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死の媛(終)

 今年も、10月23日がやってきた。

 燦州、二城市西部。
 日暮れ間近の秋空は、雲ひとつ見当たらない。

 長閑な丘陵地で車を降りた嘉国女王は、施設関係者と軽く挨拶を交わす。真新しい門をくぐり抜け、石畳の小径を歩き出す。
 小径の両側には数え切れないほどの薄紫の花束が供えられ、地面を可憐に覆い尽くしている。
「きれーい」
 愛らしい声が、女王の左手を振り解く。ぱたぱたと走り出すのは幼女だ。薄紅色のひらひらの洋装は、彼女のいちばんのお気に入り。それを着て叔父さんたちに会いに行くのだと言って聞かなかった。そんな頑固なところは、私似かもしれない。
「転ぶよー」
 娘の走っていくその先には、或る人影がある。丸眼鏡に涅色の上下。右手には薄紫の花束を、左手には抱え鞄を携えている。

「わ、娘ちゃーん!」
 駆け寄ってきた幼女を、荷を投げ捨てて抱き上げる。ぐるぐる、と回して、すとんと下ろす。
 遠目で娘が、一体どこで覚えたのか、敬礼をしている。笑い声がする。
 女王はゆっくりと歩み寄る。
「お久しぶりです、先生」
 前回はこの子を出産する前だったから、会うのは4年振りだ。
 先生の風貌はまるで変わらない。私は少し太った。
「まさか殿下までご一緒だなんて。相変わらず驚かすのがお上手だ」
 娘を連れて行くことを、先生には内緒にしていたのだ。
 女王は、少し先にある建物の方を見る。
「娘に『叔父さん』を見せようと思ってね」
 娘が写真の叔父さんを見て、そうねだるから。
 そう言うと、先生は「いい子だねえ」と、娘によしよしした。

 小径の先にある建物には『天渺宮廟』と大きく彫られた石札が掛けられている。その外壁にも、隙間なく花が手向けられている。先生が手にする花束と同じ、薄紫色の花束ばかりだ。花径は小さく、手毬状の花弁が愛らしい。
 この花は、瑠璃茉莉という。

 一周忌の時、墓廟はまだ完成していなかった。しかし、そこに多くの市民が殺到した。そして、立ち入りできないその四方に様々な花や供物が手向けられていった。
 翌年の三回忌には墓廟が完成し、公開された。その時には既に、瑠璃茉莉の花が多く手向けられるようになっていた。
 聞くところによると、二城の或る花屋が天渺宮の命日を『瑠璃忌』と称し、瑠璃茉莉の花は10月23日の花であるから、それを手向けましょう、と売り出したのだそうだ。それが爆発的に広まった。今ではその呼び名も、手向けられる瑠璃茉莉も、すっかり定着した。
 月色の瞳が印象的だった彼が「瑠璃」の名で偲ばれることは不思議なことのようにも思われたが、朝日、夕焼け、燭光、様々な色で色味を変えた彼の瞳孔は、瑠璃色に似ていたように思う。 

「今日は、朝からずっとここに居ました」
 先生は娘の小さな手を引きながら、墓廟に続く残りの小径を歩き出す。
 列が絶えませんでした。瑠璃茉莉の山を眩しそうに見渡して、何かを思い出したのか、くすくすと笑う。
「ここ、『天渺宮廟』じゃないですか?」
 首を傾げる女王に、先生は向き直る。
「意外とね、『雨さま』って呼びかける人の方が多かったな、って」
 やはり燦州では『雨さま』の方が馴染みがあるんですね。
 墓廟の前に辿り着く。
「……そんなに『認知』されているのか?」
 雨が天渺宮であるとは公表していないし、もちろん、死の媛が天渺宮だったことも公表していない。
「燦州ではもはや常識のようなものですよ」
 破顔する。
「3人とも、同じ目、同じ顔なの、燦国のみんなが分かってましたから」
 先生は、敢えて『燦国』の名を使った。「僕も、知っていました」そう言って、来た道を振り返る。
 瑠璃茉莉の花群れが一面に広がっている。
「いいなあ。僕もこんなふうに、雨ぐらいにモテてみたいものですよ」
 相変わらず、軟派な物言いをする。
「そしたら、人生結構違うじゃないですか?」
 女王はなんとも言えず、丸眼鏡の壮年の顔を見つめる。いつもどおりの相変わらずな『先生』だが、その眼差しは寂しさを湛えているようにも見える。夕陽が当たっているからだろうか。
「まだ、独身で?」
 きっとそうなのだろう。
「もちろん」先生は胸を張って答える。「でも、今は2人、養子がいますよ」
 え、と女王は目を見開く。びっくりした。「養子?」
 先生は、また笑う。
「どうか雨にはご内密に。ね?」
 妬けられちゃうと困っちゃうから。

