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最近やっと「読書」が趣味と言えるようになった。

先日ようやく卒業が確定し、ついに無事、学生を終える運びとなった今日この頃。二週間後には社会人になるのかと思うと、やはり震える。そしてこうも思う。自己紹介をひたすらし、新しいコミュニティの場に飛び込む時期がまた来たのか…と。

自己紹介するとき、必須項目と言えるような、定番のネタになるフレーズがある。それは「趣味」が何か、である。この趣味で、いかに個性を出せるか。社会人であれば話はまた別かもしれないが、学生なんて、初対面であればあるほど、第一印象で、友達や付き合いが決まってしまう場合も少なくない。

わりと最近まで、私はこの「趣味」を答えるときに、何を言うべきか困っていた。

好きなことは、たくさんある。とくに、美しいものを見ることが好きだ。絵でも、オブジェでも、スイーツでも、コーヒーでも、家具でも。おそらく、視覚的にワクワクすることが好きなので、高校生の時も、もうすぐ終わる大学生活の中でも、休日は常に、寮や家の外に出ていた。

旅行もその一環で、好きなのかもしれない。今まで見たこともない景色、文化、人のるつぼ。五感全てで、新しい空気を感じられる旅は、大きな刺激になる。でもやっぱり、その土地ならではの、自分が今までふれたことのなかった美しいものを見ることがやっぱり好きなんだと思う。

でも、これはやっぱり好きなことであって、果たして「趣味」と言えるのだろうか…。美術館巡り、カフェ巡り、旅行etc...まあ言えなくもないが、極めているかと言われるとウーン。「趣味は、美しいものを見に行くことです」なんて言ったもんにゃあ、変わり種感満載である。無難で、誰でも納得してくれて、次の会話や話題に繋がりやすいものと言ったら。

そこで私が、模範解答のように繰り返した言葉が「趣味は読書です」だった。

無難の極みである。人生で、一度も本を読んだことがない人、触れたことがない人は、きっとあまりいない、はず…。と思って、出した結論だった。最近、放映されているドラマや映画も大体が書籍や漫画が原作であるし、本を読まない人でも、映像メディアに触れている人は多かったので、会話が繋がることが多く、普段ドラマや邦画をあまり見ない自分としては、ありがたい会話口になった。

しかしその実、この回答についても、自信はあまり持てなかった。と言うのも、知り合いに多読をしている人が多く、且つその知人たちは多ジャンルを読みこなすので、圧倒的な読書量と知識を持っていた。彼らを考えると、やっぱり自分は、彼らとは違うような気がした。だからこそ、「趣味は読書です」と言いながらも、当たり障りない程度だけどね、と心の中で自ら勝手に付け加えていた。

ただ、私は読書を、多読とまではいかなくとも、してこなかったわけではない。

本との関わりは、来日した20年前に遡る。来日したばかりの3歳半の私の記憶といえば、自転車のカゴに乗せられて見る緑豊かな景色と長閑な住宅街、そして母の背中である。自転車の行き先は、大体が公文か、家の近くにある市立図書館だった。当初、私は全く日本語が話せなかったため、母は日本語の練習として、日本の絵本をよく読み聞かせてくれた。

自分が子年だからかわからないが、とにかく「ネズミ」に関する絵本を貪るようにねだった記憶がある。有名どころで言えばポプラ社の「ネズミくん」シリーズや、童心社の「14ひき」ねずみ絵本シリーズあたりだろうか。絵本を通して、私の日本語力がとりあえず身についたことは、まず間違いない。

公文と絵本のおかげで、ひらがなとカタカナと少々の漢字を習得した私は、年中で幼稚園に入る頃には、ぺらぺらと日本語をしゃべり(と同時に、韓国語を急スピードで忘れていった)先生に得意げな顔をして、自分の名前をひらがなとカタカナで書いてみせるませた子供だった。

絵本を読むと、文字がわかると、大人に褒められる。そう気が付いたのも、この頃である。俄然読む気になったものである。年長に上がると、今度は漫画に手を出した。家のすぐ近くに、漫画一冊50円で販売している古本屋さんがあった影響が大きい。ふりがながついている漫画を中心に読んでいたこともあって、漫画を読み出した結果、漢字の読みスキルが一段とアップすることになった。

