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死の媛(三)

 嘉国北部。
 山間の廃れた一軒家の居間。

「南の方は、彼の進言通りで私も良いと思う。ただ、」
 彼女の肩には、3つの金色金属の星章。
 右襟に、桜花の刺繍。
「これ以上の持久戦はさせたくないな」
 偵察部隊から届く報告書を、別室から移した文机に雑に広げ、若き女王は軍服に身を包み、思案の様子を見せる。

 机上の諸所に見え隠れする「飢饉」の二文字。
 その他、停電、高騰、志願兵、粛正などあるが、かねてより最も危惧していたことが、今、燦国で起きてしまっている。

 燦国は嘉国の元国民。それだけは決して忘れてはならない。
 新女王の口癖。嘉国の防衛の主指針だ。

 燦国独立からのこの3年間、嘉国は可能な限りの緩和的な措置を施してきた。女王はそう自負している。
 戦争そのものも、初期の防衛戦を除いては武力行使を可能な限り回避したつもりだ。
 ただ、南方の一部だけは侵略を許したまま、今もその戦線が残っている。
 それも摩耗させてはいるが、元々、燦国は山間の一地域。嘉国の鉱業の主軸拠点だった。
 総動員、という単語が、女王の見つめる机上にもある。
 彼らの摩耗度は、当初考えていたより少ない。
 彼らの武器装備の供給は、思った以上に生きている。
 こちらからの侵攻はしたくない。

 終結の最短が本当は「それ」だったと、女王は知っている。だが、したくはない。燦国は、元は嘉国の一州だからだ。指針に反する。
 万一、今から攻めたとして、冬を迎えてしまうと、おそらく燦国は地獄絵図となる。
 山間での国境戦争。
 雪に閉ざされた状況では、互いに攻撃は難しくなる。
 飢饉、停電、そして、あの国でとめどなく行われてしまっている、粛清。
 雪が融解する来春には、おそらく燦国の状況は一変しているだろう。
 生き残った人々は、より独裁者への依存に縋ってゆく。或いは、大いに離れる。
 離れた者は、処断される。
 生き残った、より多くの人が死ぬ。
 今の南方の戦線も大事だが、女王が一貫して考える「一番」は、主指針に外れず、「どちらの国民も守ること」だ。
 でも、今のところ、まるで守り切れていない。力不足を、感じる他ない。

 燦国で暗殺された母は、かつて燦州の内乱を制した。一昔前のことだ。
 新女王には、いつでも脳裏に「母」がいる。
 彼女なら、この状況をどうしただろう。
 でも、おそらくは。
 こうする。

「南の前線は、」
 女王の指先は、自らの軍服をずっと握り締めている。少しだけ、震えている。「このまま膠着を展開させる」
 次の言葉を紡ぐ。「そして、」

「秋の終わりに、全てを終わらせる」

 女王は机上の、或る数字列を見つめる。27、23、21、37、21、34、15、31。
 決して暗号ではないその羅列を、暗算する。
 この作戦。
「できそうか?」
 女王の傍には、この嘉国北部を束ねる参謀長が控えている。彼は先ほどから熱心に、床に広げた数枚の地図に印をつけている。
 埃の積もる床で、手にした地図を入れ替えするたびに咳をしている。
 頭髪には、白髪が降り積もる。
 かつての燦州内乱の折の、参謀総長。
 軍を引退し、隠居していた彼に新女王が打診した3年前、彼は、心底困った顔をした。
「これからはずっとそばにいるよ、と、妻に約束したのですが」
 愛妻家の初老。
 そんな彼に彼女が「北」の参謀長を任じた理由はただ一つ。
 彼が現状、最も燦国に詳しいからだ。

「できます。但し」参謀長は間を置く。
「ちょっとだけ、血が流れることになります」あとは、「その主作戦と、同時刻。そして、緻密に、短時間で、確実に遂行するための下拵えが可能ならば、という話になります」
 補足として。
「今では少し、私兵の数が足りません。あと少なくとも三百は欲しい」

