クィアベイティングについての猫黒歴史さんの記事を読んで。ーその3 先行研究の(雑駁な)検討と思いついた「新たなアプローチ」


凡例

・ブログだと、頁番号や行数も指定できず不便であるので、各節毎に、段落番号を付した。記載箇所を指定する場合は、「第○節第○段落」というように指定する。
・編集・追記等する場合は、編集箇所の周辺に、(yyyymmdd追記)というように付記する他、冒頭の「編集・更新情報」にも情報を載せる。
・noteの「引用機能」は、他と分けて表示でき、便利であるので、引用の他、図や表、論理式を他から区別して記す場合にもこれを利用することがある。その際には、自分で作成したものについては出典欄に「rinp12」と表示する。
・書誌情報の記載はAPAスタイル、出典明示の方法はハーバード方式を意識するが、ブログだからという甘えもあり、厳密には引用方法を統一していない。

編集・更新情報

(20240212) 「凡例」「編集・更新情報」を追加
(20240212、18時頃追記) 第2章第2節第2段落の終わりに「※1」を追加 
(20240215、12時頃) 「引用・参考文献一覧」の項を追加
(20240215、12頃頃追記) 本記事脱稿後、読んでいる本、読もうと思っている本、参考になりそうな文献を紹介する。
_Brennan, J. (Ed.). (2019). Queerbaiting and fandom: teasing fans through homoerotic possibilities. University of Iowa Press.  →クィアベイティングについて書かれた本という意味で現状では貴重かも。
_藤本由香里. (1998). 私の居場所はどこにあるの?: 少女マンガが映す心のかたち. 学陽書房.  →(堀=守 2020: 92)で紹介。
_堀あきこ.(2010). 「ヤオイはゲイ差別か?――マンガ表現と他者化」好井裕明(編). 『セクシュアリティの多様性と排除』明石書店. 21-54  →(堀=守 2020: 234)で紹介。
_上野千鶴子.(1998). 発情装置ーーエロスのシナリオ 筑摩書房.
_山本充. (2007a). 総特集◎ 腐女子マンガ大系 (ユリイカ 6 月臨時増刊号, 第 39 巻, 第 7 号).  →(堀=守 2020: 234)で紹介。
_山本充. (2007b). 総特集◎ BL スタディーズ (ユリイカ 12 月臨時増刊号, 第 39 巻, 第 16 号).  →(堀=守 2020: 234)で紹介。
_守如子.(n.d.) 「BL 研究のための文献リスト」https://www.yuhikaku.co.jp/static_files/17454_booklist.pdf  (2024年2月15日)
_ジェームズ・ウェルカー(編). (2019). BLが開く扉ーー変容するアジアのセクシュアリティとジェンダー 青土社  →(堀=守 2020: 235)で紹介。
_石田仁. (2019). はじめて学ぶ LGBT 基礎からトレンドまで. ナツメ社.  →(堀=守 2020: 234)で紹介。

(20240224、8時頃)  第6章第7段落の終わりに※1「Lesser Evilーーーーjus ad bellum(jus ad queerbaiting ) から jus in bello(jus in queerbaiting) へ」を追記。


はじめに


1 この記事は、以下の猫黒 歴史さんの記事(と、それに対する私の記事)の続きである。


2 前回の記事では、先行研究等を探す姿勢すらなかったので、本記事では、先行研究等で参考になりそうなものを提示してみる。いずれも、目次欄をざっと見しただけである。通読はしていない。

  ※1 長文をばんばん投稿して申し訳ないが、第6章では前記事と全く異なる議論を展開している。そこだけでも読んでほしい。
  
※2 本記事投稿時(20240211 午前4時頃)までに更新された猫黒さんの記事と追記、には目を通してあると思う。
  
※3 本記事から先行研究の検討をはじめているし、考え方も大きく変わったので、拙前記事(『クィアベイティングについての猫黒歴史さんの記事を読んで。ーその2』)を読む価値は、益々減退したかに思うが、拙前記事があることで、一応、私の思考過程を検証することはできると思うし、私自身は、当該記事の思考を引き継いでそれを超克しているつもりなので、そのまま、過程を残すことにする。

3  第1章〜第4章では、文献の紹介を行う(第1章〜第3章の「タイトル」が、そのままその章で紹介する文献である)。第5章、第6章で、新たな検討を行った。先行研究の検討では「クィアベイティング」そのものに対する新たな示唆が得られたわけではないが、第6章では、これまでと真っ逆さまな議論をしているので、そこだけでも読んでもらいたい。




第1章 堀あきこ・守如子(編) (2020).  『BL の教科書』. 有斐閣.

1  本章では、「堀あきこ・守如子(編) (2020).  『BL の教科書』. 有斐閣.」の記載で、参考になりそうなものを紹介する。

第1節 BLと女性嫌悪

1  BLと女性嫌悪についての記載があり、金田淳子の言葉が引用されている。

「女性が女性嫌悪(ミソジニー)を抱くと、女性でない存在(それは男性としてしか表象できない)に自己同一化しようとする。それがやおいとして現れる。」(金田淳子(2007). 「マンガ同人誌ーー解釈共同体のポリティクス」佐藤健二・吉見俊哉編『文化の社会学』. 有斐閣. 168頁)

書誌情報はrinp12が付記。
(堀=守 2020: 89)

  しかし、本書はそれに続く箇所で以下のようにも述べている。

「上野〔rinp12注:上野千鶴子〕は、美少年による女性嫌悪の表明という仕掛けによって、少年への過剰な同一化を防ぐことで、身体的な性愛の表現が可能になったことを指摘している・・・藤本〔rinp12注:藤本由香里〕によれば、作品に描かれる女性嫌悪の言葉は、この社会における女性の立場を批判的に読み解いてみせるものであるという。上野も藤本も、「女性嫌悪を抱く一部の女性が男性に自己同一化している作品が少年愛作品である」とは読み解いていないことがわかる