 墓廟内は日が翳るのに合わせ、少しひんやりとしていた。
 四面は東西南北を向くよう、石材によって造られている。見上げる天井は高く、砂岩と白大理石を幾何学模様に嵌め込んだその円蓋は、まるで満月のようにも見える。
 矩形窓が5つ。それぞれに異なる枠が象られ、採りこまれた外光は細長く、正方形の室内を思い思いに照らしている。
 彼は、その中央に安置されている。
 白大理石の棺の周りにも瑠璃茉莉の花が多く手向けられ、彼の本体はその摸棺の下、地下深くに眠っている。棺は、象徴だ。中には遺品が仕舞われている。
 少し、こわいのだろう。娘が先生の手を離れ、私にしがみついてきた。その柔らかな体を優しく抱き上げる。
 棺の前へ連れてゆく。
 棺の蓋には花を模した彫刻が施され、その中には古代語が絵画のように記されている。彼のことを記した一文だ。『我国天祥の象徴たるは月色の眸』。
「これが、雨叔父さんだよ」
 娘にそう紹介する。いないよ、と、可愛らしい正直な言葉は、大人たちには悲しく聞こえる。
「そうだねえ。いないねえ」
 先生が朗らかに答えて、手にした瑠璃茉莉の花束を棺の上に置く。白大理石に瑠璃色がよく映えた。
 雨。女王が棺に話しかける。
「これが、『あんまり』さんの子だよ」
 あんまりさん?と、先生が少々素っ頓狂な声音で尋ねてくるので、女王は思いがけず哄笑する。あの時の雨とのやり取りは、今となってはとても面白い。
「私の夫のことだよ」
 雨と初めて会った日、王宮の大庭園で、私の許嫁が『あんまり』であることを彼に漏らした。その理由を、雨に言った。
 その件を先生に説明すると、予想違わず、先生はその場に膝から綺麗に頽れてくれた。
「それは、」
 笑い転げている。雨もきっと、あちらの世界で笑ってるだろう。
「まるで、僕だね」
 そうなのである。
 雨があの時に屈託なく笑ったのも、きっとそういうことだった。
 許嫁がとんでもない女ったらしだったのだ。
 私が『すずね』で先生と初めて会った時も、許嫁そっくりだ、と密かに思った。あの時に、雨が『あんまり』な許嫁の話で笑った理由にようやく思い至ったのだ。
 彼が大好きだった『先生』によく似ている、と。

「あー」先生は丸眼鏡を外して、白色のハンカチで涙を拭う。
「泣いちゃった」
 女王も笑う。涙を拭う先生の中指には、女王も見慣れた、雨の指輪と「同じもの」が嵌められている。

 それから日が暮れるまで、私たちは「4人」で、色んな話に花を咲かせた。眠たくなってしまったのだろう。途中で娘がぐずってしまったけれど、雨叔父さんが『ルリ』をあやしてくれたのだろうか。
 ルリは、すう、と眠ってしまった。

