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死の媛外伝「或る子ども」

 先生は、きょとんとした。
 いつもの未幸ちゃんに会いに来たら、或る子どもが小座敷の隅っちょですんと座っていたからだった。
 未幸ちゃんと同じ孔雀柄の振袖に、銀メッキの花かんざし。

「お稚児ちゃんを連れることになったの?」
 妓楼ではよくある光景だけれど、未幸ちゃんの上客になってからは初めてのことだったので、ちょっと、正直に申し上げると、邪魔だなあ、と思った。
「ごめんなさいね。楼主さまが、そうしておくれ、と言うものだから」
 未幸ちゃんがいつもの甘ったれた調子で絡みついてくる。未幸ちゃんに言われちゃあ仕方ない。僕も男を見せてやらないと!
 未幸ちゃんの腰を抱き寄せながら、一緒に足付の膳の前に座る。気にせず、いっぱい食べて、いっぱい飲んで、いっぱい遊ぶぞ。
 そう思いつつも、そのお稚児ちゃんがやっぱりどうにも気になる。うーん。やっぱり、邪魔かも。
 絡み合う男女をじっと見るその容姿は、5才か、それぐらい。
 これは、倫理観と罪悪感との戦いだ。
 よし、頑張れ自分、と、己の『馬』を奮い立たせるため、甘えん坊の未幸ちゃんの結い髪に、唇に、首筋に、はだけた胸元に淫らな接吻をしつつ。
「あの子、名前は?」
 赤鳳楼の『先生』として、未幸ちゃんに尋ねる。
 と、まるでお人形のようなそのお稚児ちゃんがほんの少し、衣擦れの音を立てて、三つ指を立てた。
「雨と申します」
 それが僕の、雨との出会いだった。

 その後、僕と未幸ちゃんは朝までたっぷりと幾度となく、濃厚にまぐわったのだけど、雨はぐずることもなく、どうしようもない二人の大人の「けだもの」の有り様を見つめていた。
 最初こそは気になったけど、まるで雨は『風景』のようだった。
 部屋の隅に置いてあるお人形。
 小座敷は薄暗く、僕は雨の表情も見立ても分かっていなかった。
 ただ、おとなしい子だな、と思ったぐらい。
 雨の『それ』に気づいたのは、その翌々日。
 懲りもせず、また未幸ちゃんに会いに来た日のことだ。

 未幸ちゃんは、赤鳳楼の筆頭遊女だった。
 いやあ、もう、いずれそうなるよね、と思っていたから、売り始めの時から唾をつけて、だから今でもこうして気軽に会えているんだけど、それでも、僕のような上客が別に来ると、ご挨拶のために席を立ってしまわれる。
 悔しいけど僕は大人だから「いってらっしゃい」なんて、健気に未幸ちゃんを見送るのだ。悔しいけど、現実は受け止めねばなるまい。未幸ちゃんのためだ。
 そんな時は、これまでは一人ぽつねんと残された座敷で適当に手酌酒で良かったし、それもまた粋だったのだけど。
 今は、雨という『代役』が控えている。
 未幸ちゃんが「ちょっと、」と言って席を外した後、その雨ちゃんが、未幸ちゃんの代役を果たすべく摺り足で寄ってきて、座布団の前で丁寧なお辞儀をして、そして、座布団の上にちょんと座った。
 その時に、初めて『雨』というお稚児ちゃんの「可笑しさ」に触れた。狂れた、の方が正しかったかもしれない。

 目の色が、あの時は「ない」と思った。
 よく見たらちょっと薄く色があったのだけど、輪郭と瞳孔が、ちょっと青っぽいだけ、みたいな。「え?」と思うような、そんな塩梅だった。
 薄い琥珀色の、まんまるな瞳。
 まるで、満月のような。
 そしてその見立ても、幼児にしてはあまりにも完璧だった。
 まるで、本物の「生きているお人形さん」だった。
 代わりをお務めいたします。そう言って、不可思議な目の色の雨ちゃんが、空いた盃に春酒を注いでくれた。その所作がより一層、僕を変な気持ちにさせた。