その結果、小学1年生の頃には、やたら分厚い本に挑戦したくなり、「ハリーポッター」シリーズに手を出すと言った無謀なことをしたりした。(当然読めるはずもなく、小学3年生で再チャレンジした)私がそういった行動に出た背景には、本を読むと、やはり大人に褒められ、同級生にちょっとだけ尊敬されるという、ませた子供にとってはこの上なく気持ちがいい経験ができたからである。

中学生に上がるタイミングで渡韓し、一旦日本を離れるも、日本人寮で生活していたので日本語と、日本語の本は、常に身近にあった。本は重い。荷物になる。でも日本は恋しいし、日本語も恋しい。そう思った先輩たちが、多かったに違いない。寮の図書室には、先輩たちの遺産とも言える膨大な量の本が置いてあった。

スマホも、パソコンも、漫画も、ゲームも、全部禁止。おまけに門限は夜の7時。遠出できるのは、必然的に土日のタイミングになる。だが、バイトも禁止されていたため大したお金もない。そうなると外出する機会は良くて隔週ペースになる。

それでは、限りなく多くの時間を過ごさなければならない寮内で、私は一体何をしていたのか。勉学とノリで始めた絵画教室以外の選択肢は、まとめると部活動、おしゃべり、読書の三択だった。とりわけ暇をつぶせる且つ寮内の先生の評価も高まる行為は、やっぱり読書だった。

この頃には、読書することは自分の中で、明確に好きで意味のあるものになった。本を読むと自分も楽しいし、先生にも安心されるし、国語の成績も上がるし、読書やっぱりグッジョブだわ、と思っていた。自分でも日本から本を持ち込み、友人とおすすめの本を貸し借りするような、本とは共にあった留学生活だった。

転機が訪れたのは、大学生になってからだ。まず大学1・2年生の頃、本を本当に読まなくなってしまった。これまでの経緯を総括すると、高校生まで自分がそれでも本にふれ続けたのは、「本が好きだから+暇が潰せるから+大人や周りに認められる一つの要素だから」以上3点の理由によるところが大きい。

本が好き、と言う気持ちは残っていたが、大学生になり、スマホを持てるようになった+バイトできるようになり、使えるお金が増えた+自分で授業を組めるため、自由時間を確保しやすくなった=本に頼らなくても暇は潰せるし、大人を気にする歳でもない=本読まない。と言う流れになったのは、まあ妥当とも言える。

そんなこんなで、2年生まではちゃらんぽらんに遊び呆け、フランス語の単位もいくつか落とし、留年だけはしないように最低限の勉強はしながら、予定は詰めるといったような生活をしていた。それはそれで楽しかったけれど、漠然とした焦りも感じていた。なんか、自分どんどん空っぽになってるかも、と。

私のそうした気持ちを払拭してくれたものが、ゼミだった。一年生の頃に受けた授業が面白かったこともあり、私はジェンダー学を専門的に学ぶことができるゼミを選択した。ちょうど#MeTooが世界的なムーヴメントになる直前だったこともあり勉強を始めるタイミングとしてはナイスだったと心から思う。

ゼミの教授は、割とえげつない量の課題を出してくる人で、きちんと本を読んで知識をつけないと授業にリアルに付いていけなくなる雰囲気だったこともあって、私は大学3年生になり、ようやく本を読まない期間から脱却することになる。2年もの間、本を読まなかった時間を取り戻すように、私は読書に身を投じた。

学術書や専門書、エッセイ、新書、ノンフィクションなど、今までふれてこなかったジャンルの本を読むことは新鮮で、衝撃を受けた。本から知識を得る、あるいは物事を批判的・客観的・俯瞰的な姿勢で見つめる力を身につけることはこんなにもワクワクすることなんだと思った。