 どうすれば補完できる?
 女王は尋ねる。協力者が必要です、と、参謀長は即答する。
「まず、秋となると、あと2ヶ月です。あの閉鎖された国境から『侵入者』を百単位で入れることが、まずは不可能です」
 参謀長は、印を入れた地図を、とん、とん、と叩く。それは、3年間かけて嘉国が構築した、2つの侵入拠点地。
 女王は、身を屈める。参謀長の鼻先に、22歳の総帥の赤髪が触れる。
 彼女は容姿も髪色も、かつての上司に全く似ていない。彼女の父は、元は南国の皇太子だった。
 参謀長は続ける。
「つまり、協力していただける、燦国側の精兵の力が必要になります」
「こちらが、クーデターを起こす」
 女王が、父譲りの薄い口元を、指でさする。紅もささぬ色気のないその趣は、前女王と似ている。

 あと2ヶ月余りでそれを完遂できれば、やりようがあります。
 参謀長は付け足して、「私にお任せいただければ」
 ただその表情は、明るくない。
 父譲りの女王陛下の濃色の目が、こちらをじっと見ている。
 戦乱の最中に成人になり、儀も執り行わず、王宮にも戻らず、執権を兄に委ね、主戦場の南部を「見た」眼差し。
 お母様そっくりだ、と、参謀長は思う。あの人も、成人の儀を犠牲にした。

 新女王、参謀長、情報部長、二人の警護兵。
 総勢5名が集まる廃屋の一室は、それから10分間ほど、ただの廃屋の殺風景になった。
 誰も動かず、誰もが、女王だけを見つめる。
 自由に動くのは、小さな窓辺の、埃が光を帯びる美しさだけ。
 それと、心。

 女王は、つと立ち上がり、懐より手帳を取り出す。
 ぱらぱらと、めくる。
 見つめる。

「李宮奇襲の初手は、10月23日の午後5時」
 女王は命令する。

「立案を、頼む」


***


「昨日の『31人』で、3万人を超えたそうだよ」

 燦国。
 李宮の或る一室。
 蝋燭の灯火だけが、明かりを採る。真四角の石材で筒状に囲われた室内。中央の、鉄製の寝台。
 死の媛はそこに座して、声のする方を凝視する。
 体が、そこには在った。
「3万人を殺すって、どんな気持ち?」
 錆びついた堅牢な鉄扉の傍で、彼は煙草をゆるり、燻らせている。その扉の中央には、鈍色の視察窓が付いている。
 総裁閣下は時折ここに、こうやって「遊びに」くる。「すっかり、燦国の正義の『象徴』だ」
 笑っている。
 死の媛は、何も言わない。
 軽く平伏し、そのまま、止まる。
 この衣の色、灰桜色、と言っただろうか。
 桜に灰をまぶした色味にくるまれる自分の足が、媛の瞳には映っている。あの日の花びらを、ふと思い出す。
 私は、今日、何人殺しただろう?確か、

 息を吹く音。鼻腔につく大人の匂い。時折視界をちらつく、白い靄。

 22?

「お前も吸うか?」
 軍足の音。右方から被さる、おぼろ影。重たげな震動。
 熱を持つ、人の気配。
 見慣れた横顔が、灰桜の上に転がった。
 膝枕、と、死の媛は思う。
 総裁は仰向けに向き直る。そして、こちらを直視する。
 丸顔に蓄えられた口髭は、左側だけに白髪が混じっている。
「ほら」
 毛むくじゃらの逞しい腕が、つい、と、伸びてくる。くたびれた紙製の箱を、死の媛は受け取る。
 煙草。
 空に近しいそれを振り出して、ひとつ、咥える。
 煙と同じ、甘い不思議な香りがする。
 意地悪く嗤う男の口に、吸い終わりかけの煙草がある。顎が、動いている。
 少し、屈む。
 彼から、火種をもらう。接吻に少し似ている、と思う。
 或る唇を想起する。あれは、
 誰だったか。

「右腕、」総裁が、咥えていた煙草を投げ捨てる。「まだ痛い?」
 死の媛は、体を起こす。上向きに息を吹きつける。空のいない天井に、塵を含んだ雲が生まれた。

 星空。星雲。

 死の媛は、何も答えない。
 静寂と煙が、たなびいてゆく。
 二、三口、肺に煙を入れてから。
 せわしなく衣擦れを立てる右腕に、視線を落とす。
 総裁が嬲る自分のそれは、まるで何も、感じない。