 色街、とりわけ赤鳳楼には大変お世話になっているし、これまでお稚児ちゃんに接待されたこともままあるけれど、大体は「おままごと」になる。
 なんというか、その雨ちゃんの所作は、おおよそ幼児らしくなかった。
 おままごとのようにならない。まるで未幸ちゃんの複製のような、ちっちゃな大人だった。
 何この子、だ。
 そして、その「変な気持ち」の決定打は、その次手の、雨ちゃんの繰り出した「或る単語」だった。

「今の戦争は、『十年戦争』のようになるのですか?」

 未幸ちゃんとついさっきまで話していた、燦州の内乱の「戦争は嫌だねえ」という軽い会話の中に、その四文字熟語はなかったのだ。
 ちっちゃな代役は、僕の酔いを、一瞬にして攫っていった。なんてことをするんだ。

「えーと、」
 先生は、僕は、大人は、たじたじした。
「どこで覚えたの?それ」
 本当に、短絡的な返ししかできなかった。僕、先生失格かもしれない。
 ちなみに『十年戦争』とは、この国、嘉国で70年前に起きた内乱のことだ。僕だって、学校で習ったぐらいの智識しかない。
 雨は答えた。
「左派の人がそう言っていました」
 推定5才児から『左派』『十年戦争』という言葉が紡がれることに、そしてその状況に、僕は酒で不確かな頭脳を、ぐるぐるとさせるしかなかったよ。

 これは後々、楼主さまに聞いたのだけど、雨は「売られた」子どもだった。
 妓楼で育つ子どもには二つの出来事柄がある。
 一つは遊女から産まれた子ども。
 もう一つは『女衒』。いわゆる人身売買所で売られた子どもだ。
 今、燦州は内乱の中にある。州政府と左派政党が主導権を争って内乱を始めて、もう6年になるか。
 左派がいわゆる『陣地』を奪う際に、女子供を売り飛ばして金にしている、という話は先生も耳にしている。売り飛ばすための、左派が経営する『女衒』があちこちに設けられ、いわゆる『競り』が毎日のように行われていることも、もはや燦州の常識のようになってしまっている。
 今、この時世で妓楼にいる稚児のほとんどは『女衒』出身の、いわゆる戦争孤児だ。
 楼主曰く、その『競り』でとびっきりの『鯛』を釣った、とのことだった。
 僕がそんな『雨』と初めて会ったのは、どうやら雨が「釣られて」から2日後のことだったらしい。

「左派の意味、わかってる?」
 その時はまだ『雨』の経緯を知らなかった僕は、推定5才児のお稚児ちゃんに、念のため聞いてみた。
「燦州の独立のために、州と争っている、革命派の人たち」
 ふわふわでちっちゃな体が、澄み切った声音で答え、月色の視線を僕に送り込んでくる。
「その人が、これは『十年戦争』だ、革命は終わらない、と言いました」
 十年戦争のことは、その後、その人に教えてもらいました。
 雨はそう言った。

 何この子、だった。

 で、一週間ぐらい経って、先ほどの後日談を楼主さまに聞いた後、僕は『雨』にも読み書きを教えることになった。僕は、数年前から赤鳳楼の子どもたちに、読み書きを教えていた。
 赤鳳楼の『先生』になったきっかけは、なんだったろうなあ。
 多分、お小遣い稼ぎだったと思うけど、忘れた。ちょっとだけ、楼主さまからお駄賃をいただける。それを、夜の赤鳳楼で使う。
 平日は李宮で働いて、週末は赤鳳楼で働いている。かっこよく言えばそういうことだ。まあ、仕事前の未幸ちゃんとかに会って、こっそりチュッチュするのも目的の一つだったのだけどね。まぐわいもタダでさせてくれたし。未幸ちゃん、最高。

