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中村理乃の人生ダイジェスト

沖縄で「企画」のお仕事をしています。
中村理乃です(^^)

お仕事上、ご紹介頂いた方とオンラインで
初回顔合わせをさせていただくことも増えたこの頃。

「私がどんな人か分かりにくくて
 私を紹介してくださる方の時間を奪い過ぎてないか・・・」

と気になっていた時。

レンアイ型採用を展開していて
これまでに500人以上、働く人をヒアリングしてきた
ファンシップ(株)の小宮社長に

「中村さんの人生のダイジェストを作ろうか?
そしたら初めて会う方にも人間性が伝わって紹介しやすいし
その後のお仕事もやりやすいんじゃない?」

というお言葉と共に、私の人生ダイジェストをまとめていただきました!


ちょっと気恥ずかしいですが
私の人生ダイジェストを転記します♪

今から出逢う「あなた」や、
私を知っているけど何をやっているか分からない!という方へ
少しでも私という人を知って頂けると幸いです。


⒈中村理乃のバックグランド

沖縄県 宜野湾市出身。
小学生の頃に宜野湾を引越し、
母方の祖母の家で母と兄と弟で暮らす。
母はとにかく働いてくれていたが、貧しい家計だった。
それでも「いい教育を受けさせたい」という母の思いで
琉大付属小学校・中学校に通っていた。

中学時代になかなか周りと馴染めず、
さらに周囲の高収入な家庭との環境の差に
惨めさを感じることも多かった。


⒉原体験エピソード


中学時代テニス部に入部。
ラケットは、お店に売っている一番安いやつを買った。
シューズもテニスシューズとは言い難い、ただの運動靴。
それでも自分がやると決めたことだから、不満はなかった。

ある時、そのラケットも壊れて、親に相談すると
何十年も前に叔母が使っていたラケットを探し出してくれた。
それを友達にバカにされるのは気にしなかったが、
顧問の先生に
「そんなラケットで練習するなんて、やる気がないのか?
 明日新品を用意しないのなら、やる気がないとみなす。」
と言われた。


それから、本当に練習には入れなくなった。
楽しそうに練習するメンバーを横目に
グランドの草むしりを延々とさせられ、
コートに入ろうとすると顧問に怒られた。

それでも練習前のランニングだけは、
他のメンバーと一緒にできる唯一の練習だったので、
ここだけは絶対に1番であろうと全力で走り続けた。

お金がなくても、才能がなくても
量をこなせば成果が出ると信じ、
家に帰っても素振りとランニングだけは繰り返した。
それでもレギュラーにはなれなかったが
テニス部は3年間辞めずに続けた。


とにかく、自分のことはポンコツだと思っている。

でも周りに「無理」と言われることを
ただ鵜呑みにすることはできなかった。

高校受験も周りから、絶対に無理と言われた首里高校を受験。
誰よりも真面目に授業を受けて、
鉛筆も消しゴムも、すぐに使い切るほど「量」をこなすのに
成績が上がらない。

母や周囲は「入れる高校に入ればいいんだよ。」
と言ってくれたが、
とにかく頑固な性格で、諦めることができず努力し続けた。
結果、首里高校に無事合格。

高校は、中学時代とはうって変わり
居心地がよく友達もたくさんできた。

部活は中学時代に唯一自分の支えになっていた
「走る」ことを極めたいと陸上部に入った。
いろいろあって1年生で、
ペーペーなのにキャプテンに任命された。

一番下働きをするリーダーという特殊な働き方が好きなのは
高校時代の体験も大きい。
一番先にきて用具の準備もするが、
練習中に「声出していこー!」みたいな
声出しも同時にやる、そんなキャプテンだった。


⒊新聞記者への目覚め


高校2年生の時、どうせ夏休みの宿題をやるならと
みんながあまり出さないような作文コンクールに応募。
その中で関東学院大学主催の
「心にのこる最高の先生エッセイコンテスト」に出品。
何百点もの作品のなかで最優秀賞を受賞した。
賞金10万円。授賞式の旅費も頂いた。

沖縄の新聞にも取り上げられ、母の電話は鳴りやまず
祖母は新聞の切り抜きを持ち歩いて近所に自慢してまわった。


「自分が書いた文章がお金にもなって、
 こんなに周りが評価してくれる。」

自分の人生に一筋の光が差したように思えた。

「ことばを使って食っていきたい」と新聞記者、
とくに「しまくとぅば(沖縄の言葉)」を
広めるために社会面を担当する記者を志した。
大学は「ことば」について学べる沖縄国際大学の日本文化学科に進学。


この時も私立の大学で、のんきに自分探しをしている暇はなかった。
とにかく奨学金をもらえる特待生枠に入り続けられるよう、
大学の単位はすべて「優」を狙う。
どんなに眠くなる講義も一番前で授業を受け、
教授の本を読み、無駄に!?質問もして
レポートは誰よりも熱心に書いて提出した。
結果、沖縄国際大学の卒業生代表として
スピーチをするような成績で卒業する。


⒋言葉から広告へ。そして企画に


大学生時代は、ずっと
新聞記者になると周囲に宣言していたし、
実際地元紙のインターンシップにも参加し
先輩社員からは当然入社するものとして扱われていた。

しかし、選考試験の学力試験で落とされ
面接にすら進めなかった。

失意の中、新聞の論説委員も務めていた大学教授に相談。
すると意外なアドバイスをもらう。

「中村さんは、人を傷つけるかもしれない言葉が書けますか?
 新聞記者というのは、事実を伝えるのが仕事。
 ある人は好意的に捉えることでも、
 一方で別の人を傷つけることは往々にある。
 あなたがやりたいことは、
 そういうことではないんじゃないのかな?」