太字はrinp12
(堀=守 2020: 89-90)

第2節 BLと百合の違い

  75-76頁に「BLと百合、近くて遠い2つの世界」という田中康夫のコラムが載っている。以下、抜粋。百合とBLと一緒に論じることの不可能性が示唆されるが、本記事では、必ずしも両者を分離して検討することはできなかった。

「結局のところ、「ある作品が百合か否か」を判断する「基準」というものはどこにも存在しない。その不確かさこそが、BLと百合の(少なくとも現時点での)、最大の差異である。ただし、百合がこのように不確かな領域として成立しえたのは、男/女間の根本的なジェンダーの非対称性によるところが大きい・・・赤枝香奈子が示唆するように、男性の欲望を基準に構築されてきた近代的なセクシャリティの枠組みのなかでは、女性の「愛(親密性)」と「性」は男性の場合ほど「分離・独立」したものではなかった〔rinp12注:赤枝佳奈子(2011). 『近代日本における女同士の親密な関係性』角川学芸出版。〕・・・その功罪については措くとしても、同性愛的な百合であれ、「ソフト」な百合であれ、このような非対称性こそが百合というジャンルに映し出されていることを見逃してはならない」

(堀=守 2020: 76)

  田中によると、百合はBLよりも「不確か」なものという特質がある。つまり、女性同士の場合は「親密な友情」と「同性愛」との境界が曖昧なのに比べて、男性同士の場合は、「親密な友情」と「同性愛」との境界が明確であって、要するに、同じ様に「イチャイチャ」していたとしても、女性同士の場合には、友情の連続線上の現象とみられる余地があるのに対して、男性同士の場合には、「イチャイチャ」が「BL営業」だと眼差されやすいといえるのではなかろうか。
  このことからすると、クィアベイティングの認定も、「BL」に対する方が、「百合」に対するものよりも、安易に認定されやすいとか、そういうこともあるかもしれない。

第3節 「やおい論争」

  「やおい論争」とは「佐藤雅樹「ヤオイなんて死んでしまえばいい」、および高松久子からの応答「『敵ー味方』論の彼方へ 1」に始まる一連の論争」(堀=守 2020: 76)のことである。
  論争初期における佐藤の「ヤオイ」批判の要点は以下の2点であるようだ。

①BL作品を愛する女性たちは、従来フェミニズムが異性愛男性向けポルノグラフィに対し批判してきた「見るー見られる」の構図を、マイノリティであるゲイ男性に対し当てはめ、「見る側」としての快楽を得ている。
②BL作品で描かれるのは美しい男性のみである。ゲイの過剰の美化は、実存するゲイ男性に対する抑圧として機能する。

(堀=守 2020: 222)

  堀あきこは、これに対し以下のように応答している。

「堀あきこは佐藤や石田の批判に対し、ジェンダー不平等が現に存在する社会において対等な「関係性」を描くため、そして性規範のダブル・スタンダードのもと女性が自由に物語を楽しむために、BL作品では男性同士の組み合わせが選ばれていることを指摘した〔rinp12注:堀あきこ(2010). 『ヤオイ』はゲイ差別か?ーーーマンガ表現と他者化』好井裕明編著『セクシャリティの多様性と排除』. 明石書店. 27.〕。また堀は、BLがゲイを記号として、ファンタジーとして扱っている点に、愛好する女性たちは自覚的であることも指摘する〔rinp12注:同書42頁〕」

(堀=守 2020: 225)

「そのうえで堀は、BLにおいて2人の関係が「究極の恋愛」であることを表現するために異性愛規範やホモフォビアが持ち出されることを問題視する。BL作品がゲイの男性登場人物を他者化・抽象化して描くことは、生身のゲイに疎外感を抱かせることにつながり、(社会に存在するホモフォビアとはまた別の形で)ゲイ差別に加担していることになる・・・「ゲイ男性」に痛みをもたらすような、現実とファンタジーの狭間でゲイ男性を引き裂く様な表現」を克服していくことが求められると述べる(rinp12注:前出、堀 2010: 48)。

(堀=守 2020: 225)

4  さて、私は以前の記事で同性愛関係が「究極の恋愛」であると眼差されることを指摘し、それを肯定するような以下の表現をした。この記述は、堀によって非難され得るだろうか。

つまり、この世は異性愛イデオロギーに支配され、男女間の性愛については、男女でつがいになるべしという社会からの外的圧力に身を阿るものしかなかったり、あるいは定型化された性欲に甘んじるものでしかなかったりと、屈服的・服従的である。対して、そのような圧力・観念の檻に囚われないで、能動でも受動でもないよう形で不可避的に(時に社会規範に反することも厭わず)相手に性愛を求めてしまう同性愛的関係性にこそ、中動態としての性愛関係の真実性が立ち上がってくるのだ、とか。そういう風な同性愛のピュアな称揚の意識もないではないような気もする。