 私たち王族、そして数ある宮家も、成人して身分が確定するまでは確固たる名称がない。
 今、私の体に埋もれて眠る幼女にも、正式な名前は存在しない。
 付けられた綽名で、大人になるまで育つ。
 ルリも綽名だ。
 そして雨も、その点においてわたしたちと少し似ていると思う。彼の名前も綽名だ。
 雨の『本当の名前』を先生に聞いてみたけれど、先生もさすがにそれは知らなかった。

「そろそろ、行きましょうか」
 すっかり座り込んでいた先生が立ち上がり、お尻をはたく。「ちゃんと『あの』部屋を用意しておきましたからね」
 料亭すずねの、瑞兆の間だ。先生にお願いしていたことである。
 鉄製の格子戸を開け外に出ると、すっかりと世界は闇に閉ざされていた。
 仄白く浮かび上がる瑠璃茉莉の小径を戻りながら、私は、先生に聞いてみたかったことを思い出した。
「先生」
 呼びかけると、立ち止まり、「うん?」と振り返る。
「6年前の、李宮の落城の時、」
 そこまで言って、言葉に詰まる。なんて言えばいいんだろう。語彙力が足りない。しばらく言い悩んでいるうちに、私たちは門まで辿り着いてしまった。
 ちょっと待ってね、と言って、先生が墓廟の方に向き直る。
「またねー」
 実に先生らしい別れ方だ。
 私も、眠るルリの手を取って、バイバイ、とやる。
「……で、どう、思っているか、ですか?」
 車に乗り込みながら、先生の方から言葉が紡がれた。私は、首肯する。私もルリも、その右隣に座る。
 車は、緩やかな坂道を下り始める。眼下に見える二城の夜景。あの中で雨が生きていたのだと思うと、不思議な心持ちになる。
「さあね」
 先生は小さく笑い声を立てる。「昔のことだからもう忘れましたよ」
 はぐらかされたと思った。この人は、いつもそうやって逃げる。
 少し悩んで、やはり、話したいと思った。
「『死の媛』が」
 外を眺めたままそう切り出すと、背後の気配が少し変わったような気がした。
「あの時、死の媛がどう動くかは不確定要素だった。拳銃を渡して、彼女が動かなければそのまま最上階まで侵攻する作戦だった。総裁が、何かしらの方法で逃げることも予測していた」
 一気にそこまで言って、先生の方を向く。先生も、窓の外を見ていた。
「本当は総裁と逃げて、生き延びてほしかった」
 沈黙。
 車輪の地面を擦る音。車体がカタカタと揺れる音。
 ルリの寝息。