確かにその通りで、
言葉の力は、何も新聞記者じゃなくても発揮できるかもしれない。
そう思い直して、就職活動を再開。
その頃同じく就活中の複数の友人たちが
「理乃は広告代理店とかいいんじゃない!?」と声を揃えて教えてくれた。


正直、全然興味がない業種だったが、
その後入社することになる会社の先輩を訪問したときに
「営業1年目の僕でもクライアントさんのチラシの
 キャッチコピーとか考えたりするよ。」という話を聞いて、
俄然やる気が湧いた。


「広告の仕事は『ことば』で誰も傷つけない。
 広告主も、それを見たお客さんも全員ハッピーになる仕事なんだ!」

と確信した。

4年生の卒業間際に、内定をもらいそのまま入社。
1年間の先輩同行期間も、早く担当クライアントが持ちたくて
うずうずしていた。
念願が叶い、ようやくあるブライダル企業の担当になる。

ただ、何の専門知識を持たない自分は
とにかく熱意と行動力でクライアントのためになろうと、
県内のブライダルフェアに片っ端から参加。
それをレポートにまとめて提出。
思いつく限りの「今の私にできること」をやっていった。
その結果、クライアントと何度も飲みに行くほど仲良くなった。

ところがそのクライアントの売上は思わしくなく
自分の携わる広告が、
肝心な「売上」に貢献できていない事実を知らされた。

担当を外れ、上司には退職したいとまで伝えたが
「あのクライアント様にとって、
 本当の実力をつけてお前が帰ってくることが恩返しではないか?」
と諭された。

それから、真剣に広告と向き合った。
これは本当に費用対効果が合うのか?
クライアントの利益になるのか?
を突き詰めて考えるようになった。

ただチラシを制作して、折り込むという作業ではなく
目的と意図を持って制作。
配布エリアも入念なマーケティングリサーチしてから決める。
その後、店舗に通い、実際の現場で起きていること
来ているお客さんをつぶさに観察。
課題が見つかり、すぐに対応できるところは
自作のPOPを作って即日フォロー。
広告の効果測定も、前年の売上と比べたりして
決して広告代理店としての思い込みだけで動かないようにした。

結果、担当のクライアントが会社のなかでも上位の取扱高にまで拡大した。
ある程度仕事に手応えを感じ始めた頃、
会社からは「仕事のやり方が属人化し過ぎだ。」という
指摘を受けるようになった。
会社全体の方向性と、自分自身が正しいと思う仕事の仕方のズレを感じ
4年勤めたこの会社を退職することにした。

広告代理店時代に、唯一心残りだったのは
沖縄県の公募案件で「しまくとぅば普及事業」に
2年連続採択されなかったことだ。
しまくとぅばの普及に関しては、
人生で大切にしたい使命の1つであるため、
仕事というよりライフワークとして取り組もうと思った。
共感してくれるメンバーがさまざまな形で手を貸してくれた。
正直、企画内容やキャスティング
そして、しまくとぅばに対する熱量は、誰にも負けない自信があった。

それでも2年連続で不採択。

細々した技術ではなく、
「企画」という全体感で負けていると実感していた。

同時に、どんなに想いがあっても
「実現」しなければ全てが無かったことになる悔しさ

打ち拉がれていた。


そんなモヤモヤした気分の中で出会い、入社したのが
企画をベースにコンサルティングを行う会社だった。

ここでは企画に対するスキルはもちろんだが
何より、「企画の奥深さ」を学ばせてもらった。

「そこまで相手のことを考えないといけないのか…」

と圧倒される毎日だった。

少し我流でやっていた矢先に、もう一度
一番地味な基礎練習を徹底的に叩き込まれるような毎日だった。

そしてこの会社では、自己内省が求められた。
これまでの自分は「自分以外の誰かのために」なら力を発揮できるが、
「自分自身のために」となると途端に興味関心モチベーションが失われる。
という自分自身の弱点も浮き彫りにして頂いた。


⒌中村理乃のこれから


目指すのは「沖縄にインパクトを与える」何かをやることだ。
例えばそれは、「しまくとぅばを広める」ことかもしれないし
全然違うことかもしれない。
とにかく、沖縄の未来が少しでも明るくなる「何か」に
具体的に携わっていられれば嬉しい。

しかし、それは独りでは到底できない。
だからこそ、沖縄を想うアツイ方々と繋がりたいと思い
その手段として「企画」を生業にしようと決意した。

会社名のmiimuNは「ミームン」と読み
しまくとぅば(沖縄の言葉)で「新しいもの」を意味する。
沖縄を想う“人”や“アイディア”が集まって
「新しいもの」を生み出す。そんな拠点でありたい!
という願いを込めた。

図1

企画は、中村理乃がまだ見ぬ「あなた」と繋がるための
とりあえずの名刺代わりだと思っている。


1度、一緒に仕事をさせてもらえれば、
「今後も中村さんと一緒に仕事をしたい!」と言ってもらえるよう
1回の打ち合わせ、
1つの仕事にも最大限の熱意を込めるように意識している。

相変わらず、行動量でカバーをするような
不格好で不器用なスタイルだが、
これが、こんな自分が自分らしくいられる唯一の方法で
最大の個性だと思う。


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いかがでしたでしょうか?
なんだか大したことのない自分を
人様にさらけだす感じで恥ずかしいですが・・・。
こんな私に少しでも共感いただける「あなた」と一緒に
未来を「」てて「」策していけたら嬉しいです♡

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