見出し画像

死の媛(九)


「君は、どこから来たのか」 
 最初の会話は、彼の出自についてだった。

 初めて会ったあの日。母の提案で、私は彼に王宮の案内をすることになった。
 連れ立って歩き、「ここは礼拝堂」「ここは、控え室」などと気のない案内をしながら、弟となった少年にそれを尋ねた。
「二城です。燦州の」
 彼はそう答えた。声変わりしたての彼の声は、見た目に違わず、まろみを帯びて美しい。
 名前を「雨」といった。
 雨は私の斜め後ろをついて歩きながら、初めて目にするであろう王宮内の装飾画や調度品、壁、絨毯。そんなものを上下左右、キョロキョロと見回していた。その度に黒い蓬髪がふわふわと揺れる。そんな子供じみた所作すらも、彼が行うと何故か麗しく見える。
 私には、この子が市井の出身だとはとても信じられなかった。
「これまでは何をしていたの?学生さん?」
 そう問うと、違います、と言う。
「宿屋で働いていました」
「宿屋?」
 子供が働く。確かに、彼のいた燦州は長引いた内乱もあって貧しく、そういうこともよくある話なのかもしれない。が、当時の私はその答えにも違和感しか覚えなかった。彼の気品に優れた所作と一地方の宿屋が、どうしても結びつかなかった。
 雨は、そんな私を見透かすように、嫣然と笑った。
「はい。宿屋です」
 どこか、寂しげにも見えた。
 少し顰めてもまだくるりとした、月色の不思議な目。その左頬に、3つのほくろがあることに私はいまさらに気づいた。大中小、3つのほくろが色白の頬にくっきりとある。小さなほくろは目尻のすぐ下に。大きなほくろは耳寄りに。中ぐらいのほくろは小鼻の傍に。
 まるで星座のようだと思った。

 私は、新緑に萌える大庭園に彼を誘った。
 正直な話、王宮には千単位の部屋や広間がある。案内なんてしきれないと思っていた。実際にあの時、全部は回らなかった。
 あの日は、とても良い天気だった。昼下がりの庭園を適当に散策しながら、彼と色々な話をしたように思う。まず、彼は14才だった。好きな食べ物は麦餅と葡萄。チョコレイトも好きだと言った。ただ、二城ではあまり手に入らないのだそうだ。私は自分の通う大学の傍にある洋菓子店のチョコレイトが美味しいことを彼に教えた。本を読むのが好きだと言った。王宮内に図書館があることを教えると、行きたいと彼はねだった。
 図書館へ向かうことになった。
 その道中、聞きにくいことですけど、と前置きして、彼が尋ねてきた。「もう、許嫁の方はいらっしゃるのですか?」
 今思うと、彼が何故そのことが気になったのか、よく分からない。「いるけど、あんまりで」と本音を漏らすと「どんな『あんまり』なのですか?」と問いかけてくる。渋々『あんまり』の内容を話すと、彼は屈託なく笑ってくれた。

 翌年の元旦に、彼は「天渺宮」になった。
 そして「天祥の象徴」となって、その1年後、諸州を女王陛下と共に巡幸するまで、よく一緒に遊んだ。
 すっかり彼を「雨」と呼ぶことにも慣れて、それは今でも変わらない。
 毎夜、すっかりと寝静まった頃に、私は決まって彼の部屋に忍び込んで、市井で流行っていた骨牌で遊んだ。キャルト・ア・ジュエという名の異国の骨牌で、雨が王宮に来る時に持ち込んだものだ。
 負けることが悔しくて、夜明けまでよく遊んだ。彼はそれにいつも付き合ってくれた。
 結局、一度も彼には勝てなかった。
 同じほくろを自分の顔に筆で書いて、「今日は勝つ!」と入室した時には、雨は顔をくしゃくしゃにして大笑いした。
「何それ、可愛い」と彼は言った。

 最後に彼に会った日、彼は、何を言っていただろう?
 諸州巡幸に出立したあの日、「行ってきます」でもなく、「またね」でもなく、彼は、何かを言っていた。とても些細なことだったのだろうか?
 まるで思い出せない。


***


 李宮、最上階。
 総裁執務室の壁時計は、22時を示していた。
 並べられた二つの遺体。
 そのうちの一つ、瑠璃色の寝巻に身を包んだ遺体には、数え切れないほどの真新しい銃痕が残っていた。

 少し濡れた黒い蓬髪、華奢な肢体。
 薄い唇。
 青の輪郭と瞳孔を有する、とても不思議な月色の瞳。
 手燭の炎で、ほの赤く染まる月。
 そして、左頬の、3つの星。
 見開いたまま絶命したその瞼を、小さく開かれたその薄い唇を、女王は順に、閉じる。

 まるで神様のような子だった。眩しくて綺麗だった。
 私の弟。
 少し大人になった、その遺骸。

「やっと、見つかった」
 遺骸を見つめる女王の顔に、表情はない。
 その名を呼ぶ。

「雨」


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?