拙記事『クィアベイティングについての猫黒歴史さんの記事を読んで。ーその2』第10節第4段落

5  堀は同性愛関係を「究極の恋愛」であると表現することそれ自体が悪いといっているわけではなく、そのために、「異性愛規範やホモフォビアが持ち出されることを問題視する」ようだ。確かに、異性愛規範やホモフォビアが作品内で、同性愛の称揚のために用いられることはある。しかし、それがどうして問題なのだろうか。ホモフォビアも異性愛規範も現実の今日の社会に存在する。そのような社会意識を相対化して、「真」としての同性愛関係を描くことに如何なる問題があるのか。そのような作品を見た読者が、異性愛規範やホモフォビアな感覚を内面化するとでもいうのであろうか。そのような場合はあるとしても、極めて特殊な読者であると思えてならない。ナチズムのドキュメントを見て、ナチに染まるような特殊な読者への配慮をすべきなのだろうか。→(第2章、第3章、第5章、第6章で立場を覆す。)
6  もちろん、BL作品内で描かれる異性愛規範やホモフォビアを目撃すれば、当事者は嫌悪感を抱くだろうが、それは必要な痛みだろう。異性愛規範やホモフォビアが存在しないような虚構を描き、新たな社会のあり方を提示するというのも、私は、重要なクリエイターの仕事であると思うから、その意味で、異性愛規範やホモフォビアの描写を捨象するような世界の描き方も模索されるべきだとは思うが、しかし、そのことは、「異性愛規範やホモフォビアを描くことが悪である」ことを意味しない。というよりも、私が知りたいのは、「異性愛規範やホモフォビアを持ち出すBL作品で、なにかゲイ差別に加担するような問題のある具体的な作品は存在するのか」というものである(前記事で述べたように、私は、ジェンダー論フェミニズムの文脈でクィアが登場する作品に触れてきており、あまりラフなBL作品等に触れていないのもあって、考察資料となるものが少ない)。猫黒さん含め、思いつくものがあったら教えて欲しい。→(第2章、第3章、第5章、第6章で立場を覆す。)

7  溝口彰子は、「やおい論争」等の議論を以下のように整理しているようだ。

「多くのBL愛好家が『ゲイの目線を気にする』ようになった後に、とくにホモフォビアについて、それを自明のものとせずに克服しうるものとしてその方法を模索する進化系BL作品が創作されるようになった」

溝口彰子(2015). 『BL進化論ーーボーイズラブが社会を動かす』.太田出版.

8  しかし、このような整理も上記に述べた理由から甚だ疑問がある。果たして、「ホモフォビアを自明とものとすること」と、「ホモフォビアを克服すること」は両立し得ないのだろうか。「ホモフォビアを自明のものとするBL作品」とはクィアを語り手とする以上、必然的に、「ホモフォビアな社会の中で生きる同性愛」を描くことになる。そのような作品がホモフォビアへの否定的な視点を内包せずに果たして存在しえるのか疑問である。そのようなBL作品があれば教えて欲しい(もちろん、ホモフォビアを自明のものとしており且つホモフォビアへの否定的な視点を内包していない「非」BL・百合作品は現在でも、無数に存在するが、私が教えて欲しいのは、ホモフォビアへの否定的な視点を内包していないBL・百合作品である。構造上、そんなものは存在しえるのだろうか)。→(第2章・第3章、第5章、第6章で立場を覆す。)

第4節 表象の横奪

1  前記事(『クィアベイティングについての猫黒歴史さんの記事を読んで。ーその2』)の第3節第9段落で、「論拠(b)属性盗用問題:性的少数者の属性・アイデンティティを(主に非当事者が)無自覚に流用・簒奪することへの非難の視点」として紹介したものは、既に、石田仁によって「表象の横奪」として議論されていたようだ。石田は「BLが現実のゲイ男性たちという存在に依存することで成立していると指摘したうえで、そこで当事者であるゲイ男性の実際の生を無視したかのような、身勝手な表象が行われることもある点」を「表象の横奪」と呼び、批判するようだ(堀=守 2020: 224)。さらに石田の批判は次のように展開する。

「石田は一例として、BL作品において、「俺はホモじゃない! 男が好きなわけじゃない! あいつが好きなんだ!」と主張する男性主人公が多数いるのに対し、その幸せを阻む恋敵としてのゲイの脇役がしばしば登場すること、逆のパターンはないことを例示し、「表象の横奪」におけるこうした「配当の非対称性」がゲイ差別の再生産につながることを示唆する」

(堀=守 2020: 224)

2  しかし、この石田の指摘の妥当性にも疑問がある。自己の同性愛的感性の働きに気づき、ヘテロとホモの境で苦悩する主人公が多いのは、そういった物語の方が、”話として展開しやすいから”であろう。何ら苦悩のない物語を描いて面白くまとめることは難しい。さらに、石田は「配当の非対称性」がゲイ差別の再生産につながるというが、これも甚だ疑問である。ゲイの恋敵が第三者として登場することがなぜ、ゲイ差別の再生産につながるのだろうか。例えば「腐女子」が、恋敵としてのゲイの脇役にヘイトを募らせ、同性愛者なるものへの差別感情を増幅させていくとでもいうのだろうか。是非、BL愛好家の方達に話を聞いてみたい。→(第2章・第3章、第5章、第6章で立場を覆す。)
3  尤も、「配当の非対称性」の問題性については疑問があるが、文化盗用問題とパラレルに考える意味での「表象の横奪」というもの自体の抽象的な問題性については、さらに分析が可能であると思うし、ここに面白い論点があると個人的は思っている。

第5節 小括

1  さて、以上の様に、個々のトピックについては反論ばかりしたが、同書は、後で挙げる書籍群と比べ、「BL」についての既存の議論を鳥瞰できるという点で、足がかりとして優れているように思う。猶、本書は通読していない。

第2章 溝口彰子. (2023). BL 研究者によるジェンダー批評入門: 言葉にならない 「モヤモヤ」 を言葉で語る 「ワクワク」 に変える, 表象分析のレッスン. 笹間書院

1 本章では「溝口彰子. (2023). BL 研究者によるジェンダー批評入門: 言葉にならない 「モヤモヤ」 を言葉で語る 「ワクワク」 に変える, 表象分析のレッスン. 笹間書院」の中で、参考になりそうな箇所を紹介する。

