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Waltz for Venus

近頃、というよりここ1年半くらいのことだ。四半世紀以上生きてきて、ようやく体得した技術がある。

それは「休むこと」である。

それまで、特に考えることもなく、休まずに研究をしていた。週末も平日も関係なく、朝、昼、晩と研究をしたり勉強をしたりしていた。もちろんたまには具合が悪いということもあるが、具合が悪くなれば休めばいいだけだった。もしくは年に1、2回、実家に帰ってぐうたらさせてもらえればそれでよかった。
この習慣ができてしまったのは完全に大学受験のせいだ。ドラゴン桜の受験生もかくありきというようなうら若き受験生だった頃、朝から晩まで文字通り昼夜を問わず勉強に明け暮れていた。おかげで大学受験はどうにかなったが、不眠症という副産物を今も抱える羽目になった。

昨今、世を騒がせているものがあることは言うまでもない。連日のように病院の悲鳴が報道され、その悲鳴が聞こえない人がパーティーをして、更なる悲鳴を生み出すという、原因・結果・対応の絶え間ないワルツが私の心を疲れさせる。

医療関係者の皆様方には頭が上がらない日々が続くが、私にできることは少ない。少ないながらも、まずできることは「自分の健康を保つ」ことだ。
これまで通り休みなくやってもいいのだが、体調を崩しては元も子もない。せめてガタが来ないうちに自分の心身を定期的にメンテナンスしてやろうと思う。
あえて余暇を設定することで、気にもとめてこなかった家の周りを散策して思わぬ発見があったり、本業とは関係のない本を読んだりすることができた。これは私の人生の中でも大きな収穫だった。

幸か不幸か、このご時世においては「休むこと」に対するハードルが幾分下がったように思われる。いろんなところに体温計が設置され、熱があれば帰って寝ることになるし、それについて悪いという人も少なくなった。むしろ「帰って休め」といわれるのだ。

そういう風潮は、多くの人にとってはよいものであってほしい。余程の場面を除けば、具合が悪い時まで働け、という態度がそもそもどうかしていたのだと気付けただけで儲けものだ。事実、思い切って休んだほうがその後の活動の能率がグンと上がる。

「具合が悪いなら帰って休むべし」というのは、「あなたのことが心配だから早く帰ってゆっくりしてね」と「あなたが具合が悪いと私たちも具合が悪くなるかもしれないから」の二つの意味が織り込まれているのは言うまでもない。なお、この一節は完全なる蛇足である。

*   *   *

それでもなお、私の中には一抹の不安がある。

私の個人的バイブルである『方丈記』に、鴨長明はこのように書いている。

「昔斉衡のころとか、大地震振りて、東大寺の仏の御頭落ちなど、いみじき事ども侍りけれど、なほこの度にはしかずとぞ。すなはちは、人みなあぢきなき事を述べて、いささか心の濁りもうすらぐと見えしかど、月日重なり、年経し後は、ことばにかけて言ひ出づる人だになし。」(『新訂 方丈記』岩波書店より)

極端に意訳すると、「むかし大地震があった直後はみんな助け合ってて人間も捨てたもんじゃないと思ってたけど、今となっては誰もそんなことを言い出す人はいない」というものだ。

もしや鴨長明は未来が見えたのではないかと思われるくらい、この一文ほどに的確に歴史の性質のひとつを言い当てたものを私は知らない。それは「繰り返す」ということだ。

心当たりはないだろうか。災害が起きた直後などに、お店のレジ横に募金箱が設置され、お釣りの小銭を入れてみたこと、そこに千円札や一万円札などが入っていて驚いたことはないだろうか。
何か大きな、多くの人に影響を与えるような災いの直後には、その箱にお金を入れようとするものだ。私だって経験がある。

しかし、一過性のものではなく、今なお継続して問題を抱え続けているにしても、そこにお金を入れるこころが、どこか遠くに行ってしまっているように思われる。
もちろん、何かが起こった直後にはいろんなものが不足することもあるし、瞬間的に多くのものが必要な場合もある。ずっともらってばかりいては、逆に処理に困ることだってある。私が大学4年生の時、台湾南部で発生した地震の支援募金をしたが、現地の役場の人からは「もう足りている」と言われた。

しかし、問題の解決はなにもお金に限ったことではない。
しかも今ここで考えたいのは、支援をする心構えのことでもない。
問題が起こらなければ自分のこと、相手のこと、互いのことは適当に扱ってしまうということ、それが大事なことなのに時間が経つと忘れてしまうことだ。

このことを批判したいわけではない。私だって身に覚えがある。おそらく、忘れては思い出すことで人間というのは繋がりをもつものなのだろう。

ただ、それが正しいとするのなら、「定期的に休む」とか「無理をしない」とか、そういうことが断固として許されない、甘えだと断じられる時が必ず来る。戻ってくる。
パソコンや施設のメンテナンスにはお金を使うのに、労働者のメンテナンスは行われないのが当たり前という世の中が不変のものとして続いていく。そして、過労死というものが社会問題になってから、そういった態度が見直される。しばらくは改善され、また少しずつ元通りになっていく。

某映像作品においては、歴史とは戦争、平和、革命の終わりのないワルツであるといわれていた*。その中のひとつひとつにも、原因・結果・対応という小さなワルツが延々と奏でられているのではないだろうか。

たしかに、今の世の中は不便ではある。
ただ、これまで当然受け入れられるはずだったのに受け入れられなかった「休む」という営みが、やっと当然のものとして組み込まれつつあるという点では悪い面ばかりではない。

なんの反省もなく、壊れそうなものを壊れるまで使うことがないよう、「繰り返す」ことのないよう祈るばかりである。さもなければ、私は鴨長明と同じ言葉を綴るしかなくなるだろう。


*「劇場版 新機動戦記ガンダムW  Endless Waltz 特別篇」より、マリーメイア・クシュリナーダの発言より引用。


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