 十年戦争だなんて70年ぐらい昔の話を持ち出してきたくせに、雨はまったく文字を知らない子どもだった。

 まあ、知らなくて当然なのだけど、十年戦争のことを言い出すのだし、あんな物言いをするんだから、出来る子なのかな?と思いきや、そうでもなかった。後々になって思うと、雨は出来る子以上に出来る子だったのだけど。
 雨は、僕の授業にちゃんと向き合った。他の子どもと同じように、鉛筆を舐め舐めして、文字を書こうとした。最初は左手で書こうとしていた。ちょくちょく、右手に持ち直してみたり、首を傾げながら左手に戻ったりするのが、奇妙ではあった。
「利き手はどっちなのよ?」
 尋ねると、わからない、と言う。
「ご飯の匙は、どっちで持つ?」尋ねると、「決まっていない」と言う。
 僕の勘が働く。

 楼主さまは「女衒で鯛を釣った」、おそらくは戦争孤児の、見栄えの良い不思議な目の色の子どもを高く買い取った、という主旨でそう言っていたのだろう。
 だけれど、この子は本当は、割とガッツリとした生まれつきの孤児だったんじゃないか?
 赤鳳楼で教えている稚児たちの、ほぼ全ての子が戦争孤児だからこそ、『雨』の違和感が尾を引く。
 親がいれば、利き手ぐらいは推定5才でも理解しているだろう。それすら、雨にはおぼつかないことだった。少なくとも、真っ当ではないことは確かだ。

 雨ちゃんがあの日に言っていた『左派』が、たとえば或る村を襲い、占領したとしようね。そいつらが親や家族を『雨』から奪って殺して、雨ちゃんをパッと売ったとしようよ。
 その時、その張り詰めた状態で「十年戦争だ、革命は終わらない」なんて左派の一味が言ってたとして、推定5才児がそれを聞いて覚えてるなんて状況、なくない?
 あるとしたら、雨がずっと左派の、もしかしたら中枢にいる誰かのもとで「保有」されてて、『十年戦争』という70年前の昔話を覚えるほどには聞かされていて、利き手だとか、愛だとか、真っ当な教育を受けずに育って、売れる年になって、女衒で高値で売られた可能性。
 そうなんじゃないか?
 だとしたら、この子は、ひたすらに悲しい『もの』だ。

「お父さんやお母さんは?何も言わなかったの?」
 一応尋ねてみる。雨は、ぽかんとしている。
「それは、なんですか?」
 雨は、その『存在』すら知らなかった。

 致し方なく、僕は、子どもが生まれるには男と女が必要なことを教えた。
 もう見せちゃっているから、僕と未幸ちゃんのまぐわいは。あれは、子どもを作る行為なのだと教えた。まあ、実際には、僕たちのはただのお巫山戯だけど、そういうことをしたら子どもができて、お前みたいな子どもが生まれてくる。その子どもを作った男が『お父さん』で、産んだ女が『お母さん』と言うんだよ、ということを教えた。

「じゃあ、いつか未幸姐さんは『お母さん』になるということですか?」
 まあ、そうだね。お父さんはきっと、僕じゃないだろうけどね。悔しいけど。
「僕にも、そういう、お父さん、お母さんがいたんですね」
 こら、推定5才児。そんな若くして遠くを見るな。
 と思ったけど、その遠くを見る琥珀色の目は、想望というよりは、話を聞いてもよくわからないという、純真無垢なものだった。
 そうだ、この子は物心つきたての子どもだった。
 変に大人びているから、なんか調子が狂う。
 雰囲気だけだと本当に未幸ちゃんと何も変わらないのに。全く子どもらしくもないのに、この子はどの子どもたちよりも何も知らない。
 なんだか、神話の生き物みたいだ。
 好きだな、と思った。