第1節 「なぜ「BL 的な売り方」がいけないのか?」

1  243頁以下に、「なぜ「BL 的な売り方」がいけないのか?」というパートがある。クィアベイティングという語は使われていないが、映画においてBL的な表象を宣伝に使うことが否定的に評価されている。曰く、「作品に対しても観客に対しても失礼なこと」「企画・脚本・・・始めクリエーター達に対して、ひいては・・・取材した実在のゲイ達に対しても失礼」とのこと(243-244頁)。詳しくは論じられていないが、総体として練り上げられた作品が、「サービスショット」的な宣伝によって単純化されることが、製作者、作品、観客に対して「失礼」になる、と述べられている。また、「「イケメン同士のキスさえ見られればいいんだろう?」とばかりに、観客をバカにした振る舞い」(244頁)であるとも述べられている。いずれも、製作者倫理とか、宣伝機関倫理とかそういった観点での批判である。

第2節 『おっさんずラブ』

1  溝口(2023)の177頁以下で、単発ドラマ版『おっさんずラブ』と連続ドラマ版『おっさんずラブ』の比較の批評が載っていた(rinp12はどちらのドラマも見ていない)。以下は、全くネタバレせずに、書く( というか見ていないのだから、ネタバレもできないのだが)。要するに、批評で指摘されていることを抽象化・一般化して検討する。
2  そこでは、①「「ホモなんか気持ち悪い」というような台詞」の存在、②「ゲイを怪物として描くこと」、③「社内でのアウティング」等の問題点が指摘されていた(連続ドラマ版では、単発ドラマ版での如上の問題点が概ね克服されているとされていた)。以下、②→①→③の順で考える。

 ※1(20240212 18時頃追記) 気をつけなければならないのは、溝口が、上記の”演出”について一様に悪いという判断をしているわけではないことだ。②③については、製作者(ないし広報部)サイドへの批判になっているが、①については、それが「単純に世間のホモフォビアを反映しています」と述べるだけである。「世間のホモフォビアを反映」することのみは、必ずしも悪ではなかろう。「世間をホモフォビア」を露悪的に描き批判対象としていることもあるからである。しかし、溝口は、それが「単純に」なされているということには否定的な評価をしているようにもみえる。

第3節 ②「ゲイを怪物として描くこと」

3  溝口によると、BLの消費のされ方には、読者・視聴者がホモフォビアを内面化させながら、忌避される対象としての「ゲイ」については疎外し、しかし、それとは断絶された「ボーイズラブ」については称揚する、といった傾向が存在するという(猫黒さんも似た様な両義性を指摘していたが、ここにきてやっと理解できた気がする)批評を読んでみると、確かに、②「ゲイを怪物として描くこと」(ゲイを怖い存在として表象すること)の表現の背景には、「ゲイは抵抗あるが、しかし、マイルドな”BL”的自己感性に悩む男の子は愛らしい」というような意識はあるのかもしれない。先述した、「ホモフォビアな表現を含むBL作品は、そのホモフォビアな作品世界に存在するクィアを描くのであって、そこに構造上必然的にホモフォビアへの否定の意識が内包されうるからいささかも問題がない」、というような私の考え方は誤りかもしれない。確かに、”ゲイ”は嫌だが、”ボーイズラブ”は好き、というような意識のあり方は存在しえて、尚且つそれはさしてマイナーでもないのかもしれない。そういう意味では、”ボーイズラブ”を輝かせるための”ゲイ”の利用がなされる時に、ゲイへのオフェンシブな表現が、ホモフォビアへの否定的意味を内包せずに軽薄に使われる場合もあるかもしれない。斯様に”ボーイズラブ”と”ゲイ”を対称的に考える視点が私に抜けていたように思う(私自身は、両者をそれほど峻別して作品消費をしていなかった。そういう実存的問題もあるかもしれない。そもそも、視聴者には私の様にジェンダー論を勉強したことがある人は少ないかもしれない)。
4   そうか、成程、ゲイとボーイズラブにそのような形で境界が引かれ、対照的に表現されることがあるのか、と。このことがどうやら重要なような気がする。ある種の「shipper」「腐女子」は、「ゲイと連続する存在としてのBLを欲望しながら、消費する」場合の他に、「ゲイと非連続なBLを欲望し、消費しながら、ゲイへの抵抗は継続させる」という場合もあるのであろう。むしろ後者の方が多いのかもしれないが、定量的なことは分からない。私は、前者に近く、よって、BLを享受しながら、ゲイを忌避するという思考がなかなか理解できなかったのであるが、ここで漸く理解できた気がした。少し個人的な記憶の話をすると、例えば日本の作品で、萩尾望都『ポーの一族』だとか『エヴァンゲリオン』だとかを見て、抽象的にいいな、と思った様な昔の記憶を辿り、それらの作品を考えてみると、これらの作品は、ゲイとかボーイズラブとかいう概念が対照的に浮かび上がらないような曖昧で牧歌的な描写が主であったし、逆に、『君の名前で僕を呼んで』とか『ブロークバックマウンテン』を見た時には、そういう概念が顕在化していたけれど、既にジェンダー論に興味を持っており、尚且つ作品内でホモフォビアへの批判的視点が明確に提示されていたから、そこに問題性を抱く余地がなかった。
5   もっと、ラフなBL作品を読まないといけないなとか。

第4節   視聴者のリテラシー次第?

