クィアベイティングについての猫黒歴史さんの記事を読んで。ーその2

凡例

・長文になってしまい、ブログだと、頁番号や行数も指定できず不便であるので、各節毎に、段落番号を付した。
・記載箇所を指定する場合は、「第○節第○段落」というように指定する。
・編集・追記する場合は、編集箇所の周辺に、(yyyymmdd追記)というように付記する他、冒頭の「編集履歴」にも情報を載せる。
・noteの「引用機能」は、他と分けて表示でき、便利であるので、引用の他、図や表、論理式を他から区別して記す場合にもこれを利用することがある。その際には、自分で作成したものについては出典欄に「rinp12」と表示する。

編集履歴

(20240210:未明) 第1節第2段落の終わりと、第3節第9段落の終わりに引用文を追加
(20240210:19時頃)「凡例」と「編集履歴」を追加。段落番号を付記。
(20240211: 4時18分) 『クィアベイティングについての猫黒歴史さんの記事を読んで。ーその3 先行研究の(雑駁な)検討と思いついた「新たなアプローチ」』 として続編の新記事を投稿。
(20240224: 8時頃) 第4節第2段落の終わりに引用文を追加。



はじめに

 この記事は猫黒さんの以下の記事から着想を得たものです。

 また、以下の私の記事の続きであります。

  はじめに。時系列を説明する。私の前記事(『クィアベイティングについての猫黒歴史さんの記事を読んで。』)へ、猫黒さんからの反応(『私が「クィアベイティング」を使ってコンテンツ批判をするわけ』という記事)があったが、しかし猫黒さんの当該反応記事が出る前に本記事を書き始めているため、再反応として必ずしも適切な構成となっていない。

  言い訳から始めると、前記事(『クィアベイティングについての猫黒歴史さんの記事を読んで。』)は衝動的に走り書きしたもので荒いのは分かっていたのだが、あまりに曖昧だ。よって、本記事で、大幅に考え直して書き直したのだが途方もなく長文になってしまった(約25000字超)。無駄に長文なのが私の悪い癖で、読む価値があるかは大いに疑わしいので、時間を無駄にしても構わないという人のみ読み進める様にお願いしたい。猫黒さんについても、本記事へのアンサーは結構です。論証の妥当性への検討を微塵もしていない駄文であるし、結論も出していない。尤も、現時点で思いついた論点は書き殴ったつもりなので、自分で再考する際の資料になればと思い、覚書として残しておこうと思う。

 ※1 繰り返しになるが、本稿を大方書き終えたあとに、猫黒さんの私の前記事(『クィアベイティングについての猫黒歴史さんの記事を読んで。』)への応答記事(『私が「クィアベイティング」を使ってコンテンツ批判をするわけ』)を読んだ。よって、本記事は、『私が「クィアベイティング」を使ってコンテンツ批判をするわけ』への適切な再応答にはなっていない。よって、はじめに、記事『私が「クィアベイティング」を使ってコンテンツ批判をするわけ』への簡単な応答をしておく。
 先ず、当該記事内では、クィアベイティングへの非難として、フリーライドの悪性が挙げられている。このフリーライドの問題は、猫黒さんも指摘するように文化盗用問題と酷似する。また、私が勉強しているところの法学領域においても、パブリシティ権や自己情報コントロール権という形で、フリーライドの問題が扱われている(本記事第3節クィアベイティングへの非難の態様の分析」で文化盗用問題、パブリシティ権、自己情報コントロール権については述べている)。このフリーライドがどうしていけないのか、という問題が、クィアベイティングの問題で重要なのかもしれない。
 また、最近は、思えば、BL/百合的なコンテンツを追っていなかったのもあって、猫黒さんが記事内で触れるような作品も見れていない場合が多い。『アナと雪の女王』、『おっさんずラブ』、『HazbinHotel』、『付き合ってあげてもいいかな』等も見ていない。そして、ひとつ気がついたことがある。私は、どちらかというと固い政治的な視点で創作されている作品(海外のものが多い)を見ることが多かったので、「(悪としての)差別を乗り越えていく過程がエンタメ化・商品化されている」と形容できるような、ある意味で「まとも」な作品に触れることが多かったのかもしれない。触れる作品群が違えば、「オタクによる(二次創作的な)百合/BL的消費は、多くの場合、同性愛者に対しての肯定でもなんでもない」という印象が強くなるのかもしれない。
 例えば、同性愛的表象が現れる映画としてよく私が想起するものを書き出してみると、
『君の名前で僕を呼んで』『ブロークバック・マウンテン』『アデル、ブルーは熱い色』『怪物(是枝)』『リップヴァンウィンクルの花嫁(岩井)』『マルコヴィッチの穴』『ドラゴン・タトゥーの女 』『ローマ、愛の部屋』『The Good Fight/ザ・グッド・ファイト』『テルマ&ルイーズ』『恋のミニスカウエポン)』『テルマ(ヨアキム・トリアー)』『キャロル』『ロニートとエスティ 彼女たちの選択』
等々、フェミニズム・ジェンダー論的な文脈で触れた作品が多いのもあって、女性同士の関係性を描くものが多いが、いずれも固く、意識的に政治的配慮がなされているものが多い。思えば、典型的な「オタク的な消費」自体あまりしてこなかったのかもしれない。どちらかというと、ジェンダー論的な示唆を求めて作品を見ていた気が多いような感じがする。猫黒さんの記事で紹介されているもので読んだことがあるものといえば、『作りたい女と食べたい女』くらいのもので、結局これも政治的配慮に富んでいる、というか政治的訴えかけが主目的、みたいな作品だ。もっと暴力的で無自覚な消費の営みの中にあっては、見える景色も大分変わっていたのかもしれない。この違いは大きいかもしれない
 それから、そういえば、そういえば『メタモルフォーゼの縁側』の映画を最近見た。あの作品はもう少し語る余地があるかもしれない。
 
 ※2 猶、本記事では、便宜的に、バイセクシャルという類型も同性愛という類型に代表させることがある。
 ※3 大幅な改訂を除き、編集箇所・日時を記載せずに、適宜編集を行うこともあろうかと思うがご容赦願いたい。
 ※4 「おわりに」の部分にも、少し、応答文を書いた。
 
 
 それでは、長い長い論考を始める。繰り返すが読む価値があるかは大いに疑わしい。



第1節 「クィアベイティング」概念の定義

 前記事を再読してみると、定義が曖昧で議論が拡散しているなと。最初に以下のように定義してみよう。

・「同性愛の商品化」:同性愛関係が商品・サービスとして取引の対象として消費可能な形にパッケージングされていくこと。
・「クィアベイティング」:「実際に同性愛者やバイセクシャルではないのに、性的指向の曖昧さをほのめかし、世間の注目を集める手法」(https://ideasforgood.jp/glossary/queer-baiting/ )。

 私の前記事(『クィアベイティングについての猫黒歴史さんの記事を読んで。』)では同性愛的表象の商品化の是非について述べていて、それとクィアベイティングとの関係性が截然としていない。では、両者の関係をどう捉えるべきなのか。

「商品はさしあたり外的対象であり、その属性[物に属する性質]によって人間の何らかの種類の欲望を満足させる物である。この欲望の性質は、それがたとえば胃袋から生じようと空想から生じようと、少しも事柄を変えるものではない。」

(20240210追記)(カール・マルクス. 資本論. ディーツ版. 49。訳については、佐々木隆治. (2020). マルクス 資本論 シリーズ世界の思想. 第9版. KADOKAWA. 40)