 僕は雨の利き手を右手にした。
 そして、雨の目の前で、未幸ちゃんとたくさんまぐわった。
 雨は、いつもそれをじっと見ていた。

 未幸ちゃんが赤鳳楼を辞したのは、その3年後。未幸ちゃんは、宵花祭りの「十の五」になって、隣国の玉の輿に乗って、いなくなってしまった。
 それから、雨の姿もとんと見かけなくなった。勉強にも来なくなった。

 或る夏の日、「雨は?」と楼主さまに尋ねると、ここに住んではいますよ、と言う。
 それで、とある西門の門前の茶店を教えられた。
 行ってみると、そこにはせわしなく働く雨の姿があった。

「先生」
 雨が、にわかに嬉しそうに飛びついてくる。そういうところはちゃんと子供じみている、と言いたいが、雨の場合、何故だかそう見えない。
「何してんの?」楼主さまからは詳細を聞いていなかったのでそう尋ねると、推定8才の、ちょっと背の伸びた雨はこう答えた。
「働いています」
 でしょうね。そのまんまだね。
「なんで、ここで?」
 赤鳳楼の下働きでなく、何故色街の西門の、氷菓子が売りの人気の茶店で働いているのか。
「ここは、」
 雨が無邪気に笑っている。
「賑やかですから」
 あ、そう。としか、言いようがない。
 この茶店は、抹茶味の氷菓子が評判らしい。雨にそれを頼むと、かしこまりました、と愛想良く笑って、奥へ消えていった。
 この3年間、雨を教えていて、分かってることがひとつある。
 そんな「賑やかだから」なんて無邪気な動機で、よそのお店に「出向」する子じゃないことを。
 何か、策があるに違いない。
 何故なら、未幸ちゃんが宵花祭の『十の五』になる足がかりを作ったのが、おそらくはこの子だからだ。

 この子が未幸ちゃんの稚児になってから、未幸ちゃんはちょっとドジっ子になった。
 だけど、甘えん坊の未幸ちゃんはとにかく愛嬌を振り撒いた。
 それが男どものしようもない父性をくすぐって、一妓楼の筆頭から、街の筆頭へと駆け上った。

 僕は或る時、未幸ちゃんの手にするであろう徳利を、手酌をしようとして触った。すると、ヌメヌメしていた。
 何これ、と思って、指先でいじって、匂いを嗅いだ。それは未幸ちゃんの鬢付け油と同じ、独特の甘い匂いだった。
 よく調べると、僕が触らないであろうあちこちに、その『ヌメヌメ』が仕掛けられていた。
 それらを見つけながら、ふと、或る犯人に思い至った。
 いや、まさかね?
 僕の傍らで健気に未幸ちゃんの代役を務めるお稚児さんは、そんな僕の疑いの視線を真に受けると、とても悪い顔をした。
「内緒ですよ?」
 嫣然と笑ってみせたのだ。子ども、怖い。この子、こないだまで利き手知らずだったくせに。

 ということを含め、他にも色々とあるのだけど、この数年間ですくすくと育った「小さな策略家」の功績を見てしまっている僕には、雨のやることなすことが、悪戯っ子の範疇を超えた、悪巧みにしか見えないのだ。
 雨のやることは、何か、ある。
「色々、変なこと振りまいてるんじゃないだろうね?」
 抹茶味の氷菓子を持って戻ってきた8才児が、僕の言葉を受けて、やっぱり悪い笑顔をする。
「修行ですよ」
 そう答えてくる。どうやったらこんな8才児が爆誕するんだろうな?
 子どもは本当におっかない。

 僕が『雨』が同性だと知ったのは1年前だ。
 ちょうど内乱が終わった頃。
 チョコレイトを入手したので雨や他の子らに届けようと思って、昼間に赤鳳楼に行った。雨だけが広間におらず、雑居部屋にいると言われて行ってみたら、ちょうど着替え途中で素っ裸だった雨に出くわした。
 雨に、なかなかな『馬』がついていたのだ。
 僕は氷菓子のようにひんやりと凍りついたさ。思わず触りに行ってしまった。
 現実だった。可愛いのが、ぷらぷらしていた。