1  尤も、①「「ホモなんか気持ち悪い」というような台詞」、②「ゲイを怪物として描くこと」についても、それが問題を持つかどうかは、見る側の意識による気もする。
2  例えば、①「「ホモなんか気持ち悪い」というような台詞」の存在は、そのような言葉が横たわる差別的社会で、同性愛的空間に足を踏み入れる”ゲイとヘテロとの中間形態”としての(あくまで”ゲイ”との連続体である)主人公の葛藤の背景が描かれているのだと見ることもでき、そのように解釈する視聴者にとっては、さして問題は感じられないし、実際に問題もないのかもしれない。そこでは、忌避される「ゲイ」と分離して「ボーイズラブ」が享受されているわけではなく、「ゲイ」との連続体としての主人公がそのままに「ボーイズラブ」として享受されるからである。そこでは凡そゲイの他者化も忌避も行われていないように思う。その意味では、①「「ホモなんか気持ち悪い」というような台詞」もそれ自体は、使われ方によっては必ずしも悪ではなかろう。
3  ②「ゲイを怪物として描くこと」についても、そのようなホモフォビックな価値観(ゲイを怪物として眼差してしまうような価値観)を内面化させてしまっている主人公が、その「怪物」(「ゲイ」)と自分自身との同一性、連続性に気が付くことによって、”ゲイが怪物”なのではなく、”そのように規定する社会”が怪物なのだと、自己価値の世界を超克していく物語の演出だと読むことができるのではなかろうか(詳述はしないが是枝裕和の『怪物』は正にそれが主題化されていた)。そう見れば、「ゲイを怪物として描くこと」もそれ自体は、必ずしも問題ではなかろう。
4  以上のように、①「「ホモなんか気持ち悪い」というような台詞」②「ゲイを怪物として描くこと」についても、見る人が見れば(解釈の仕方によれば)、何ら問題のない表現と捉えられなくもないようにも思う。
5  ③「社内でのアウティング」も、アウティングという概念に慣れ親しんだ人が見れば、アウティングが簡単になされてしまう社会を露悪的に描いたメッセージと受け取れるのでなかろうか(そういった善意の解釈が不可能な演出だったのだろうか)。
6  そう考えると、どういった表現が悪いのか良いのかというのは、視聴者のリテラシーという条件で根本的に覆るというように思う。私は、あまり、ラフな消費空間のコミュニティにいないこともあって、思慮深い市民、思慮深い視聴者、を前提としてしまっていたのかもしれない。猫黒さんの方が、現実に即した視聴者像の理解ができているような気もしてきた。
7  ここで『おっさんずラブ』が問題のある作品といっているわけではない。あくまで、抽象化した議論の材料としているだけであるというか、繰り返しになるが本記事執筆時点で作者は『おっさんずラブ』は見ていない。見なければ。

第3章 溝口彰子. (2015). 『BL 進化論 ボーイズラブが社会を動かす』.太田出版.

1  通読はしていない。163頁以下、「ホモフォビアの葛藤」というパートがあり、ここでは、BL作品で描かれるホモフォビアについて述べられる。溝口は、ホモフォビアを超克するようなBL作品を進化系BLと表現したりしているようであるが、ここにも読み手の意識の違いが存在すると思われる。
2  簡単にいえば、私の場合、昔のものから今のものに至るまで、クィアが登場する作品ほぼ全てを、「ホモフォビア・異性愛規範を否定するベクトル」のものとして解釈し見ていた。それは、私がボーイズラブとゲイを連続的に把握していたからに他ならないだろう。しかし、ボーイズラブとゲイを峻別し、ゲイへの差別意識を温存ような読者がいる限り、作者は、まさに溝口の示唆するような配慮ーーー読者がボーイズラブを称揚しながら、他者化されたゲイを排斥するような構えをとらないようにする様な配慮ーーーをすべきなのかもしれない。
3  ここでもやはり、想定するオーディエンス像の違いが、作家のあるべき規範の考え方に影響を及ぼしている。私は、想定するオーディエンスを思慮深いものと規定しすぎてしまっていた嫌いがあるかもしれない。
4  しかし、他方、溝口がいうように、従来の「腐女子」的なるものが、溝口の再三指摘するほどまでに、ホモフォビアを内面化させているのかどうかはやはり、個人的には疑問が拭えない。それは、客観的に如何に自省的に考えてみても、自分にホモフォビアが内在していなかったように感じるという実存的問題が理由かもしれない。小さい頃から、フレディ・マーキュリーもボーイ・ジョージも私のヒーローで憧れの対象であった。これには世代的な問題もあるように思う。例えば、みうらじゅんのサブカルジェッターというラジオ番組で(第3回2007年11月10日大槻ケンヂ(筋肉少女帯)、峯田和伸(銀杏BOYZ))でのエピソードが思い出される。みうらじゅんは、中学の時エルトン・ジョンが大好きだったのだが、友達に「エルトンジョンってホモらしいぜ」と聞き、ジョンが付き合っていたバーニー・トーピンが作詞した曲『Your Song』を、今まであんなに好きだったのにも関わらずぞーっとして、嫌いになったそうだ。ここで、みうらじゅんを責めたいのではなくて、そういう時代や環境によって規定される意識もあるということだ(彼も、年食ってからは、「いやむしろそれがいいんだ」と思う様になったようだ)。
5  私の場合は、環境・時代がホモフォビアの種を私に埋め込まなかった。いや逆に「クィア」なものを、かっこいい存在として感覚していたのだと思う。

第4章  その他、参考になりな予感がするが、読んでいない本等

・東園子. (2015). 宝塚・やおい, 愛の読み替え: 女性とポピュラーカルチャーの社会学.  新曜日社.
        →宝塚ファンと「腐女子」について

・『ユリイカ12月号 特集 BL オン・ザ・ラン!』青土社,44(15)
        →BL全般について

・マッキノン, キャサリン A・ドウォーキン, アンドレア. (2002). ポルノグラフィノと性差別(中里見博・森田成也訳). 青木書店.
        →表現の自由とモノ化