第2節 2つの論点

  クィアベイティングの是非について考えるときは、①同性愛的表象を利用し顧客を誘引することが許容されるか否か、と②個別的事例での同性愛的表象の利用の態様が許容範囲内か否か、という2つの論点が絡んでいる。私が前記事で述べていたのは、主に①についての話である。「実際に同性愛者やバイセクシャルではないのに」も関わらず同性愛的表象を顧客誘引に利用することが許容されるか否か(クィアベイティングが許容されるか否か)というのは、②の誘引行為の態様の許容性についての議論の一場合であろう。つまり、私の理解では、①同性愛的表象を利用し顧客を誘引することが許容されるか否かという大きなテーマの中に、②個別的事例での同性愛的表象を利用した誘引行為の態様が許容範囲内か否かという議論があって、その誘引行為の態様の一場合がクィアベイティングであると考える。①が否定されるならば、そもそも②の問題は生じない。 

「同性愛表象の商品化」⊃「クィアベイティング等の同性愛表象の商品化の多様な態様」

構造の図式:rimp12

  ①については私は許容すべきと思う(前記事で述べた理由)。
  ②については、その一場合であるクィアベイティングについて限定してここから考えることとするが、以下のような検討方法をとる。
  まず、クィアベイティングに対する非難がどのように行われ得るのかを分析し、次に、それぞれの非難の正当性について判断することにする。正当な非難が存在するのであれば、クィアベイティングは、同性愛的表象を利用した誘引行為の一態様として、許容範囲を超えている(つまり、クィアベイティングはするべきでない)ということになろう。
 「BL/百合営業」の是非については、一連の議論の中で明らかにしたい。 

第3節 クィアベイティングへの非難の態様の分析

  さて、本節では、どのようなクィアベイティングへの非難が存在するのか分析する。そこで、非難の態様として以下のように、非難者の立場の類型として(1)〜(3)に、非難の論拠の類型として(a)〜(d)に、それぞれ類型化してみる。

<クィアベイティングへ非難をする者の立場の類型>
立場(1)憂慮する第三者:社会倫理を重んじる人が、何らかの反倫理性を感じて、怒る・悲しむ場合
立場(2)悲憤する当事者:性的少数者当事者が、その属性の独善的な利用(簒奪)に、怒る・悲しむ場合
立場(3)期待するファン:BL/百合的表象が好きな人が、期待していた展開を享受できなかったとして、生産者側の裏切りに対して怒る・悲しむ場合

<クィアベイティングへ非難をする者の立場の類型>:rinp12

<クィアベイティングに対する非難の論拠の類型>
論拠(a)人権擁護:同性愛的関係を商品化すること自体の反倫理性という非難の視点
論拠(b)属性盗用問題:性的少数者の属性・アイデンティティを(主に非当事者が)無自覚に流用・簒奪することへの非難の視点→文化盗用問題と類似。
論拠(c)消費者保護:「詐欺」や「不当表示」に当るような欺罔が行われているという非難の視点
論拠(d)期待権保護:消費者・読者・視聴者・ファンの期待を裏切っているという非難の視点

<クィアベイティングに対する非難の論拠の類型>:rinp12

<クィアベイティングへの非難者の立場の類型>

  上記類型の関係性について解説をする。まず、<クィアベイティングへの非難者の立場の類型>としてどのようなものがあるのか。
  ひとつは「立場(1)憂慮する第三者:社会倫理を重んじる人が、何らかの反倫理性を感じて、怒る・悲しむ場合」、である。これは、クィアベイティングに当たる表現や発信を目撃した人が、その表現や発信に対して何らかの理由で違和感を抱き、表現者や発信者を非難する場合である。違和感が生じ、また、それが怒りや悲しみに転化する理由としては、抽象的には、その表現・発信が社会正義・倫理に反すると感じたからであるだろう。具体的には、表現・発信が、同性愛者の権利を侵害していると考えたり(論拠(a))、同性愛当事者の属性を勝手に商品化して利用し簒奪することに反倫理性を見出したり(論拠(b))、実際は同性愛者(同性愛関係)でない人(物)を同性愛者(同性愛関係)と欺罔することに反倫理性を見出したり(論拠(c))、端的に消費者の期待を裏切るようなマーケティングをする生産者の責任を問うたり(論拠(d))、等々の理由があるだろう。
  次に、「立場(2)悲憤する当事者:性的少数者当事者が、その属性の独善的な利用(簒奪)に、怒る・悲しむ場合」があるだろう。非難の根拠には、同性愛関係を商品化すること自体の忌避(論拠(a))、“勝手に自己の属性を利用される”ことへの怒り(論拠(b))、等があるだろう。
  次に、「(3)期待するファン:BL/百合的表象が好きな人が、期待していた展開を享受できなかったとして、生産者側の裏切りに対して怒る・悲しむ場合」があるだろう。非難の根拠は、自分が期待していた展開を享受することができなかったというフラストレーションに起因するものが多いだろう(論拠(d))。

  なお、同性愛者乃至は性的少数者が異性愛至上主義的な作品を忌避し、性的少数者が登場する作品を好むことも多いように思われ、そのような場合には、ある人が「立場(2)悲憤する当事者」であり、かつ「立場(3)期待するファン」であるということもあり、なおかつその人が、社会正義にも関心があるとすれば、「立場(1)憂慮する第三者」としての視点も持っていることも当然あるため、上記類型は一人の人格の中に溶け合って存在することも当然あるだろうし、そういう場合の方が寧ろ多いかもしれない。

<クィアベイティングに対する非難の論拠の類型>

  次に、<クィアベイティングに対する非難の論拠の類型>としてどのようなものがあるだろうか。

再掲<クィアベイティングに対する非難の論拠の類型>
論拠(a)人権擁護:同性愛的関係を商品化すること自体の反倫理性という非難の視点
論拠(b)属性盗用問題:性的少数者の属性・アイデンティティを(主に非当事者が)無自覚に流用・簒奪することへの非難の視点→文化盗用問題と類似。
論拠(c)消費者保護:「詐欺」や「不当表示」に当るような欺罔が行われているという非難の視点
論拠(d)期待権保護:消費者・読者・視聴者・ファンの期待を裏切っているという非難の視点

<クィアベイティングに対する非難の論拠の類型>:rinp12

  一つには、「論拠(a)人権擁護:同性愛的関係を商品化すること自体の反倫理性という非難の視点」があるだろう。しかし、これは、クィアベイティングに対する非難でもあるが、正確には第1節でみた、より大きなテーマ、つまり、①同性愛的表象を利用し顧客を誘引することそれ自体への非難であるから、クィアベイティングに対する特有の非難ではない。
  二つには、「論拠(b)属性盗用問題:性的少数者の属性・アイデンティティを(主に非当事者が)無自覚に流用・簒奪することへの非難の視点」があるだろう。これは文化盗用問題と似ている。文化盗用とは、「ある文化やアイデンティティの要素を、別の文化やアイデンティティのメンバーが不適切または無自覚に取り入れることである」(wikipedia)が、これが非難と対象となるのと同じ理屈が、性的少数者の属性・アイデンティティの盗用についても当てはまるように思う。しかし、注意が必要なのが、文化盗用の悪性の根拠についても議論が分かれていることである。文化盗用問題の本質が、当該文化の持つ経済的価値の無断利用・搾取・簒奪であると考えるのか、それとも、非当事者が他人の文化を勝手に僭称することへの抽象的な反倫理性を問うのか、はたまた、他人が勝手に当該文化を利用することでその文化の持つ価値が汚染されたり、希釈化されたりすることが問題だと考えるのか、様々なアプローチがあり得る。これは、法学領域での「パブリシティ権」を巡る議論とも似ている。パブリシティ権とは、「肖像等は,商品の販売等を促進する顧客吸引力を有する場合があり,このような顧客吸引力を排他的に利用する権利」(半田正夫・松田政行 編『著作権法コンメンタール1 [第2版] 1条~25条』(勁草書房、2015年)612頁)などと定義される。つまり、ある人には、その人格が有する価値を排他的に支配する権利があるという考え方で、フリーライドの抑制として機能する。パブリシティ権は裁判例でグループ名等に認められたりもしている(現代民事判例研究会 編『民事判例26 2022年後期』(日本評論社、2023年)73頁)。同じような考え方で、ある属性をもつ集団(例:性的マイノリティ)が、その属性の持つ価値を排他的に使用することができるという考え方をする人もいるかもしれない。感覚的には、そのような価値観に共感する人も多いだろう。