「修行?」
 そう尋ねると、雨は笑う。
「はい」
 実に、悪い顔をしている。男だとわかっても、やっぱりなんか、気になる子だ。

 そして、本当に凍てつくような。
 あの茶店の『修行』とはそういうことだったのかと、大の大人を震撼させることが半年後に起こった。
 雨が、少年娼婦になったのだ。
 齢、9つ。
 彼はあの繁盛店で「顧客を作っていた」。
 そして僕は、彼が『教え子』だから知っている。
 雨が、この数年間でどれだけの勉強をしてて、どんな書籍をどれだけ読んでいたのか。
 彼の『馬』を見た雑居部屋にも、書籍がうず高く積み重ねられていた。
 戦争、政治、経済、古新聞、辞書等。
 それが、何を暗示しているのか。
 それなのに、雨は最初のお客さんに何故か『僕』を指名した。

「なんで」
 僕は、本当に憂鬱だった。子供を抱く趣味はない。ましてや男を抱く趣味などない!
 僕は、女の子が大好きだ。
 そりゃあ、未幸ちゃんの代役で雨にはよくお酌をしてもらってはいたけど。あの頃は雨が「女の子」だと思ってたし。可愛いな、いつかやらせてくれ、なんて思ってたけど、『馬』を見ちゃったし。それでも可愛いけども。
 ていうか、9才でしょ。
 何、独立してんのさ。
 しかも楼主が「本人たっての希望」だと言っていたよ?
「頭、大丈夫?」
 雨に尋ねる。大丈夫ですよ、と、嫣然とかわされてしまう。真朱の重ね襟に白無垢、浅葱の打掛。新調された装衣に身を包む色白の小さな姿は、最高と言うに相応しい。
 9才の男の子のうなじに色気を感じちゃうとか、もう本当に勘弁してほしい。
「もっと、大人になってからでもさあ」
 男色にもそれなりの需要があることは知ってるけども。幼児にも需要があることは知ってるけども。僕は、それには興味はない。僕は女の子が好きだ。
「僕は、男の子なので」
 雨は空いた盃に冬の新酒を注ぎ足す。
「女性だと四つですが、男性だと三つ、旬があります」
 何が、と問うと、雨はあだやかな笑みを返した。
「ただの子供、声変わりの時、そして毛がモジャモジャになる頃、ですね」
 月色の目は笑っていない。口元の笑みは消さないまま、雨は摯実な言葉を紡ぐ。
「僕は『娼婦』になるためにここに来ましたから」
 その全ての旬を使うことが使命です。
「逆に、遅すぎたと思っています」
 1年前、終戦の彼誰。
 本当はそれが一番良い「売り出し」時期だった。
「なので慌てて、西門の茶屋で客引きをして、ようやく、ですね」
「莫迦なの?」
 男の子じゃん。普通に妓楼の使い走りでいたらいいじゃん、なんて、僕は思った。
 そこらの女子よりも可愛いのはわかるよ。可愛いもん。めちゃめちゃ可愛いもん。
 でもその年で、そんな自分を諦めることある?
「莫迦かも」
 雨は、人形のように綺麗に笑う。
「でも、楼主さまが僕に費やした金額は、家を数軒買える金額だったと聞いています」
 僕は、ぞっとした。
「僕の倫理は、ただ『それを返すこと』です」
 その時に、僕は雨を理解できた気がした。ほんの少しだけだ。
 この子どもは。
 自分というものすら、ない。目標しかない。
 大人たちに呪われている。

