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死の媛(七)


 10月23日。
 秋の宵花祭。

 十の五、せっちゃんこと瀬津の花魁道中のため、赤鳳楼は何かと賑やかである。先生は、お祝いに駆け参じた一客として、土間でせっちゃんのお出ましを待っている。赤鳳楼から花魁が誕生するのは『雨』以来だろうか。
 実に感慨深い。
 せっちゃんが出立したら、僕も場所取りに行かないと。
「楽しみですね」
 絢の表情もどこか浮かれている。彼女にとっては初めての宵花祭か。
「次の宵花祭には、絢ちゃんが選ばれてたりするかもよ」
「それはどうかしら」
 ふふふ、と笑う。先生は冗談抜きで、この子なら有り得ると思っている。
 開けっぱなしの入り口からは綺麗な夕空が見えている。薄明に上弦の月が心地良く浮かんでいる。昨日までは雨がちだったが、今日は大丈夫そうだ。そういえば、宵花祭の日で土砂降りの雨なんて、これまで見たことがないな、と先生は回顧する。神様も、やっぱり美人を拝みたいのだろうか。
「雨は、そろそろ晴れるの?」
 先生は、絢に尋ねる。
「今日にも」
 絢は答える。
 二人の目線の先にある遠くの鐘塔に、燦国の国旗がはためいているのが見える。
「ところで」絢が先生の指先に視線を落とす。
「その指輪、最近よくしてらっしゃいますけど、お好きなのですか?」
「ああ、これ?」
 先生はパッと右手を広げてみせる。「いや?」
 無骨な金色金属の指輪。
 それを眺め透かして、先生はふふ、と笑う。雨は、可愛いなあ。
「そういう絆は、好きじゃないさ」
 この指輪は先日、実は、絢ちゃん経由で受け取った。まさか、また手に取る日が来るなんてね。
「僕は、軽い人間なんだ。許してほしいよ」
 あの時、雨からこれを貰った時、僕は突き返したのだ。お揃いの指輪なんて性に合わない、って。酷い男だ。そんなことしなかったら、彼の最後の宵花祭の時、「会えなかった」なんて、切ないこともなかったかもしれない。
 あの日が、雨と最後に言葉を交わした日になった。
 絢は、じっとこっちを見ている。美人だ。可愛いな。絢ちゃんとなら結婚してもいい。
「じゃあ、なぜ?」
 絢ちゃん。罪な男で申し訳ない。
「なぜ。そうだなあ」
 なぜも何もない。
「単純に、つけたいな、って思っただけだよ」
 せっちゃんが、2階から降りてくる。
 歓声が沸いた。

「先生」絢が、甘い声で耳打ちする。
「お願いがあるのですけれど」


***


 李宮、東門。午後4時。

「第十二需品連隊、第一師団、開門を願います」
「許可する」
 2人の門番が、左右に国章を施した高大な城門を開く。敬礼。
 幅広の石畳の道に、8台の非装甲兵員輸送車が、徐速で進入する。

 車両は列を成して、薄暮の宮殿内を、日の沈む方へと走り去ってゆく。


***


 そのお店には一度だけ行ったことがある。正確には、仕事の上で連れていかれたことがある。
 名を「すずね」という。表小路の正門前。一等地にある高級料亭だ。
 その裏手。
 勝手口の門前に、先生と絢は立っている。
 表側では花魁道中が既に始まっていて、遠く賑やかな喧騒がたいそう羨ましい感じだ。時間的には十の九が正門にお出ましになる頃。日が暮れるにはあと半刻ほどかかる。
 すっかり暮れる頃には、十の五、せっちゃんの晴れ舞台だ。