本を再び読み始めたことは良かったものの、不思議なことに高校生まであれだけ読んでいた小説に手を出すことには躊躇いを感じていた。如何せん小説を読まなさすぎて、どんな作品が面白いのかわからないし、小説コーナーに行ってもピンとくる本がない。なんだか、メディアで紹介された話題作!みたいな宣伝文句を見るとミーハーっぽくてヤダな、と読む気が失せる。(これは完全なる私の捻くれた感覚)

リアリティを求めるなら、ノンフィクションの方が鬼気迫るものがあるし、世の中の動向や流行、社会問題を知りたいのであれば新書の新刊コーナーに行った方がわかりやすい。ファンタジーに触れたいなら、漫画の方が軽く読める。こんなことをぼんやり思っていた。つまり、小説の力を舐め切っていたのである。なぜなら、私は高校生まで、小説を暇つぶしの用途で読んでいたためである。なんてこったい。

この考えを改めた契機となったのが、「母親が精神を病んだ」ことだった。母を看病しながら、圧倒的な精神疲労と途方もないくらいの時間を感じた。最初は、本を読む気すら起きなかった。かといって、漫画も読みたくない。重すぎるものも、軽すぎるものも、受け付けられない。そのような中で、何人かの友人が、励ましの言葉をくれたり、これ面白いよ!と次第におすすめの本や作家さんを教えてくれた。

おすすめされたものの大半は、普段手に取らないであろうタイプの本たちだった。私は気が付くと一つ。また一つとその本たちを手に取り、読み始めていた。その中に、小説がいた。大学生になって、全く読まなくなった小説。成人して小説を読むこと自体が、おそらく本当に久しぶりだった。

大人になって、読んだ小説は、今まで自分が考えていた「小説」とは少し違った。きちんと、難しかった。高校生の時にふれていた小説とはジャンルも作家さんも異なったことが影響しているのだろうけれど、どれもウーンと考えさせられ、共感し、重すぎず、軽すぎす前向きになれる魅力がそこには詰まっていた。フィクションだからこそ感じる、身近にありそうでなさそうな、でもありそうな話。この距離感が、非常に心地よく感じられた。

大学生が終わろうとしている、社会に出る直前のこのタイミングで、小説にまた触れ合えたことに、私はとても意味を感じる。これは、役に立たない。とか無意味、とか。自分には興味がないこと。みたいに、何かを選別してしまうことは誰にでもあると思う。私は、いつの間にか、読書すること自体を選別し、読む本自体を選別していたのではないか。そしてその枠に自分を収めようとしていたのではないか。

古市憲寿さんが、アナザースカイか何かで言っていた言葉が不意に思い出された。彼は社会学者であり、作家でもある。論文も書くし、小説も書く。印象に残っているのは「自分にとっては、小説の方が自分の言いたいことを正直に読者に伝えられる」と言う言葉。論文だと、結構配慮しなくてはいけないことが多くて実は言いたいことがそこまで伝えられない、ということも言っていた気がする。

小説は、作者の経験や価値観や考え方が、ストーリーやキャラクターをベースに、時には抽象的に、時には直接的に表現されている作品だ。つまり、私が大学に入ってから読み出したジャンルの本たちよりも、下手すると一冊の中に詰まっている、トピックや要点の引出しは多様で豊富である。古市さんの言葉を聞いたとき、余計にそう思わされた。

途中で、本を全く読まなくなった時期もあったし、満遍なく色々な本を読んでいるかと言われると、今でも好みの本のジャンルはやっぱり偏っている。でも、一周回って、やっぱり私は本が好きだし、読書が大好きだ。自分にとって未知であったり初見の、ジャンルや作家さんの本に手を出すことに、もう躊躇いはないし、どんどん新しい世界を知りたい。たくさんのものを吸収したい。

私は、もう趣味が何かと答えるときに、迷わない。私の趣味は「読書」だ。自信を持って、読書が好きだと言える。ずっと続けていきたいし、本と寄り添う人生でありたいと思う。趣味が読書と自信を持って言えるようになるために、文章としてnoteに整理しようと思ったら、ここまで長くなってしまった!

あまりまとまっていないけど、本日はここまで。

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