・マッキノン, キャサリン A. (1995). ポルノグラフィ 「平等権」と「表現の自由」の間で(柿木和代訳). 明石書店.
        →表現の自由とモノ化

・田倉保「パブリシティ権」田倉整先生古稀記念『知的財産をめぐる諸問題』497頁(発明協会、1996)
・内藤篤・田代貞之「パブリシティ権概説」205頁以下(木鐸社、第3版、2014)
・田村善之「不正競争法概説」507,526頁(有斐閣、第2版、2003)
       →フリーライドの悪性について議論されている法学の分野。 

第5章 まとめ

1  先行研究をあたってみて、気がついたこと。第一に、管見の限りクィアベイティングについての直接の言及は見当たらなかった。が、BL/百合的な消費のあり方への批判は、数多くあった。これらの議論は、BL/百合的な消費のされ方をされる作品、あるいは、著名人とファンの関係性等に、共通する議論であるから、必ずしも、クィアベイティングに固有の問題ではない。
2   しかし、気がついたことは、私が想定していたよりも、もっと危険性が強い形で、特にBLに関しては消費されている可能性があるということであった。それはある意味で、猫黒さんが予告していた通りであるが、要するに、「ゲイと非連続なBLを欲望し、消費しながら、ゲイへの抵抗は継続させる」という様な消費のあり方が存在し、尚且つそれがあるコミュニティの中ではメジャーであるかもしれないのだと、思い知った。
3  私は、いわゆるオタク空間・コミュニティにいたわけでもなく、個人で距離を保ちながら、しかも、ジェンダー論やフェミニズムといった政治的正しさを追求する学問体系の中にありながら、クィアが表象される作品や空間に接しており、そのことが、消費社会の見積もりのある種のズレを生んでいたように思う。簡単に言えば、消費者は、私の想定したよりもっと無自覚でホモフォビックであると規定するのが正確かもしれないということだ。
4  そのことを前提にするならば、前記事でいうところの、クィアベイティングへの非難の相当性の程度は上がり、許容性の判断も変わり得る。なぜならば、私は、基本的にはBL/百合的消費をするファンは、同性愛についても肯定的な意識を醸成するだろうと思っていたところが、実際には、「ゲイと非連続なBLを欲望し、消費しながら、ゲイへの抵抗は継続させる」という様な消費のあり方が全景化しているとなると、当然、同性愛的表象を顧客誘引に用いること自体についての正当性が揺らぎ、その顧客誘引手法の自由度に制限をかけるようにも思うからである。
5  この場合に、非難の対象となるのは「同性愛的関係の商品化」そのものであり、非難の根拠は「論拠(a)人権擁護:同性愛的関係を商品化すること自体の反倫理性という非難の視点」「論拠(b)属性盗用問題:性的少数者の属性・アイデンティティを(主に非当事者が)無自覚に流用・簒奪することへの非難の視点」(前記事第3節参照)に加えて、差別の再生産への非難の視点、ボーイズラブから切り離され疎外されるゲイの存在という非難の視点、等があるということになろうか。
6  猶、繰り返しになるが、これは、「同性愛的関係の商品化」そのものへの問題点であって、クィアベイティングに特有の論点ではない。クィアベイティングの主要な特徴は、「嘘」で「釣る」ということであるが、私の中ではやはり、クィアベイティングと目されるものでよく見られる「ほのめかし」という程度の態様での「嘘」、で「釣る」こと自体には、必ずしもそれほど大きな反倫理性があるとは思えない(その程度のことは、現代資本主義社会のあらゆるものが商品化される流れの中で当然に思えるという意味で)。(→10段落以下で立場を改める)
7  さらにいえば、「同性愛的関係の商品化」でなく、「クィアベイティング」に特別に非難が集まるのは、実質的には「論拠(d)期待権保護:消費者・読者・視聴者・ファンの期待を裏切っているという非難の視点」でしかないことが多いように思われ、その実質は、フラストレーションの発露の正当化ということでしかないように思ったりもするのである。
8  BL/百合的な表象に使用価値があると認識されれば、それが多様な在り方でマーケティングに利用されるのは当然であるし、その過程のみーーつまりクィアベイティングーーを非難対象にするのは、難しいように思われる。→(第6章で一部考えを改める)
9  結局、クィアベイティングであるかどうかではなくて、そのコンテンツ、消費関係全体を見て、①「嘘」の存在の明白性、② 配慮のテーゼへの抵触の有無、③目的の適切性(拙記事第8節15段落以下)や、本記事で先行研究を通して確認してきた、差別の再生産がなされないようになっているかゲイがボーイズラブから切り離され疎外されていないか、等、具体的生産ー消費関係の総合的な考慮により、それが非難に値するか否か(=そのマーケティング手法、表現が許容されるか否か)が判断されるべきでなないのだろうか。→(第6章で一部考えを改める)