「えっと、」先生は、困っている。すずねは、非常に良いお値段がします。
 そして今日は、年に2回の宵花祭です。
 コネ無くして、金無くして、すずねを語るな。今日なら末席だって、先生の月収が吹っ飛んじゃいます。
 そんな裏口に僕たち立っちゃって、絢ちゃん、これは一体どういうことなのでしょう?
 あなたに「逢引きしましょ?」なんて甘い声音で囁かれちゃって、嬉しくなっちゃって、先生、ホイホイと尻尾振ってついてきちゃったけども。
「絢ちゃん。あの、」
「前払いで切ってありますから大丈夫です」
 一生ついていきたくなる台詞だ。
「こちらへ」
 促されるまま、先生は身半分ほどの門扉をくぐる。裏庭を通り、質素な誂えの木扉から店内に這入る。店内の宴の賑やかな喧騒が、盛況を知らせる。裏階段から2階の最奥へ。
「瑞兆」と書かれた札の敷居で、絢は膝を折る。「お連れいたしました」
 部屋の中から返事をする声は、若い女性だ。先生の脳裏に「両手に花?」という言葉が閃いた。
 絢が、恭しく障子を引き、三つ指をつく。
「え、」
 先生は慌てて座り、最敬礼をする。まじか。
 座敷にいたのは赤い洋髪の女性。松竹梅の引き振袖に身を包んではいるが、間違いない。
「初めまして、『先生』」
 和装美女が、そう言ってにっこりと笑う。「そんなにかしこまられては困ります」
 絢が、ぽん、と先生のお尻を叩く。
「あ、はい」
 間抜けた声しか出ない。先生は慌てて敷居を跨ぐ。「では、楽しんで」と、絢がまた一礼し、障子の向こうへ消える。
 赤髪さんとの、逢引きかあ。
 改めて、向き直る。
「お初にお目にかかります」
 嘉国、女王陛下。心の中でそうお呼びする。「なんとお呼びすればよろしいですか?」
「敬語も必要ない。呼び名、そうだな」
 陛下が、ご自身の振袖に視線を落とす。
「うめ、にしよう」
 梅ちゃん。全然、梅ちゃんっぽくないけど。どっちかというと松っぽいけど。
「わかりました。梅ちゃん」
 そう呼んでみると、梅ちゃんは、顔をくしゃっとさせた。なんか、照れてしまう、と笑う。ご自身でも自分が「松」だとお分かりなのだろう。
 先生も、かねがね報道などで見知っている。燦国独立の日の夜、嘉国で「悲しみの戴冠式」をした梅ちゃんは、それからずっと戦線で指揮を取っているとか。お兄さまが王宮で国王代理をしているだとか。もちろん、梅ちゃんの誕生日も知っている。9月13日だ。お兄ちゃんと同じ誕生日なんだよね。
 などなど反芻しながら、そのお顔を拝見する。
「こちらへ」
 梅ちゃんはその可愛らしい顔を窓の外へ向ける。
 あまりの衝撃にすっかり見落としていたが、大きな丸窓が3つ並び、隅に赤い布が敷かれた瑞兆の間は、先生の身に余る非日常な空間だった。
 そして、そんな空間に、晴れやかな振袖の美女がいる。
 最高か。
 促されるまま、先生も窓際に座する。
 梅ちゃんが見ていたのは、表小路の両端の雑踏と、その中央を練り歩くお稚児さんの可愛らしい行列だった。雅な旋律が、色街に揺蕩う。先生も、こんなところで宵花祭を見るのは初めてだ。
 そして内心、梅ちゃんのことを、あまり「他人」だとは思っていない。
「昔」
 先生は、その話がしたいと思った。
「大好きだった遊女が、宵花さまで。6回も選ばれたんです」本当に、大好きだった。
 その子の名前は、雨と言います。
 そう言うと、梅ちゃんはこちらをちょっと見た。
「雨は、本当に可愛くて」
 缶詰の下駄で歩く練習をしていたこと。食膳の肴を食べさせようとすると、ちょっと困った顔をしたこと。チョコレイトを持っていくと、静かに嬉しがっていたこと。裏通りの麦餅が大好きだったこと。指輪をくれたこと。西門前の茶店で、よく本を読んでいたこと。一度だけ遠出をして、海を見たこと。その列車の中で、半分残したお弁当を、僕が食べたこと。
 懐かしいなあ。先生は笑う。
「心が強くて、頭も良くて」
 僕は雨の『先生』だったのに、最後の方は、教えてもらってましたから。
 そう言うと、梅ちゃんが何か、思い出し笑いをした。「ああ、うん」本当に。
「私も、似たようなことがあったよ」
「どんなことですか?」
 先生の問いに、梅ちゃんはあることを思い回すように、目をくるっとさせる。
「或る時、弟ができてね。3才年下だった」
 あの頃、私は大学へ通っていた。
「課題が何かと難しくて、ああでもないこうでもないって書き散らしていたら、弟が遊びに来て」
 4つの要点を、間を空けて、彼は書いた。
 そして「この行間を埋めれば、課題が終わりますよ」と言った。それでも煩悶する私の隣で、彼は書物を速読した。ここ。それから、ここ。行間に書くべき詳細が記された箇所に、目印の色紙を挟んでいった。
「一緒にいられたのは一年半ぐらいだったけど、そんなことがよくあったよ」
「少し、似ていますね」
「そうだね。弟も、可愛い子だった」
 存じ上げております。先生は心の中でそう呟く。梅ちゃんの弟君が初めて公に現れた時も、僕は珈琲を落としたのだ。
「弟も、本をよく読んでいたよ。毎朝、麦餅を食べていた。金色の指輪をいつも身につけていた」
 その指輪、いつもつけてるけど、好きなの?
 一度だけ、そう聞いてみたことがある。そうでもないけど、なんとなく、と、弟は笑った。なんだか照れくさげだった。
 雑踏から、わあ、と歓声が上がる。
 金襴の打掛に身を包んだ花魁が、ハレの道をゆっくりと往く。十の九だ。
「その指輪にそっくりな指輪だった」
 梅ちゃんは、僕の右手を見ている。こら、花魁を見なさい。せっかくなんだから。こんな叔父さんの手なんかじゃなくって。
「指輪なんて、」
 叔父さんは、中指の金色指輪をさする。「どれも似たようなものですよ」
 それから、十の九が丸窓から見えなくなるまで、会話は途切れた。ここから雨の花魁道中を見たかったなあ、と先生は思ったが、この料亭が出来たのは雨がいなくなった後だ。
「私は、ひどいことをしようとしている」
 ふと、梅ちゃんが、そんなことを呟いた。ひどいこと。
 先生はその言葉を反復する。
「許してくれ、とは言わない」
 先生は、濃色の目をじっと見る。心中お察し、しようがない。僕は一介の叔父さんだ。国王の心の内など、分からない。
 なんて答えたらいいものか。
 しばらく考えてから、
「許すも何も、」窓の外を見る。夕焼けがやけに綺麗だ。先生は、笑う。

「僕は、平和が大好きなんですよ」
 梅ちゃん。

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