「多分、雨は、わざとヘマをしたんですよ」
 先生は当時、私の臣下だった絢と話した内容を、私に教えてくれた。絢に「雨」のことを教えてくれと、せがまれた時のことだという。
「絢ちゃんが、雨のことを『真面目』だと思っちゃったから」
 それは違うと言った。
 雨は、したたかなだけだと。
「晴れ舞台で、子供らしくヘマをするか。子供らしからぬ所作で、完璧な宵花さまを演じるか。11才で初めて雨が『宵花さま』になった時、彼には2つの選択肢がありました」
 ふつうの子供なら、そんなことすら思いつかない。晴れ舞台で浮かれたり、いっぱいいっぱいになったりして、そんなことを考える余裕すらないだろう。
 そうでしょう?と、先生が少しだけこちらを向く。私は、自分のあれこれを想起しながら、そうかもしれない、と、頷く。
「でも、雨は『そういう生き物』だった」
 彼は後者を選んだ。自分をより売り出すために。
 ただこれは、本人が言っていたことじゃないんですよ、と先生は言い置く。あくまで僕の主観です、と。
「自分という『真っ当じゃない』宵花の、地位の確立が、まず一つ」
 先生は虚空を見ている。おそらくそこに、彼の愛した人がいるのだろう。
「それから、そんな自分を支持した人たちへの感謝だとかもあるし、自分と同じような社会的少数者への、これは、なんて言えばいいんだろうなあ」
 思案した先生は、「そういう人たちの、素敵な未来、かな?」と言った。
「きっと彼は、そこまで考えていたような気がします。自分だけならヘマしても良かった。でも、それをしようとしなかったのは、それ以上の『意味』や『価値』があったからだろうな、と思うんですよ」
 女王は、彼が「天渺宮」になった後のことを思い出していた。
 飼い猫と呼ばれた、雨。彼は、何の反論もしなかった。その答えも、同じなのだろうか。
「死の媛は、ヘマをした」
 先生は『第三』の彼をそう評した。「おそらく、わざとね」
 あ、と思う。
「完璧な『死の媛』を、演じ切るために」
 嘉国による燦国平定のために。もっと言えば『燦国の終わり』の象徴になるために、総裁を殺し、自分が「殺される」必要があった。
「そして、あの『生き物』は、その先に起こるであろう未来をも、演出した」
 死の媛の躍動した場所は、閉鎖された国、燦国。
 二城の伝説の少年娼婦『雨』。嘉国の天祥の象徴『天渺宮』。燦国の正義の象徴『死の媛』。
「燦州の人民なら誰もが、その3人が同一人物だと『分かっていた』。そんな自分が非業の死を遂げた時、自由を取り戻した燦州の人たちは様々な思いで『動く』。燦国を知る人たちを中心に、それが嘉国へと広がる。そして、それは『確立』される」
 それは、『瑠璃忌』という行事が「作られる」未来。
 雨、天渺宮、死の媛。
 三者で作り上げた、この国の平和への希求。
「本当に、商売上手な子だよ」
 先生は呆れ顔で、そして照れ臭そうに顔を綻ばせる。
 女王は、雨がしきりに『先生』の話をしていた理由が、ちょっとだけ分かったような気がした。
 先生は彼の「良き理解者」だったんじゃないだろうか。

「にしても、あの遺言は、本当に、勘弁してほしかったよ」
 それは、私に向けた言葉ではなかった。先生の虚空に見えている「雨」に毒付いたのだろう。

『私が不慮の事態で亡くなった時、このお金を孤児のために寄付してほしい』

 天渺宮の死後、私室を整理した時に見つかった、走り書きの遺書。
 それは、鍵付きの机の引き出しに、大金と共に仕舞われていた。おそらくは諸州巡幸の前に、彼が遺したものだ。
 紙は、少しだけ古びていた。
 それを、王宮で先生に見せた。それが、先生との二度目の逢瀬だった。

「おかげで、僕の人生は大変なことになりましたよ」
 まいったまいった、といった風情で、涅色の体を崩す。先生はあれから李宮を辞し、燦州で孤児を支援する事業を立ち上げた。
「あれから、ずいぶんと孤児院も増えたのでは?」
 先生は、そうだねえ、と、しみじみした面持ちをする。6箇所、燦州に創設して、来年には州外にも2つ、出来る予定です。
「あのお金を元手に、その後、寄付者も増えて、協賛してくださる大店も増えていって、働いてくれる人たちも増えて、おかげで助かりましたよ。正直、一介の文官だった僕に法人のお頭が務まるなど、あの時は到底思えませんでしたから」
 それもこれも。
「『雨』が残してくれた、多くの『縁』のおかげです」

 車は、市街地へと入った。
 以前よりも明るくなった二城の街並みが、後ろへ後ろへとたなびいてゆく。秋の宵花祭の賑わいが、少しずつ近づいてくる。
「彼の残した花が、形になる」
 先生は、こちらを見て、また笑った。「宵花さまは、美人に限ります。女王陛下もね」
 そこに寂しげな様子は一切なかった。いつもどおりの先生だった。

 そういえば。
「先生の養子は、孤児?」
 2人の養子がいると、先程言っていた。
「そうですよ」
 先生は懐から一枚の写真を取り出す。実は、見せようと思って持ってきたんです。
「いやあ、男の子を育てるのは大変ですねえ」
 女王はそれを覗き込む。

 そこには、もじゃもじゃ頭の少年と、丸眼鏡の少年が、緊張した面持ちで写し出されていた。

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