 太腿部が少しずつ、他者の湿り気を帯びてゆく。
 総裁の手は、さらに上へ。
 そして。

 時は、夏。

 数十分ぐらいは、あっただろうか。

 ひとり、乱れた褥に身を横たえた彼女は、壁の或る一面を見つめている。
 古く錆びついた拘束具が、ふたつ。
 だらりと吊るされたまま、残されている。
 乾いた血痕は黒く。
 いつまでも、石材をいくつも、汚したままでいる。

 自分の右腕も、褥の上に投げ出されたままでいる。幾つも散らばる、汗の染み。
 腕に散らばる、銃の痕。
 だらしなく捻れたそれが、動くことはない。
 そして、私は、

 褥も、自分も、煙草臭い、と思う。


***


 女王の体が、木製の寝台に投げ出されている。
 張り巡らされた蚊帳は、まるで靄に似ている。山間の夏の夜は、少しだけ冷える。
 かさかさ、と、何かの生き物の音がする。
 嘆息が生まれる。
 いつまでたっても、慣れない所で眠るのは苦手だ。そして、虫が本当に、苦手だ。
 犬が大丈夫で、虫が駄目で、その違いはなぜ生まれるのか。
 はあ、眠れない、嫌だ。
 体をそう、ぐずらせながら。
 女王は「彼」を連想する。彼も、虫は苦手だった。

 彼は、義弟だった。
 3年前、燦州のクーデターで死んだ。
 母を庇い、銃で撃たれた。燦国の報道では、そう伝えられた。
 母は捕縛され、晒し首に処せられた。
 天渺宮は、義弟は、行方がわからないままだ。

 彼と初めて会った日のことを、はっきり覚えている。
 5年前の、若葉の季節。
 大広間に、母に連れられて、その子は現れた。途端、胸が潰れた。違うな。なんて言えばいいだろう。表現力が私にはない。心が折れた?
 確かに、そう。心は折れた。でももっと違う、簡単な感情があったな。「悔しい」
 それだ。

 私も、女の子だ。あの頃は特に、おめかしすることに一所懸命だった。あの日もおめかしをした。口紅も塗った。今でも覚えてる。広間に入る前に、きちんと口紅を塗り直した。
 なのに、女子よりも見栄えのいい男子がそこにいた。
 女の子なら誰だって、同じことを思うに決まってる。悔しい。羨ましい。
 なんだったら、運命をすら呪う。
 あれから、化粧をするのをやめたよ。

 あの日、義弟になった彼は、まるで神様の子のようだった。
 眩しかった。本当に、綺麗だった。
 声変わりしたての、少し低く、まろみのある声で、私に簡素に挨拶をした。
 初めまして。

「天刧書」第6書24項「我国天祥の象徴たるは月色の眸」

 義弟の目は、本物の月のように、薄く淡い、琥珀色だった。 
 母は、この子は「天祥の象徴」なのだと言った。年も近いから、仲良くするように、と。
 私は、それどころではなかったよ。嫉妬で、死んでいた。

 彼は、「天渺宮」になった。
 市井から初めて宮号を賜った宮家になった。
 だけど、本当に、あの時、私が思ったことそのまま。いや、それ以上に。
 世間からも、他の宮家の間からも、王宮内からも、彼は、懐疑的に受け入れられた。
 天祥の象徴とは、呼ばれなかった。
 女王の「飼い猫」と呼ばれるようになった。

 悔しい、義姉は思う。「どこに、いるの」
 見えないものに、話しかける。飼い猫?違う、彼は違う。違ったのに。

 月が、見たい。

 女王は、寝床を抜け、蚊帳の外に身を潜らせる。警護兵が、声を発する。
「ごめん。少しだけ」
 縁側から裸足で、中庭に躍り出る。見えるだろうか。
 ぐるり、空を見渡す。
 森に囲まれた廃屋の夜空は決して広くない。結果、月は、なかった。それでも女王はそのまま、山間の、満天の美しさに眺め入る。
 思案する。

 あの報告書がもしも、本当なら。
 女王は、夜空に話しかける。「私は、酷いことを、」

 しようとしているよ。

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