「ある物の有用性は、その物を使用価値にする。しかし、この有用性は空中にういているのではない。この有用性は商品体の諸属性に制約されているので、商品体なしには存在しない。それゆえ、鉄や小麦やダイヤモンドというような商品体そのものが使用価値または財なのである。」

(20240210追記)(カール・マルクス. 資本論. ディーツ版. 50。訳については、山本二三丸. (1991). マルクス 『資本論』 を超越するもの: 大木啓次氏労作 『マルクス価値論を見直す』 の出現. 立教經濟學研究, 45(1), 48)

10  三つには、「論拠(c)消費者保護:「詐欺」や「不当表示」に当るような欺罔が行われているという非難の視点」がクィアベイティングへの非難の根拠として考えられる。まさに消費者保護的な考え方で、商品・サービスの謳い文句の虚偽性について、生産者の責任を問うものである。
11  四つには、「論拠(d)期待権保護:消費者・読者・視聴者・ファンの期待を裏切っているという非難の視点」がクィアベイティングへの非難の根拠として考えられる。これは、単に消費者の主観的フラストレーションの発露である。しかし、実際に多くの消費者が「クィアベイティング」なるものを非難したくなるのは、この“裏切られた感”という主観的感情が理由となっていることが多いようにも思われる。
12  なお、「クィアベイティング」という用語が使われるのは、本来的には、論拠(a)〜(c)のような社会的正義の貫徹という目的のために、その理論の正当化の道具としての概念という意味があったように思うが、しかし、実際には論拠(d)を理由として、望んだ展開が得られなかった消費者・読者・視聴者・ファンの単なるフラストレーションを、それを表現者・発信者にぶつけるための便利な道具として用いられる場合もあるように思われる。
 
13  さて、以上がクィアベイティングへの非難にどのようなものがあるかの分析である。以下ではクィアベイティングへの批判の論拠である「論拠(a)人権擁護「論拠(b)属性盗用問題「論拠(c)消費者保護」論拠 (d)期待権保護」について、それぞれが非難として正当か否かを検討する。
 

第4節 「非難」の定義〜〜非難の正当性の検討のために〜〜

  さて、クィアベイティングに対する非難の正当性を考えるのに当たっては、先ず「非難」という概念について定義しなくてはならない。よって仮に「法的非難」「社会的非難」「私的非難」と分け、以下のようなテーゼを立ててみる。

テーゼ1:法的非難が正当と評価されるのは、被非難者(相手)に法的サンクションを与えるのが正当である場合である。
テーゼ2:社会的非難が正当と評価されるのは、被非難者(相手)に社会的サンクションを与えるのが正当である場合である。
テーゼ3:私的非難は、表現の自由の保障という見地により、それが人格攻撃や誹謗中傷、侮辱に当たる場合を除き、常に許容される。 

  このように一先ずは、非難の機能として法的サンクションを招来するもの(法的非難)と、社会的サンクションを招来するもの(社会的非難)に分け、さらに「私的非難」という概念を、法的非難・社会的非難と分けて考えることができるが、しかし、よく考えると「私的非難」というのは基本的に、発言者自身に対して、つまり自分に対しての自己批判としてのみ可能であり、「他人への私的非難」なるものは成立しえないようにも思える。何故ならば、誰かの言動を非難するときには、何かしらの(通常は自分と共通の)「規範」に背いたことに対して「非難」をするはずである。共通の規範の基盤があって、初めてそれへの背任を非難できるのだ。例えば、熊が人を殺しても、人は熊を非難しない。あるいは、僧侶は、キリスト教徒が仏教の戒律に背いたとしてもそのキリスト教徒非難しないだろう。共通の規範の基盤が存在しないからである。逆に、西洋諸国がイスラーム世界での女性の人権の制限を非難するのは、普遍的な人権・自然権思想の規範が、人類共通であると、信じているからである。よって他人の言動に対して「私的に非難を行う」などということはありえないようにも思える。

「《諸政治国家のそとには、各人の各人に対する戦争がつねに存在する》(…)すべての時代に、王たち、および主権者の権威をもった諸人格は、かれらの独立性のゆえに、たえざる嫉妬のうちにあり、剣闘士の状態と姿勢にあって、たがいにかれらの武器をつきつけ、目を注いでいる。(…)
 各人の各人に対するこの戦争からなにごとも不正ではありえないということもまた、帰結される。正邪(Right and Wrong)と正不正(Justice and Injustice)の観念は、そこには存在の余地をもたない。共通の権力がないところには、法はなく、法がないところには不正はない。

ホッブズ『リヴァイアサン(一)』(水田洋訳、岩波書店、1954年)210-213頁
Law and Evil in International Society [JP] - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=jEIglkyIQM4 
(20240224追記)(太字はrinp12)

  しかし翻って、法的サンクションも社会的サンクションも予定しないような「非難」の形式もあり得るはずである。それをここでは「倫理的非難」つまり、「相手にプライベートな反省、内省を求めるような非難」として定式化してみることにする。よって、以下では、「法的非難」「社会的非難」「私的非難」の三類型に代えて、「法的非難」「社会的非難」「倫理的非難」の三類型で議論する。
  その意味は以下である。つまり、「他人を非難する」ときの機能としての類型は、当該他人を、(x)法的に非難して法的サンクションを与えようとするか、(y)社会的に非難して社会的サンクションを与えようとするか、(z)倫理的に非難して反省を促そうとするか、のいずれかに分けられるのであって、それが「非難意思の表明」と付随して行われるのである、と仮定することにする。法的非難の場合は法規範の共有が前提となっており、社会的非難の場合には社会的規範の共有が前提となっており、倫理的非難の場合には倫理規範の共有が前提となっている。便宜的だが、斯様な分類法に従って検討してみる。
  テーゼにすると以下である。

テーゼ1’:法的非難が正当と評価されるのは、被非難者(相手)に法的サンクションを与えるのが正当である場合である。
テーゼ2’:社会的非難が正当と評価されるのは、被非難者(相手)に社会的サンクションを与えるのが正当である場合である。
テーゼ3’:倫理的非難が正当と評価されるのは、その前提とする倫理規範が被非難者(相手)と共有されている場合、あるいは共有されるべきであると目される場合であり、倫理的非難の目的は相手のプライベートな反省、内省である。

非難の類型化:rinp12

第5節 クィアベイティングに対する非難の論拠の正当性の検討

  さて、以上を前提として、第3節で提示した、以下の各クィアベンティングへの非難の論拠について、それが法的非難、社会的非難、倫理的非難として正当か否かを検討する(法的非難、社会的非難の正当性を主に記述し、倫理的非難の検討は必要最低限とする。何故ならば、これは非難者の主観的規範意識によって大きく判断が分かれるからである)。 

再掲<クィアベイティングに対する非難の論拠の類型>
論拠(a)人権擁護:同性愛的関係を商品化すること自体の反倫理性という非難の視点
論拠(b)属性盗用問題:性的少数者の属性・アイデンティティを(主に非当事者が)無自覚に流用・簒奪することへの非難の視点→文化盗用問題と類似。
論拠(c)消費者保護:「詐欺」や「不当表示」に当るような欺罔が行われているという非難の視点
論拠(d)期待権保護:消費者・読者・視聴者・ファンの期待を裏切っているという非難の視点

