが、したくはない。燦国は、元は嘉国の一州だからだ。指針に反する。
万一、今から攻めたとして、冬を迎えてしまうと、おそらく燦国は地獄絵図となる。
山間での国境戦争。
雪に閉ざされた状況では、互いに攻撃は難しくなる。
飢饉、停電、そして、あの国でとめどなく行われてしまっている、粛清。
雪が融解する来春には、おそらく燦国の状況は一変しているだろう。
生き残った人々は、より独裁者への依存に縋ってゆく。或いは、大いに離れる。
離れた者は、処断される。
生き残った、より多くの人が死ぬ。
今の南方の戦線も大事だが、女王が一貫して考える「一番」は、主指針に外れず、「どちらの国民も守ること」だ。
でも、今のところ、まるで守り切れていない。力不足を、感じる他ない。
燦国で暗殺された母は、かつて燦州の内乱を制した。一昔前のことだ。
新女王には、いつでも脳裏に「母」がいる。
彼女なら、この状況をどうしただろう。
でも、おそらくは。
こうする。
「南の前線は、」
女王の指先は、自らの軍服をずっと握り締めている。少しだけ、震えている。「このまま膠着を展開させる」
次の言葉を紡ぐ。「そして、」
「秋の終わりに、全てを終わらせる」
女王は机上の、或る数字列を見つめる。27、23、21、37、21、34、15、31。
決して暗号ではないその羅列を、暗算する。
この作戦。
「できそうか?」
女王の傍には、この嘉国北部を束ねる参謀長が控えている。彼は先ほどから熱心に、床に広げた数枚の地図に印をつけている。
埃の積もる床で、手にした地図を入れ替えするたびに咳をしている。
頭髪には、白髪が降り積もる。
かつての燦州内乱の折の、参謀総長。
軍を引退し、隠居していた彼に新女王が打診した3年前、彼は、心底困った顔をした。
「これからはずっとそばにいるよ、と、妻に約束したのですが」
愛妻家の初老。
そんな彼に彼女が「北」の参謀長を任じた理由はただ一つ。
彼が現状、最も燦国に詳しいからだ。
「できます。但し」参謀長は間を置く。
「ちょっとだけ、血が流れることになります」あとは、「その主作戦と、同時刻。そして、緻密に、短時間で、確実に遂行するための下拵えが可能ならば、という話になります」
補足として。
「今では少し、私兵の数が足りません。あと少なくとも三百は欲しい」
どうすれば補完できる?
女王は尋ねる。協力者が必要です、と、参謀長は即答する。
「まず、秋となると、あと2ヶ月です。あの閉鎖された国境から『侵入者』を百単位で入れることが、まずは不可能です」
参謀長は、印を入れた地図を、とん、とん、と叩く。それは、3年間かけて嘉国が構築した、2つの侵入拠点地。
女王は、身を屈める。参謀長の鼻先に、22歳の総帥の赤髪が触れる。
彼女は容姿も髪色も、かつての上司に全く似ていない。彼女の父は、元は南国の皇太子だった。
参謀長は続ける。
「つまり、協力していただける、燦国側の精兵の力が必要になります」
「こちらが、クーデターを起こす」
女王が、父譲りの薄い口元を、指でさする。紅もささぬ色気のないその趣は、前女王と似ている。
あと2ヶ月余りでそれを完遂できれば、やりようがあります。
参謀長は付け足して、「私にお任せいただければ」
ただその表情は、明るくない。
父譲りの女王陛下の濃色の目が、こちらをじっと見ている。
戦乱の最中に成人になり、儀も執り行わず、王宮にも戻らず、執権を兄に委ね、主戦場の南部を「見た」眼差し。
お母様そっくりだ、と、参謀長は思う。あの人も、成人の儀を犠牲にした。
新女王、参謀長、情報部長、二人の警護兵。
総勢5名が集まる廃屋の一室は、それから10分間ほど、ただの廃屋の殺風景になった。
誰も動かず、誰もが、女王だけを見つめる。
自由に動くのは、小さな窓辺の、埃が光を帯びる美しさだけ。
それと、心。
女王は、つと立ち上がり、懐より手帳を取り出す。
ぱらぱらと、めくる。
見つめる。
「李宮奇襲の初手は、10月23日の午後5時」
女王は命令する。
「立案を、頼む」
***
「昨日の『31人』で、3万人を超えたそうだよ」
燦国。
李宮の或る一室。
蝋燭の灯火だけが、明かりを採る。真四角の石材で筒状に囲われた室内。中央の、鉄製の寝台。
死の媛はそこに座して、声のする方を凝視する。
体が、そこには在った。
「3万人を殺すって、どんな気持ち?」
錆びついた堅牢な鉄扉の傍で、彼は煙草をゆるり、燻らせている。その扉の中央には、鈍色の視察窓が付いている。
総裁閣下は時折ここに、こうやって「遊びに」くる。「すっかり、燦国の正義の『象徴』だ」
笑っている。
死の媛は、何も言わない。
軽く平伏し、そのまま、止まる。
この衣の色、灰桜色、と言っただろうか。
桜に灰をまぶした色味にくるまれる自分の足が、媛の瞳には映っている。あの日の花びらを、ふと思い出す。
私は、今日、何人殺しただろう?確か、
息を吹く音。鼻腔につく大人の匂い。時折視界をちらつく、白い靄。
22?