 僕は、先生失格かな。

「じゃあ、なんで僕を指名したの」
 尚更、こんな至らない一介の一普通の僕を、何故君は指名した?
「さあ」
 雨は、笑う。
 そして。
 彼の紅をさした唇が、僕の唇をそっと奪う。最初はさらりと、そして少しずつ、濃厚に。
「なんとなく、です」

 この子を壊したい、と、唐突に思った。

 壊したら、痛みを教えたら。この子は自分の大切さに、自分への愛情に、自分の『存在』に気付くかもしれない。
 無茶苦茶にしてみたい。気付かせたい。
 この子の『本当』を暴きたい。

 壊そう。
 それが僕が生まれて初めて他人に抱いた、暴力的な劣情だった。


***


 そうして実際に壊して僕が見たものは、雨という子どもの淵源だった。

 雨の本能は、僕が流し込んだ劣情に激しく呼応した。それは子どもに相応しくない「もっと壊せ」という言葉で表現された。
 僕以上の、破滅的な劣情だった。
 うわごとで、壊して、もっと壊して、と雨は言った。「壊せ」と訴え続けた。
 だから僕は、己の劣情に任せてより強く雨を壊した。犯しまくって、罵りまくって、雨という子どもを心身ともに滅茶苦茶にした。そのつもりだったし、全力で壊したつもりだった。
 足りない、と言われた。
 殺してくれ、と、9才児が叫んだのだ。

 もちろん、殺さなかった。
 逆に、落ち着け、深呼吸しろ、と宥めた。何故なら、あんなに冷静で狡猾な雨が引き付けを起こしたからだ。それでも、殺して、壊して、と嗄声を零す。
 僕はその小さな背中をさすった。雨の体はひどくふるえ、しばらく止まらなかった。意識を失ったり、取り戻したり。その度に、壊れたい、と乞う。僕は、大したことも言えず、雨を抱きしめることぐらいしかできなかった。それを彼は無意識に、弱々しく、もがいて逃れようとする。
 この子どもに「自分を大切にしろ」と言う勇気は僕にはなかった。そして、その器に愛情をたとえ注いだところでもう「手遅れ」だと感じた。愛憎は同一だ。淵源が憎しみである以上、きっと何も変わらない。それでも。
 雨が「いやいや」しても、僕は黙って彼を強く抱き寄せた。
 本当に、先生失格だ、と思いながら。そういうのは早く言えよ莫迦、と、思いながら。
 
 雨はそれから色んな大人と密な関係を結んでいった。想像するだに、危ない橋を次々と渡っていったんだろう。彼と次に会ったのは2週間ほど経ってからだった。
 子どもは飲み込みが早いと言うけれど。
 彼は、すっかり変わっていた。得体の知れない何者かに変わって、艶やかさと華やかさ、小悪魔のような、黒黒とした目に見えないものを身につけて、浅葱の打掛を翻す。
 あの日僕が目撃した雨の劣情は、二度と見ることはなかった。僕も、二度と見せなかったけどね。
 雨は11才で色街の頂点に立った。
 嫋やかに笑んで、ハレの道をゆく。彼が望んでもいなかった、ハレの道。

 雨があの時「壊して欲しかった」のは、現実世界のことだったのかもしれない。自分も、世界も、終われ、とでも思っていたのかもしれない。今となってはそう感じる。
 読んだ書籍、読んだ辞書。それを一言一句、見ただけで覚えられるような、そんなとんでもないあの子どもでも、どうしようもない未来しか見えてなかったのかもしれない。
 でも、あの子はどうにかして赤鳳楼に多額の利益をもたらさなくてはならなかった。
 子どもの頃からそうあれこれ考えて、自分を疎み、憎み、本心をひた隠しにして、体を売った。9才じゃ遅かったなんて『嘘』を言いながら。
 きっと、苦しかったね。

 もうすぐ、新しい秋がやってくる。色街は、相変わらずだよ。でも、来年には里親制度が施行されるよ。女衒も廃止になる。
 少しは、君の遺志に寄り添えてると良いけれど。
 どうかな。

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