<クィアベイティングに対する非難の論拠の類型>:rinp12

  第1に、「論拠(a)人権擁護:同性愛的関係を商品化すること自体の反倫理性という非難の視点」について。少なくとも、類型的に全ての同性愛的関係の商品化へ非難を向けるのは、私は失当であると考える。理由は、前記事で述べた。簡単に言えば、あらゆるものが商品化され消費される中で、同性愛的関係だけを「商品化→消費」の営為から除外する根拠が薄弱に思えるからである。勿論、個別具体的な表現が差別を助長しないということは前提である。
  第2に、「論拠(b)属性盗用問題:性的少数者の属性・アイデンティティを(主に非当事者が)無自覚に流用・簒奪することへの非難の視点」については、微妙な問題に踏み込まざるを得ない。法学で「パブリシティ権」について議論するときなどには、自己情報コントロール権というのがいわれることがある。これは自己の持つ情報を排他的にコントロールする人格的権利が我々に存在するという議論である。この議論を参考にすれば、ある属性を持つ集団(日本人、ネイティブアメリカン、アイヌ、性的マイノリティ等)の、その有するアイデンティティが保持する価値については、その準拠集団が排他的利用権を有し、他者はそれを害することはできないのだと考えることも可能に思う。尤も、これを法的に規制することは、表現の自由の観点からは是認することは難しいだろう。非当事者が性的少数者の有する価値を自己の表現や芸能活動のために利用したとしても、それを法で規制したり、あるいは、損害賠償責任を負わせたりするようなことがあっては、あまりに規制の範囲が広い。然も、限定的に「ある態様での属性盗用に法的加害性」を認める、ということも難しいだろう。例え、その利用態様によって、特定の属性集団のアンデンティティを有する価値が汚染されたり希釈化されたりするとしても、それを規制することはやはり、表現の多様性の確保という社会善に反するように思われる。
  しかし、社会的非難として、属性盗用の論理は正当となりえる余地はあるように思われる。実際、「文化盗用問題」とグーグル検索すれば分かるように、著名人が他民族の文化を模倣したり、作家が他国を舞台とした作品を創作したりすることには、まさに社会的非難が浴びせられている今日である。社会的価値規範の傾きによっては、性的マイノリティという集団のもつ属性・アイデンティティを盗用することに、社会的非難がなされ、それに社会的サンクションが課されるのが正当であると判断されるようになるかもしれない。いや、というより、そのような流れの真っ只中にあるからこそクィアベイティングという概念が浮上しているのかもしれない。
  結論するならば、「論拠(b)属性盗用問題:性的少数者の属性・アイデンティティを(主に非当事者が)無自覚に流用・簒奪することへの非難の視点」という論拠については、その社会的非難としての正当性を認める余地が十分にあるように思う。
  第3に「論拠(c)消費者保護:「詐欺」や「不当表示」に当るような欺罔が行われているという非難の視点」という非難の論拠について。消費者保護の観点から「不当表示に当たるからダメ」、とか「詐欺にあたるからダメ」とかそういう方向の非難がありえる。しかし、例えば「この作品にはBLがあります!」と広告を打ったのにも関わらず、しかし作品内にBLと取り得る表現が全くない、とかそのような場合は別としても、詐欺や、不当表示と名指すべき程度の悪性が客観的に認められる余地は少ないのではなかろうか。これは映画について「こういう映画だと思ったのに違った!」と主張しても、それは保護に値しないのと同様で、「BLだと思ったのに違った」とか「あの人が同性愛者だと思ったのに違った」だと言っても、それは単に期待感が成就しなかったフラストレーションに過ぎず、生産者への非難可能性は小さい場合が多いように思う(法的非難可能性は殆どなく、社会的非難可能性もかなり小さいように思う)。
  第4に「論拠(d)期待権保護:消費者・読者・視聴者・ファンの期待を裏切っているという非難の視点」という非難の論拠があり得る。猫黒さんが「オタクの視点に立ってみても、本気で2人が末長く仲良くしていくことを願いながらずっと応援いたら公式から「結婚」というワードが出されて、「パートナーシップ宣誓したのかな」とワクワクして本当にご祝儀を包む気持ちで詳細を見たら、エイプリルフールの嘘だとか、妄想だとか、釣りだったときの気持ちを考えてみて欲しい。それこそ、Queer‐baiting、クィアネスを餌にして純粋に2人の仲を応援する気持ちのオタクを裏切った訳である。どんな関係性であれ、メンバー間のありのままの仲の良さをオタクの前でも見せて欲しいだけなのに。」(『BL/百合営業はクィアベイティングなのかをただのVTuberオタクが考える記事』)と述べるのは、この類型の非難に該当するように思う。これは、嘘をつかれたというファン心理としては理解できるが、それはアイドルファンが、アイドルの熱愛に対して怒り・悲しむようなもので、ファン心理としては理解できるが、それが法的非難や社会的非難の対象となりえるかは疑問が残る。せいぜい、嘘をついたこと、他人の期待を裏切ったことという倫理的非難の対象となり得るのみではなかろうか。要は「ファンを悲しませたらだめだぞ」という程度のことであって、クィアベインティングの善悪とかそのような論点で語るべき話ではないような気がする。裏切りの態様によっては、悪質なものが法的・社会的・倫理的非難の対象となりえるように思うが、それは「論拠(d)期待権保護:消費者・読者・視聴者・ファンの期待を裏切っているという非難の視点」としてではなく、「(c)消費者保護:「詐欺」や「不当表示」に当るような欺罔が行われているという非難の視点」から行われるべきではなかろうか。消費者の具体的不利益や損害がどのように記述できるかがポイントであろう。
  さて、小括するに、他の論拠は別としても、少なくとも「論拠(b)属性盗用問題:性的少数者の属性・アイデンティティを(主に非当事者が)無自覚に流用・簒奪することへの非難の視点」という論拠については、その社会的非難としての相当性を認める余地が十分にあるように思う。

第6節 クィアベイティング認定の困難さ

  ただ、仮に、クィアベイティングが社会的非難の対象として、社会的に許容されないものとして眼差されるようになったとしても、どうやって、それがクィアベイティングに当たるか否か判断するのかという問題が、ここに顕在化することになる。猫黒さんも指摘するように、私たちの性的指向は、流動的であると共に、アンビヴァレンスなもので、他者から規定されるべきものでもなければ、自己規定を強制されるべきでものでもない。仮に同性愛者的に表象された、キャラクターや実在人物あるいはその中間的存在としてのVTuberが、同性と性愛関係を結んだとして、どうしてそれが、BL/百合営業だと規定できるのであろうか。少なくとも、当人が、クィアベイティングの意図はなかったと言ってしまえば、そこから先への追求は全く不可能である。
  上記の場合のように通常はクィアベイティングの認定それ自体が困難なのであるが、神の目からすれば、ある人が、純粋に営利目的や、インプレッションの獲得のために、全く同性愛であるとの自己意識がないのにも関わらず、同性愛者であるとファンや視聴者を欺罔しているというような場合もあるだろう。あるいは、当人が、私はクィアベイティング(「実際に同性愛者やバイセクシャルではないのに、性的指向の曖昧さをほのめかし、世間の注目を集める手法」)を故意で行ったと自白する場合も考えられる。このような仮定的な状況を考えてみるのが検討方法として有効かもしてない。