10  ここで、では、クィアベイティングであるかどうか(「嘘」で「釣って」いるかどうか)は、ある現象の反規範性判断として如何なる意味を持ち得るのか、再度考えてみる。
11  まず、「嘘」(実際は同性愛者ではないこと)が反倫理性の判断の分水嶺となりるのかについて考えてみると、一見、それが大きな意味を持っているように思える。つまり、例えば、アイドルやVtuberが行う「BL/百合営業」(例:「イチャイチャ」)と目されるものについて考えてみると、アイドルやVTuverが「同性愛者でない」にも関わらず同性同士で「イチャイチャ」していた場合には、直ちにクィアベイティングの批判の可能性に晒されるが、他方、アイドルやVtuberが実際に「同性愛者」である限りは、その「イチャイチャ」は、単なるリアルな生活の一場面のメディア空間への発露・漏洩に過ぎず、それは演出でもマーケティングでもないといえる。よって、「イチャイチャ」という「BL/百合営業」を行う主体が、真に同性愛者である場合には、それが反倫理性を持つものとしてクィアベイティングだとの非難対象になる可能性は閉ざされているとみることもできるかもしれない。そう見た場合には、「嘘」(同性愛者でないのに、、、)の有無が反倫理性判断の分水嶺になるように思える。
12  しかし、考えてみると、非同性愛者が同性愛的表象を欺罔してマーケティング利用することがあるのと同じ様に、真たる同性愛当事者がその真たる属性をマーケティングに利用することも当然ある。どちらの場合も、行為主体であるアイドルやVtuberは、画面の向こうにオーディエンスが居り、自己の振る舞いがインプレッションの多寡に影響することを自覚しているだろう。そうすると、彼ら彼女らが「イチャイチャしてみせる」ことの実質的意味は、当人のセクシャリティに関係なく(実際に同性愛者であろうとそうでなかろうと)、どちらも「同性愛的表象のマーケティング利用」(ある属性のマーケティング利用)なのだともいえる。
13  つまり、当人が実際に同性愛者であろうとなかろうと、その「イチャイチャしてみせる」というほのめかしの手法によって「同性愛的表象のマーケティング利用」をしているという意味では同質の反倫理性の契機が存在するのであって、当人が本当に同性愛者か否か、そこに「嘘」が存在するか否かは、反倫理性判断の分水嶺とならないのではないのではなかろうか。実際、女性であってもミソジニーな言動が問題となるのと同様に、真に同性愛者的感性があったとしても、その当人が不適当な同性愛表象の利用をしてしまうことはあるだろう。例えば、「俺、ゲイじゃないけど、(同性である)〇〇のことはアリ(魅力的)だと思うよ」とかいう言動は、例え、当人が真にそう思っていての発言だったとしても、異性愛至上主義的であるし、ホモフォビックな世界を追認しているともとられなくはない。そう考えると、やはり、「嘘」で釣っているかどうかーー行為主体が真に異性愛者であるかどうかーーは善悪の分水嶺ではないような気もする。我々が悪性を直感しているのは、むしろ「同性愛的表象のマーケティング利用」という形態の方なのではないかと思う次第である。
14  では「釣って」いるかどうかーーそれがマーケティング目的であるかどうかーーが反倫理性判断の分水嶺であるという見方は正しいだろうか。
15  この見方は、前記事でも示した様な私の立場からは、是認できない(→後に立場を改める)。異性愛関係含め、あらゆる「価値」が「釣り」、つまり顧客誘引の具として機能している中で、同性愛的表象のマーケティング利用のみを特別問題視することはやはり妥当には思えないのである。
16 ここで、本記事で見てきた溝口をはじめとする諸批判を思い起こすならば、差別の再生産の恐れや、ゲイ当事者の疎外による感情毀損の恐れがあるから、同性愛表象のマーケティング利用ーー釣りーーを特別問題視する理由があるという反論があるかもしれない。しかし、考えてみると、差別の再生産の恐れや、ゲイ当事者の疎外による感情毀損の恐れというのは、例え、同性愛表象がマーケティングに使われていない場合ーーークィアが主題でない映画に、顧客誘引とは関係なく、何気なくクィアが登場する場合等ーーーの場合にも同様に生じるのである。そのような恐れが生じる場合に、差別の再生産や、ゲイ当事者の疎外による感情毀損が生じないように配慮することは、製作者の当然の義務だといえるだろう。この製作者の義務は、同性愛表象がマーケティング目的であるか、それとも何気ない同性愛表象であるかを問わず課せられるべきである。そうすると、やはり「釣りか否か」ーー作品内の同性愛表象がその商品のマーケティング目的として利用されているかどうかーーは、生産ー消費の倫理性判断の(したがって我々が、善悪を判断する際の)重要点ではないような気もする。この考え方は正しいだろうか。

第6章 ここにきて新しく思いついた解決策

1  では、ここで少し違ったアプローチをして、確かに「同性愛表象をマーケティングに利用する場合にも、何気なく同性愛表象が表れる場合にも、どちらの場合でも製作者には差別防止等の配慮義務が生じる」が、「同性愛表象をマーケティングに用いる者には、何気なく同性愛表象が表れる場合に比べて、より厳格な特別な配慮義務が生じる」と考えることはできるだろうか。
2  これは有力なアプローチかもしれない。つまり「同性愛表象をマーケティングに用いる者」は、同性愛という属性を積極的にマーケティングに利用することにより、そこから特別の利益を受けているのであるから、ゲイ当事者の感情毀損になったり、差別の再生産となるような利用とならないように、より一層の注意を払わねばならない、という考え方だ。この義務の考え方は、「利益を得ているものが、その過程で他人に与えた損失をその利益から補填し均衡をとる」という、(法学分野の議論で存する)使用者責任の根拠としての「報償責任の法理」にも似る。つまり、同性愛表象のマーケティング利用をする者は、その利益獲得のトレードとして、何気ない同性愛表象がなされる場合よりも、より大きな責任、義務が課せられるという考え方だ。
3  なるほど、これは本記事を書いている途中に思いついたものであるが、なかなかに有力で、しかも、猫黒さんが述べていた様な、フリーライドへの怒りのようなものへの応答にもなるような気がする。というか、猫黒さんは最初からそういうことをいっていたような気もする。
4  ここまで考えてきたことをテーゼにするならば、以下の様に定式化できるかもしれない。

テーゼ①「同性愛表象を作品内で登場させたり、自己表現の中で表現したりする者は等しく(それがマーケティング目的か否かを問わず)、ゲイ当事者の感情毀損になったり、差別の再生産となるような利用となったりしないように、注意を払わねばならない」(同性愛表象全般)。
テーゼ②「しかし、同性愛表象を積極的にマーケティングに利用する者については、報償責任の法理を類推し、より高度の注意義務(配慮義務)を負うとする」(マーケティング意図のある同性愛表象)。