「お前も吸うか?」
軍足の音。右方から被さる、おぼろ影。重たげな震動。
熱を持つ、人の気配。
見慣れた横顔が、灰桜の上に転がった。
膝枕、と、死の媛は思う。
総裁は仰向けに向き直る。そして、こちらを直視する。
丸顔に蓄えられた口髭は、左側だけに白髪が混じっている。
「ほら」
毛むくじゃらの逞しい腕が、つい、と、伸びてくる。くたびれた紙製の箱を、死の媛は受け取る。
煙草。
空に近しいそれを振り出して、ひとつ、咥える。
煙と同じ、甘い不思議な香りがする。
意地悪く嗤う男の口に、吸い終わりかけの煙草がある。顎が、動いている。
少し、屈む。
彼から、火種をもらう。接吻に少し似ている、と思う。
或る唇を想起する。あれは、
誰だったか。
「右腕、」総裁が、咥えていた煙草を投げ捨てる。「まだ痛い?」
死の媛は、体を起こす。上向きに息を吹きつける。空のいない天井に、塵を含んだ雲が生まれた。
星空。星雲。
死の媛は、何も答えない。
静寂と煙が、たなびいてゆく。
二、三口、肺に煙を入れてから。
せわしなく衣擦れを立てる右腕に、視線を落とす。
総裁が嬲る自分のそれは、まるで何も、感じない。
太腿部が少しずつ、他者の湿り気を帯びてゆく。
総裁の手は、さらに上へ。
そして。
時は、夏。
数十分ぐらいは、あっただろうか。
ひとり、乱れた褥に身を横たえた彼女は、壁の或る一面を見つめている。
古く錆びついた拘束具が、ふたつ。
だらりと吊るされたまま、残されている。
乾いた血痕は黒く。
いつまでも、石材をいくつも、汚したままでいる。
自分の右腕も、褥の上に投げ出されたままでいる。幾つも散らばる、汗の染み。
腕に散らばる、銃の痕。
だらしなく捻れたそれが、動くことはない。
そして、私は、
褥も、自分も、煙草臭い、と思う。
***
女王の体が、木製の寝台に投げ出されている。
張り巡らされた蚊帳は、まるで靄に似ている。山間の夏の夜は、少しだけ冷える。
かさかさ、と、何かの生き物の音がする。
嘆息が生まれる。
いつまでたっても、慣れない所で眠るのは苦手だ。そして、虫が本当に、苦手だ。
犬が大丈夫で、虫が駄目で、その違いはなぜ生まれるのか。
はあ、眠れない、嫌だ。
体をそう、ぐずらせながら。
女王は「彼」を連想する。彼も、虫は苦手だった。
彼は、義弟だった。
3年前、燦州のクーデターで死んだ。
母を庇い、銃で撃たれた。燦国の報道では、そう伝えられた。
母は捕縛され、晒し首に処せられた。
天渺宮は、義弟は、行方がわからないままだ。
彼と初めて会った日のことを、はっきり覚えている。
5年前の、若葉の季節。
大広間に、母に連れられて、その子は現れた。途端、胸が潰れた。違うな。なんて言えばいいだろう。表現力が私にはない。心が折れた?
確かに、そう。心は折れた。でももっと違う、簡単な感情があったな。「悔しい」
それだ。
私も、女の子だ。あの頃は特に、おめかしすることに一所懸命だった。あの日もおめかしをした。口紅も塗った。今でも覚えてる。広間に入る前に、きちんと口紅を塗り直した。
なのに、女子よりも見栄えのいい男子がそこにいた。
女の子なら誰だって、同じことを思うに決まってる。悔しい。羨ましい。
なんだったら、運命をすら呪う。
あれから、化粧をするのをやめたよ。
あの日、義弟になった彼は、まるで神様の子のようだった。
眩しかった。本当に、綺麗だった。
声変わりしたての、少し低く、まろみのある声で、私に簡素に挨拶をした。
初めまして。
「天刧書」第6書24項「我国天祥の象徴たるは月色の眸」
義弟の目は、本物の月のように、薄く淡い、琥珀色だった。
母は、この子は「天祥の象徴」なのだと言った。年も近いから、仲良くするように、と。
私は、それどころではなかったよ。嫉妬で、死んでいた。
彼は、「天渺宮」になった。
市井から初めて宮号を賜った宮家になった。
だけど、本当に、あの時、私が思ったことそのまま。いや、それ以上に。
世間からも、他の宮家の間からも、王宮内からも、彼は、懐疑的に受け入れられた。
天祥の象徴とは、呼ばれなかった。
女王の「飼い猫」と呼ばれるようになった。
悔しい、義姉は思う。「どこに、いるの」
見えないものに、話しかける。飼い猫?違う、彼は違う。違ったのに。
月が、見たい。
女王は、寝床を抜け、蚊帳の外に身を潜らせる。警護兵が、声を発する。
「ごめん。少しだけ」
縁側から裸足で、中庭に躍り出る。見えるだろうか。
ぐるり、空を見渡す。
森に囲まれた廃屋の夜空は決して広くない。結果、月は、なかった。それでも女王はそのまま、山間の、満天の美しさに眺め入る。
思案する。
あの報告書がもしも、本当なら。
女王は、夜空に話しかける。「私は、酷いことを、」
しようとしているよ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?