第7節 問題の再設定

  話を元に戻す。第5節でみたように、「論拠(b)属性盗用問題:性的少数者の属性・アイデンティティを(主に非当事者が)無自覚に流用・簒奪することへの非難の視点」という論拠のように、非難の論拠に一定の相当性が認められるような場合も存在するように思われる。しかし、相当性があるからといって、直ちにそれが、法的・社会的・倫理的非難の正当性を意味するわけではない。私の勉強するところの法学での議論では、相当性の有無を判断したあと、許容性の判断をする。つまり、法学では、法的な権利義務の変動を生じさせる処分や、判決、立法等を行うためには、それを行う相当性の他に、許容性も必要とされるわけである。私の定義では、倫理的非難とは、なんらサンクションを予定せず、相手のプライベートな反省、内省を求めるのみの非難であるから、許容性の判断は必要ないか、するとしても緩やかに行えばよかろう。しかし、法的・社会的サンクションを予告する法的非難・社会的非難については、許容性判断を厳格に行うべきと考える。
  例えばクィアベイティングへの非難相当性はあるようにも思える場合はある(論拠(b)属性盗用問題という非難の根拠等)。しかしそこに、非難を与えるだけの許容性があるといえるだろうか。
  注目を得たい、利益を得たい、ファンの関心を買いたい、という彼ら彼女らの動機は、どの程度非難することができるのだろうか。その動機自体は、多くの、ほぼすべての人が共通して有する欲求であって、その欲求の満足という目的の達成の手段として、同性愛者乃至は性的少数者のように演出したり、あるいは、同性とイチャイチャするなどして性愛関係への連続性を表現することに、どれだけの非難可能性(とその裏面としての許容性)があり得るというのだろうか。やはり、疑問が大きい。
  彼ら彼女らの行為は「実際に同性愛者やバイセクシャルではないのに、性的指向の曖昧さをほのめかし、世間の注目を集める手法」という定義に当てはまるのであるから、クィアベイティングであることは明確である。しかし、その非難可能性(相当性と許容性のバランス=正当性)にやはり疑問があるのである。このことを考えるために、次節で「同性同士で「結婚しました」「結婚します」などのワードを用いて人を呼び込む行為」を例に、具体的に検討してみたい。
 
 
 

第8節 同性婚を用いたクィアベイティングの是非

  猫黒さんは「・・・そんな中で、同性同士で「結婚しました」「結婚します」などのワードを用いて人を呼び込む行為は非難されるべきだと考える」(『BL/百合営業はクィアベイティングなのかをただのVTuberオタクが考える記事』)というが、確かに、斯様な事態は非難すべきように直感的されなくもない。このことの意味について考えてみる。
  先ず、非難の類型について振り返る。「他人を非難する」ときの機能としての類型は、当該他人を、(x)法的に非難して法的サンクションを与えようとするか、(y)社会的に非難して社会的サンクションを与えようとするか、(z)倫理的に非難して反省を促そうとするか、のいずれかを、「非難意思の表明」と付随して行う場合が殆どであると思われる。法的非難の場合は法規範の共有が前提となっており、社会的非難の場合には社会的規範の共有が前提となっており、倫理的非難の場合には倫理規範の共有が前提となっている。
  では、「同性同士で「結婚しました」「結婚します」などのワードを用いて人を呼び込む行為」はいずれの非難に値するのであろうか。ここでは、以下の様な事案(事案1)を考えてみる。

<事案1>
Twitter(現X)で4月1日にインフルエンサーA氏とB氏が「同性結婚しました」と2ショットの写真付きで投稿したが、後にそれが単なるエイプリルフール企画であったと判明した