:rinp12

5  さらに、猫黒さんのいうような、『還元の必要性』の視点を組み入れるならば、同性愛表象をマーケティング利用する者には、「還元」の努力義務を付与してもいいかもしれない。

テーゼ③「同性愛表象を積極的にマーケティングに利用する者は、報償責任の法理を類推し、性的少数者への差別、偏見のない社会の実現のために、その受けた利益に対応する還元を行う努力義務を負う」

:rinp12

6  どうであろうか。依然として、私は、クィアベイティングに当たることそれ自体が反倫理性の源泉となるという見方はしていないが(裏切りに悲憤する視聴者、読者の期待権はそれほど強い保護を要しないという意味)、しかし、上記のように同性愛(的)表象をマーケティング目的で利用する者に、特別の義務を貸すことで、猫黒さん、そして私も感じていた様な、クィアベイティングについて抽象的に直感する反倫理性という悩みに、解決を与えることができるようにも思う。

7 まとめると、「嘘」であるかどうか、つまり「実際には同性愛者ではないのに」という要件が充足するかーーークィアベイティングに当たるか否かーーーというのは、消費者の期待権の問題であるから、さして重要な論点とは私は思わないが(悪性が強い場合にのみ、詐欺や不当表示の場合と同じ様な消費者保護が必要となるに過ぎない)、しかし、それが「釣り」である場合ーーー同性愛(的)表象を積極的にマーケティング目的で利用する場合ーーーにはより高度の配慮義務と、還元の努力義務が規範的に与えられるのだ(報償責任の法理の類推によって)、と。
8  どうであろうか。個人的には、本記事の最後の段になってやっと的を得た議論ができたような気もする。


 ※1 Lesser Evilーーーーjus ad bellum(jus ad queerbaiting ) から jus in bello(jus in queerbaiting) へ (20240224 8時頃追記)
 第6章での転換は、国際法でいうところの、jus ad bellum(戦争に対する法・規範)の話からjus in bello(戦争についての法・規範)の話への移転にも似るような気がする。
 つまり、戦争の善悪、良い戦争と悪い戦争の判断等(jus ad bellum)については、「克服し得ない無知」であるとして棚上げし、実際に存在する戦争の仕方についての規範(jus in bello)に検討対象を移し、国際人道法等について考え出したのが国際法だとすると、
 同じように、クィアベイティングの善悪、良いクィアベイティングや悪いクィアベイティングの判断等(jus ad queerbaiting)については、棚上げして、実際に存在するクィアベイティングのされ方についての規範(jus in queerbaiting)のあり方についての議論に話が移転しているようにも思う。
 取り敢えずLesser Evilを目指すのである(参考Law and Evil in International Society [JP] - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=jEIglkyIQM4 )。


引用・参考文献一覧

_堀あきこ・守如子(編) (2020).  『BL の教科書』. 有斐閣.
_金田淳子(2007). 「マンガ同人誌ーー解釈共同体のポリティクス」佐藤健二・吉見俊哉編『文化の社会学』. 有斐閣.
_溝口彰子. (2023). BL 研究者によるジェンダー批評入門: 言葉にならない 「モヤモヤ」 を言葉で語る 「ワクワク」 に変える, 表象分析のレッスン. 笹間書院
_溝口彰子(2015). 『BL進化論ーーボーイズラブが社会を動かす』.太田出版.
_Brennan, J. (Ed.). (2019). Queerbaiting and fandom: teasing fans through homoerotic possibilities. University of Iowa Press.
_藤本由香里. (1998). 私の居場所はどこにあるの?: 少女マンガが映す心のかたち. 学陽書房.
_堀あきこ.(2010). 「ヤオイはゲイ差別か?――マンガ表現と他者化」好井裕明(編). 『セクシュアリティの多様性と排除』明石書店. 21-54
_上野千鶴子.(1998). 発情装置ーーエロスのシナリオ 筑摩書房.
_山本充. (2007a). 総特集◎ 腐女子マンガ大系 (ユリイカ 6 月臨時増刊号, 第 39 巻, 第 7 号). 
_山本充. (2007b). 総特集◎ BL スタディーズ (ユリイカ 12 月臨時増刊号, 第 39 巻, 第 16 号). 
_守如子.(n.d.) 「BL 研究のための文献リスト」https://www.yuhikaku.co.jp/static_files/17454_booklist.pdf  (2024年2月15日)
_ジェームズ・ウェルカー(編). (2019). BLが開く扉ーー変容するアジアのセクシュアリティとジェンダー 青土社  
_石田仁. (2019). はじめて学ぶ LGBT 基礎からトレンドまで. ナツメ社. 
_東園子. (2015). 宝塚・やおい, 愛の読み替え: 女性とポピュラーカルチャーの社会学.  新曜日社.
_山本充. (2007c)『ユリイカ12月号 特集 BL オン・ザ・ラン!』青土社,44(15)
_マッキノン, キャサリン A・ドウォーキン, アンドレア. (2002). ポルノグラフィノと性差別(中里見博・森田成也訳). 青木書店.
_マッキノン, キャサリン A. (1995). ポルノグラフィ 「平等権」と「表現の自由」の間で(柿木和代訳). 明石書店.
_田倉保「パブリシティ権」田倉整先生古稀記念『知的財産をめぐる諸問題』497頁(発明協会、1996)
_内藤篤・田代貞之「パブリシティ権概説」205頁以下(木鐸社、第3版、2014)
_田村善之「不正競争法概説」507,526頁(有斐閣、第2版、2003) 



以上。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?