<事案1>:rinp12

  まず、事案1について法的非難に値するとはいえるか。例えば同性愛者、マイノリティを揶揄するものとしてヘイトスピーチとパラレルに考えることはできるだろうか。しかし、フランス等、ヘイトスピーチに対する法的規制が厳しい国もあるが、流石に刑法的規制を与えるのは行き過ぎであろう。そもそもヘイトスピーチと認定するのは難しいだろうし、ヘイトスピーチに比肩するような反規範性があるようには思えない。では、例えば、性的マイノリティ当事者が、当該行為により主観的な名誉感情を傷つけられたとして、民事訴訟でAB両氏を訴えたらどうだろうか。やはり民事においても損害賠償等の法的責任を負わせるのは行き過ぎである気がする。法益侵害(この場合は感情毀損か)がないか、あるとしても軽微であろう。では、ファンが、例えば、期待を「裏切られた」と言って訴えたらどうであろうか。この場合もやはり、法益侵害が何なのかが問題となる。AB両氏を応援しようと思ったという期待感なるものが法的保護に値するとは思えない。
  次に、社会的非難に値するとはいえるか。ここでいう社会的非難は私の定義上は社会的サンクションを予定するものであるから、「社会的非難をすべき」ということは、社会的サンクション、つまり、ここでは、AB両氏が炎上して謝罪させられたり、スポンサーが降りたり、所属会社から解雇されたりと、そういう結果を生じさせることを積極的に意図するか、あるいはそういう結果が発生してもかまわないと認識していることを意味する。つまりは社会的非難には社会的サンクションの予定が内包されているという意味だ。SNSに非難の声を投稿したり、新聞や報道機関が非難の記事を載せたりすることは、機能として社会的サンクションの発生を予定するものである。多くのSNSユーザーは、そのことを理解していない場合が多いかもしれないが、機能としては社会的サンクションが生じる起因となっているのである。したがって社会的非難を行うには、相手に罰、制裁を与えるという責任を持つべきであろう。ブログに書くことも社会的非難の一種であると思う。勿論、読者の数で程度は異なり、より影響力を持つ媒体での非難は、より力を持つ社会的非難となるし、その逆もまた然りである。
  このことは、倫理的非難と異なる。倫理的非難と社会的非難の分水嶺は社会的サンクションの予定の有無であるから、たとえ倫理的非難のつもりであっても社会的サンクションを呼び込むようなやり方で非難した瞬間にその非難は社会的非難として機能してしまう。社会的非難とならないように倫理的非難を行い、反省を促すには、クローズドな方法で意思伝達をするしかないだろう。例えば、手紙を書くとか、DMを送るとかそういうことだ。
  そして、猫黒さんが、「そんな中で、同性同士で「結婚しました」「結婚します」などのワードを用いて人を呼び込む行為は非難されるべきだと考える。」というときの「非難されるべき」という言明は、社会的非難と倫理的非難との中間であろうと思う。猫黒さんのnoteの記事は覚え書き的な側面を持っているように見え、必ずしも、多くの人に読んでもらい社会への影響を与えることを追求したような作りになっていないように見えるから、クローズドな倫理的非難の表明の様でもあるし、しかし、「私は非難する」ではなく「非難されるべき」と客観的な目線から非難が示されていることからすれば、何らかの社会的サンクションが与えられるべきと考えているようにも見える。例えば、これがtwitter(現X)でしきりに、AB両氏を非難する投稿をしはじめたりすれば社会的非難としての色彩が強くなるだろう。
  私は、社会的非難が必要な場面は、法的非難が機能しない場合で、尚且つ必要最低限の場合に限られると思っている。社会契約を結び暴力の行使を統治権力に移譲した現代国家においては、私刑は許されず、法的サンクションという国家による暴力によって、紛争や罪悪は解決し・罰すべきであるというのが原則であって、社会的制裁という私刑が黙認されるのは極めて限定的な場合に、しかも法が十分に機能していない間の時限的にのみ許されるべきだと考えている。そうしなくては、法治国家は存立しえないし、弱肉強食の自然状態へ回帰してしまう。しかし、たしかに、社会的サンクションが必要な場面も私は存在すると思っている。例えば、性犯罪である。性犯罪は物証が残らないことも多く、法的責任を問うのに必要な立証ができずに、被害者が泣き寝入りになることが多い。したがって、一定の限定のもとで社会的非難とそれに対応する社会的サンクションが機能することを黙認せざるをえないのではなかろうか。現実にも、文春等週刊誌やSNS等が目下その機能を果たしている。社会的非難と制裁は、大衆の感情によって駆動するので、すぐに暴走し、悲劇を生む。そのため、かなり慎重になるべきであるが、しかし、社会的サンクションが法の十分に機能していない領域において補完の役割をしていることは否定し難いだろう。
  ここで、厄介なのは、インターネット、SNSの普及によって、国民の多数が社会的非難を成し得るようになったこと、あるいは、簡単に倫理的非難が社会的非難に転化するようになったことである。ネットに接続してさえいなければ、例えば飲み屋で「AB両氏のあの投稿よくないよね」と管を巻いたり、あるいは、個人的にAB両氏に提言の手紙を書くのであれば一向に構わないのであるが、オンライン上で非難をした瞬間から、その非難は強力な暴力装置の一部となる危険性を直ちに孕み出すのである。こういった構造はあまり意識されない。
10  さて、ここまで書いたことでお分かりかと思うが、私は、社会的非難をするということに対してかなり慎重である(つまり、非難というものについての許容性判断が厳格である)。そして予告された通りというべきか、私は、事案1のABさんらに対しては、社会的非難をすべきとは、思わない。少なくとも炎上して謝罪させられたり、投稿を削除させられたり、活動を自粛させられたりと、そういった社会的サンクションが与えられるべきとは思わない。私はそれほど周りに高い配慮をして生きていくべきとは考えていないのだ。ある程度は互いに傷つけあうが、そこにサンクションが与えられない領域を広くしておかないと、窮屈な世の中になると思うからである。
11  しかし、ABさんらが友人であったら、会った時にでも「そういう投稿は、同性婚の認められていない我国では、当事者の感情を傷つけるかもしれないからやめた方がいいと思うよ」と語りかけるだろう。これは倫理的非難である。自省を求めるのではあるが、しかし社会的サンクションを予定していない。
12  勿論、態様によっては、法的、社会的サンクションが与えられるべき、つまり法的非難、社会的非難がなされるべきラインに抵触することはあるだろう。例えば、事案1のAB両氏の投稿に対し、インフルエンサー仲間のC氏が「キモいわw」とかリプをつけた場合、C氏には社会的サンクションが与えられるべきだろうと思う。C氏は反省の意を示し公的に謝罪くらいはすべきだ(社会的に抹殺されるべきとは思わないが)。他方、繰り返しになるが、事案1のAB両氏が謝罪すべきだとは必ずしも思わない。配慮に欠けると思うし、友人なら倫理的非難は行うが、社会的に非難されるべきとは思わない。彼彼女らは、注目を集め、インプレッションを獲得するために、無自覚に同性婚というネタを使ったのであるが、しかし、それだけである。それがネタだったと知ったファンは怒り悲しむかもしれないし、当事者や同性婚の法制化に尽力する人も憤慨するかもしれないが、しかしAB氏らは彼らを傷つける意図はなかったのであろうし、差別意識も(これは認定が微妙だが)なかったろう。AB両氏は、ただ純粋にインプレッションが欲しかったのである。その程度の認識の未熟さと軽薄な表現は許容される社会であるべきでなかろうか。勿論、高い倫理観を要求する社会像を理想とするならば、AB両氏の行為は社会的非難に値するといえるかもしれない。同性婚が認められていないことで苦しんでいる人たち等の感情を毀損したのであるし、配慮に欠けるのだから。しかし、私はそこまで高い倫理観を社会に要求しない。つまり非難の相当性はあるが、許容性はないと考えるのである。
 さて、では、事案1のAB両氏の行為の悪性の本質は何なのだろうか。
13  要件として、①実際は同性愛者ではないのに、②性的指向の曖昧さをほのめかすことにより、③世間の注目を集めている、という要件を満たしているといえれば、クィアベイティングにはあたるだろう。事案1では③の充足は明らかである。②は、投稿以前にAB両氏がいわゆる「BL/百合営業」と目されるような振る舞いを続けていたという事情があれば充足する。「BL/百合営業」→同性婚発言という一連の流れで②を認定するのである。①を認定するのは難しいが、例えばエイプリルフールの企画書が流出し、そこに「企画のターゲット:BL/百合好きなファン」「企画内容:BL/百合っぽく演出する」とか書いてあれば認定できるだろうか。
14  よって、AB両氏の事案1の行為はクィアベイティングに当たると言える余地は大いにある。しかし、クィアベイティングに当たることが、AB両氏の行為の悪性の本質なのであろうか。例えば、アイドルやVTuberがイチャイチャする様子を演出したり、映画やアニメで、BL/百合的表象を用いたりすることもクィアベイティングに当たるが、それらは、事案1のAB両氏の「同性婚」宣言より悪性が低いように感じられる。それは何故だろうか。
15  第1に、「嘘」の存在の明確性というのが考えられる。通常クィアベイティングと疑われるものの中で、「①実際は同性愛者ではないのに」という「嘘」の要件が明確に充足することはほぼないだろう。性指向は曖昧であるし、他者が当人の性的指向を規定したり、自己規定を強制することもできない。しかし、「同性婚」というトピックが俎上に上がった途端、「結婚」という特定の事実状態に言及されたことによって、その事実状態に関しては、真偽の判断がオーディエンスには可能となる。そして、その「結婚」が偽であったという事後情報によって、「①実際は同性愛者ではないのに」という「嘘」の要件が充足したかのように認識され、あるいは、「実際は同性婚をしていないのに」という「嘘」が、「①実際は同性愛者ではないのに」という「嘘」と、規範的に同一視されることによって、まさにファン乃至オーディエンスは「嘘」によって「騙された」と認識するのである。これは、クィアベイティングとして通常議論されるものと好対照である。クィアベイティングとして通常議論されるもの————————アイドルやVTuberがイチャイチャする様子を演出したり、映画やアニメで、BL/百合的表象を用いたりすること­­­———————においては、「嘘」を認定することは難しい。例えば「真意でイチャイチャしていたか否か」など判断できないだろう。
16  また、第2に、「事実としての同性愛的関係」から「同性婚」へと視点が移ることの影響が考えられる。同性婚となると、猫黒さんも指摘するように目下法制化へ向けての活動が随所で真剣に行われているところであって、一般に市民権と理解を得はじめているように相対的には思える「事実としての同性愛的関係性」の描写と比べて、法律婚制度から明確に除外されている状況にある「同性婚」というトピックは、より慎重に扱うべきだとの理解が共有されているだろう。慎重に扱うべきトピックというのは他にもある。例えば、ホロコースト等の人類史に残る悲劇や実際の犯罪、苦しむ人がいる差別問題、障害、難病等、あるいは政治、環境問題、社会運動等は、程度の差はあれど軽々しく扱うと、非難に晒される。この現象の説明は難しいが、おそらく高度に抽象的な規範的意識により、「真剣に問題に向き合って人がいるトピックを軽々しく扱うべきでない」というテーゼが普遍的に存在すると思われる。このテーゼ(以下、「配慮のテーゼ」とする。)に反しているのだろう。
17  配慮のテーゼに抵触するか否か考える際のひとつのメルクマールは、目的の適切性である。「真剣に取り組んでいる人がいるトピックを軽々しく扱うべきでない」というテーゼにもかかわらず、当該トピックを扱うためには、目的の適切性が必要となる。例えば、ホロコーストを扱うためには、それを扱うことが作品内で必要不可欠であったり、あるいは二度と悲劇を起こさないためという公共的な目的があったりと、適切な目的がなければいけない。逆に、単なる感動ポルノのためだったり、あるいはホロコーストを用いる必然性がなかったりすれば、配慮のテーゼに抵触する。同性婚も同じで、目的の適切性が必要である。軽々しく扱えば、「真剣に取り組んでいる人がいるトピックを軽々しく扱うべきでない」というテーゼに反し、少なくとも倫理的非難の対象にはなる。
18  では、同性同士でのイチャイチャは配慮のテーゼに抵触しないのだろうか。事実としての同性愛関係であっても、目下社会的差別解消が取り組まれているところである。この点は、思うに、同性同士でのイチャイチャというレヴェルであれば「同性愛」という言語的概念イチャイチャという行為のイメージが密接には結びついていないのだと思われる。飽くまで同性同士での性愛的空気の漂いが非言語的に、ある種のファンを誘引するのであって、それは言語的、政治的な「同性愛」という用語で理解されていないのではなかろうか。例えばBL/百合と表現する場合と、ゲイ/レズビアンと表現する場合に、そのトピックが持つ政治性や要求される配慮の度合いは事実として質的に異なっているだろう(この点はもう少し詳しく検討すべきかもしれない)。
19  さて、このように見てくると、「同性同士で「結婚しました」「結婚します」などのワードを用いて人を呼び込む行為」が少なくとも倫理的非難をすべきと考えられる原因は、それがクィアベイティングであるからということそれ自体ではないのではなかろうかと思える。①嘘という認定の容易性・可能性、②同性婚という厳正さが求められるトピックを言語化してしまったこと(配慮のテーゼへの抵触)、③目的の不適切性、等の諸事情が主要な原因であると思われる。 

第9節 レイヤーの再整理

  ここまで「ある行為が非難に値するか否か」という評価の議論をしてきたのであるが、評価の対象となる行為の類型に着目して、これまでの議論のレイヤーを整理すると、以下のような階層的な入れ子集合構造として整理できる。つまり、一番広い集合として、「同性愛的関係の商品化と消費」という行為群の集合αがあり、その中の部分集合として「クィアベイティング」に当たる行為群の集合βがあり、さらにその「クィアベイティング」の集合βの部分集合として「悪性のクィアベイティング」という行為群の集合γがあり、さらにその「悪性のクィアベイティング」の行為群γの一場合として、「同性同士で「結婚しました」「結婚します」などのワードを用いて人を呼び込む行為」という要素Xがある。以上のような構造となっている。

<クィアベイティングを巡る階層的な入れ子集合構造>
α⊃β⊃γ∋X
 
   集合α「同性愛的関係の商品化と消費」にあたる行為
⊃集合β「クィアベイティング」に当たる行為(集合α内の一類型)
⊃集合γ「悪性のクィアベイティング」に当たる行為(集合β内の一類型)
∋要素X「同性同士で「結婚しました」「結婚します」などのワードを用いて人を呼び込む行為」等の具体的クィアベイティング (集合γ内の一場合)

<クィアベイティングを巡る階層的な入れ子集合構造>:rinp12

  事案1のAB両氏については、集合β内の要素Xの非難可能性というレイヤーで議論していることになる(議論の帰趨によって、要素Xが集合γに含まれるか否かが決定する)。こういった入れ子集合構造で理解するのは、私が「同性愛的関係の商品化」という行為についても、「クィアベイティング」という行為についても、それらの行為を直ちに類型的に悪いと判断することはできず、行為態様によって類型化して、個別に議論すべきだと思うからだ。それぞれの集合の中に、良いものと悪いものがある。集合γは悪い(=非難すべき)クィアベイティングの集合であるが、この集合γには、複数の要素(許容できないようなクィアベイティングの複数のあり方)が存在するはずである。

  この階層構造では、下位集合になるほど反規範性が強くなり、且つ非難に値する蓋然性も高くなるというような理解ができる。
  あくまで、上記のような構造であって、繰り返すが、私の理解では、「クィアベイティングに当たるから非難すべき」なのではなくて、クィアベイティングに該当するものには、非難すべきものも許容すべきものもあり、その中で悪性のクィアベイティングについてのみ非難すべきなのと考えるのだより社会に求める規範性・理想が高ければ、悪性のクィアベイティングの一内容である「同性同士で「結婚しました」「結婚します」などのワードを用いて人を呼び込む行為」は社会的非難をすべき(あるいは法的非難をすべき)といえるということになる。相対的に社会に求める規範性・理想が低ければ、社会的非難をすべきとはいえないが、倫理的非難はすべきということになる(私の立場)。私より更に、社会に求める規範・理想が低ければ倫理的非難も必要ないという人もいるかもしれない。要するに、社会に求める規範や理想の在り方によって評価は異なるだろう。しかし、私としては、他人を傷つけてしまう可能性のある表現は、勿論ある程度は個々人の倫理と配慮によって慎むべきであるとは思うが、仮に他人を傷つけてしまうようなことがあっても、そこに悪意がなく、そして被害(感情の毀損)の程度がそこまで大きくないような場合には、自由な表現、経済活動を担保するため、許容されるべきだと思う。
  抑も、何故にここまでうだうだ書く必要があったのだろうか。それは、社会的非難と倫理的非難とを私が峻別したことにポイントがあるのだと思う。家族や友人と、このトピックについて話したりするときならば、端的に、「同性同士で「結婚しました」「結婚します」などのワードを用いて人を呼び込む行為はよくないだろう」と私は言うであろう。しかし、昨今は、あまりに社会的非難→社会的サンクションの接続が密接・迅速で、なおかつサンクションは苛烈であるように思えてならない。何か配慮に欠けた言動や、失言をしたら直ぐに社会的な活動が難しくなるような社会の趨勢を見て、これでは生きにくい狭隘な社会になってしまうと危惧するのである。最初にクィアベイティングを擁護する立場をとったのもそのためである。クィアベイティングをするようなインフルエンサーたちは、若く未熟で無知であることも多い。そんな彼らに社会的サンクションを予告する社会的非難という矛先を向けるのは社会のあり方として望ましくないと思うのだ。大企業が制作する作品のクィアベイティングにしても、その程度の反倫理性・軽薄さは、作品表現や自己表現、生き方の自由の考慮のもと、社会の中である程度は許容すべきだと考える(前記事クィアベイティングについての猫黒歴史さんの記事を読んでで書いた通り)。これは、私が社会に要求する規範性・理想が相対的に低いのが原因かもしれない。
  まあ尤も、上記の通り、私であっても倫理的非難は行うのであるから、立場的には猫黒さんとほぼ同じとみることもできるかもしれない。
 
 

第10節 まとめ

  さて、第5節でみたように、クィアベイティング一般への非難の論拠として「論拠(b)属性盗用問題:性的少数者の属性・アイデンティティを(主に非当事者が)無自覚に流用・簒奪することへの非難の視点」という論拠のように、非難に一定の相当性が認められるような場合も存在する。しかし、そのある論拠に相当性があるからといって、非難の正当性が認められるわけではなく、とりわけ法的非難・社会的非難については、非難という行為の許容性判断をしなければならないと展開した。
  その上で、許容性が如何に判断されるのかという問題について、「同性同士で「結婚しました」「結婚します」などのワードを用いて人を呼び込む行為」を例として考えてみた。そこで示したのは、①「嘘」の存在の明白性、② 配慮のテーゼへの抵触(同性婚という厳正さが求められるトピックを言語化してしまったこと)と、③目的の適切性、というようないくつかの因子が非難の許容性判断に影響しているということであった。
  以上のことからすると、次のようなテーゼが導かれる。

結論テーゼ1:ある態様で行われたクィアベイティングに対する非難には、一般に、「論拠(b)属性盗用問題」のような非難の相当性が認められる場合があるが、その非難が法的・社会的非難として許容性を認められるためには、①「嘘」の存在の明白性、② 配慮のテーゼへの抵触の有無、③目的の適切性、等の個別的事情を勘案し、全体として法的・社会的サンクションを与えられるに値すると認められる場合にのみ、法的・社会的非難が正当と評価される。
 
結論テーゼ2:倫理的非難はそれぞれの規範意識によって自由に行えばよく、その前提とする倫理規範が被非難者(相手)と共有されている場合、あるいは共有されるべきであると目される限りにおいて、正当である。前提とする倫理規範の考え方は人によってズレがあるため、評価は難しい。

結論テーゼ1、2:rinp12

  第8節で整理したレイヤーに対照してみると、私の価値観では、「同性愛的関係の商品化と消費」にあたる行為群(集合α)一般に対して、非難の相当性があるとは思わないし、「クィアベイティング」に当たる行為群 (集合β)一般に対して、非難の相当性があるとも思わない。しかし、ある一定の態様で行われるクィアベイティングに対しては、「論拠(b)属性盗用問題」のような非難の相当性が認められることがあると考える。ただし、非難の相当性が認められるからといって、非難の正当性が認められるわけではなく、①「嘘」の存在の明白性、② 配慮のテーゼへの抵触の有無、③目的の的確性、等の個別的事情を勘案し、それが法的・社会的サンクションを与えられるに値する(許容性の肯定)と認められる場合にのみ、当該法的社会的非難が正当と評価される。そして、評価は微妙であるが、例えば「同性同士で「結婚しました」「結婚します」などのワードを用いて人を呼び込む行為」に対する社会的非難は正当であると評価される余地があり、法的非難又は社会的非難が正当に与えられるべきクィアベイティングの態様を、私は「悪性のクィアベイティング」に当たる行為群(集合γ)と整理した。
  しかし結局、結論テーゼ1は、是々非々でアドホックに判断するしかないと述べているのであって、ここまで長々と考えて当たり前の結論に辿り着いたように思うが、判断の際の基準や要素を列挙することができたのは、ひとつ前身かもしれない。また、結論テーゼ2は、議論があまりできなかった倫理的非難の正当性についての定式であるが、これはそもそも「倫理的非難」が如何なる場合に許されるのかということが自分でもうまく整理できていないため、ここでは曖昧な表現に留まった。これからの課題である。

おわりに

  さて、結論は出ていないように思うが、ここでひとまず考える力のムードが尽きたので、筆をおくことにする。問題はペンディングされたままであるので、これからも考えていく必要がある。
  最後に。「shipper」であること、「クィアリーディング」をすること、「腐女子」であることはいけないことなのだろうか。

もちろん関係性消費という面で見れば異性愛も同性愛も同じかもしれないが、私としては、同性愛を異性愛と同じように見ることはできないと考えている。オタクによる(二次創作的な)百合/BL的消費は、多くの場合、同性愛者に対しての肯定でもなんでもない。
 
明文化されていない(されてる場合も含め)実質的な恋愛(異性愛)禁止が課されている環境にいる推しに対し、「推しのエッチなところ/恋愛しているところは見たい(=想像したい)が、それが(推しに対しての異性の)どこの馬の骨とも分からん奴だと嫌なので、俺も好きな(同性)メンバーなら許せる」的な思考から発生していると考えている。
 
その思考の根底には、推しへの「(オタク/運営などの)許可なしで恋愛するな」という思考・推しのパートナーへの「推しを誑かしたビッチめ」的な欠落した人権意識(主に女性蔑視)があり、それでも同性メンバー間であれば許せてしまうのはヘテロノーマティブィティによって同性愛を本物の恋愛だと認識してないという差別意識があることを否定できない。

『私が「クィアベイティング」を使ってコンテンツ批判をするわけ』:猫黒 歴史

  猫黒さんは上記ように言うし、そういう場合もあるだろうが、全く逆の方向の意識も存在するのではなかろうか。
 
 つまり、この世は異性愛イデオロギーに支配され、男女間の性愛については、男女でつがいになるべしという社会からの外的圧力に身を阿るものしかなかったり、あるいは定型化された性欲に甘んじるものでしかなかったりと、屈服的・服従的である。対して、そのような圧力・観念の檻に囚われないで、能動でも受動でもないよう形で不可避的に(時に社会規範に反することも厭わず)相手に性愛を求めてしまう同性愛的関係性にこそ、中動態としての性愛関係の真実性が立ち上がってくるのだ、とか。そういう風な同性愛のピュアな称揚の意識もないではないような気もする。
 
  つまり、「同性愛を本物の恋愛だと認識してない」のではなく、異性愛イデオロギーに支配された世界の中にあるからこそ、「同性愛的なるものに忘れ去られた原初の形態」を見出すのだと。そういった意識もある程度普遍的に存在するように思える(何処か自己言及的で恥ずかしいが)。
  あるいはもっと素朴に、マジョリティとしての異性愛に包摂されていくことへの反抗心もあるかもしれない。
  いずれにしても、私は、「shipper」であること、「クィアリーディング」をすること、「腐女子」であることが、差別意識に基づくものであるという定式の一般化には疑問がある。逆に同性愛的なムードの称揚があるようにも思うのだ。そのようなテーマで描かれた作品は冒頭で挙げた作品群の中にも多い。
  もっとも、少し個人的な話をすると、私は追っているアイドルの熱愛が出た時に(過去数回あった)、全く怒りも悲しみも自分の中に生じなかった。この様な感覚の人、「オタク」がどれだけいるのかは分からない。また、私は、「推し」と自分との性愛関係を妄想することもない。これも、同じ様な感覚の人、「オタク」がどれだけいるのかも分からないが、偶に聞く話ではある。吉田豪の「豪の部屋」に芸人のクロちゃんが出た時に、彼は、「性欲は強い方ではあると思うが、しかし、「推し」に関しては、全くそういった感情は起きない」という趣旨のことを述べていた。
  しかし、逆の話も聞く。『中年純情物語~地下アイドルに恋をして~』という地下アイドルの中年のオタク、キヨちゃんを追った伝説的な番組があるが、その中でキヨちゃんが、「今でもいい距離感だけど、その先に進んで一緒になれたらどんな感じなのかなと想像することはある。年齢差もあるし、向こうがアイドルやっている間は叶わないけれど」というようなことを述べており、価値観の違いに驚嘆したこともあった。
10  まあ、要するに、人によって「推し」との向き合い方は相当にバリエーションがあるということだろうだが、もう少し分析が可能な領域に思える。


「ただ、そのアライと差別的思考による消費とは別の存在として、現実のクィアな人間(推しではない一般人やインフルエンサー等)すらを「リアル百合/BL最高」的な思考でコンテンツとして見てしまう人をたくさん見てきた」

『私が「クィアベイティング」を使ってコンテンツ批判をするわけ』:猫黒 歴史

11  この辺はあまり深く考えられていないが、私は、モノ化(objectification)に対して寛容であると自覚するので、あまり実在人物のモノ化という現象を直感的に問題視できていない様な気もする。

12  ひとつ自分の話を。中学時代。いわゆる「腐女子」的な自称をする人が多く周りに居り、ある時「rinp12と〇〇の関係っていいよね」「rinp12が攻めかな」とかいう会話が聞こえてきたことがある。中学生だった私は、何処か、その与えられた役割期待に応えようとしたのか、あるいは注目を浴びたことにエゴイズムが擽られたのか、その時の感覚はよく覚えていないが、彼女らの期待に沿うような振る舞いをしたことを覚えている。具体的には、〇〇の髪をさりげなく徐に撫で、なんでもない様なことを耳打ちした。昔から自意識の病に取り憑かれていた私の行動原理としては自然であったかもしれない。
13  この時の私は、嫌な感情を抱かなかったし、私のような感覚がそれほど特異なものとも思っておらず、「BL/百合営業」と目される振る舞いをするインフルエンサー等も、同じ様な自己陶酔の感覚があるのではないかと分析していた。
14  もしかしたら、そのような役割期待と反応の過程を一つの暴力の形態として記述可能なのかもしれないし、するべきなのかもしれない。ただ、現段階では、実在人物への欲望の投射とモノ化(objectification)の反倫理性について言語化できていないし、尚且つ、悪性を直感しているわけでもない。これは、モノ化(objectification)の肯定という私の思想的問題が原因なのかもしれない。
 

社会全体やコンテンツ制作者(TV局や映画会社等)が被差別者を差別・透明化してきた事実を無視して彼らをテーマにしたコンテンツを作り、成功を収めるのってシンプルに腹立ちませんか。

『私が「クィアベイティング」を使ってコンテンツ批判をするわけ』:猫黒 歴史

15  これは冒頭に述べた、触れてきたコンテンツの違いが影響しているかもしれない。私は極めて自己反省的な作品を主軸に見てきたので、彼らが、過去の歴史を無視している様には思えなかったのだと思う。もっとラフに消費されている創作物等やあからさまな感情のフックを観察すれば、印象が変わり得るような予感がする。この辺は、調査をしなければ。


 

以上。


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