見出し画像

赤毛のアンのように、そして読書休暇を

 熊が橋から落ちる。王国の王女が排水溝から流されてくる。赤毛の少女が小径を散歩する———。
 都内ワンルームの小さな部屋。そこには百冊あまりの小説と暮らす一人の女性。そう、それが私。この部屋では、ありとあらゆる物語が交錯する。それはもう自由気ままに。そうして出来上がったのが、私の夜の夢の中。これまで触れてきた物語たちが、あっちから、こっちからと頭の中に次々と流れてくる。てくてく歩いてくるものもあれば、ヒューッと走り去るものもある。

 『こうしてイギリスから熊がいなくなりました』『ウェストマーク戦記』『赤毛のアン』海外の小説という点以外、作者、ジャンル、時代、一切の共通点を持たない彼らが、私の夢の中では仲良く走り回る。まあ、夢なのだからそんなことも起こりうろう。
 面白い。視野が広がる。追体験できる。読書が好きな理由の大半はこういった内容だろう。うん、至極真っ当。反論の余地なし。けれど、私が読書を好む理由はちょっと違う。物語を紡ぐ言葉たちと優雅に旅に出たいのだ。いや、何も格好良く見せたいわけではない。本当のこと。ただひたすらに物語の中で遊びたいのだ。
 これは、主人公の気持ちになってとか、この悪人は許せないとか、物語に感情移入をするというのともまた違う。言葉というのは不思議なもので、ただの会話でも物語を紡ぐにも誰かを傷つけることにも使える。多用万歳、悪用厳禁。
 そんな言葉だが、物語の時だけは少し姿を変える。つまり、悪用万歳に変化するのだ。多少汚い言葉も、鋭い言葉も、許される。一方繊細な言葉や明るく晴れやかな言葉は、より一層その姿を美しく魅せる。その遊び心が面白い。読書の醍醐味。一度触れてしまったら、その沼からは抜け出せない。
 ひとたび表紙をめくれば、今にも飛び出さんとする言葉たちが体をうずうずとさせている。その振動を手に覚えながら、一ページずつ噛み締め、丁寧に読み進めていくその過程は、何にも変え難い至福のときである。三時のおやつにカフェで過ごすティータイムが至福の人もあれば、ひたすらに布団に潜り続けることが至福の人もある。それが私にとっては言葉と遊ぶ、つまり読書だったというわけだ。

 一体いつからこんなふうに言葉と戯れるようになったのだろうかと思い返せば、それはきっとあの本に出会った頃。当時、十あまりだった私に母が薦めてきたのが、あの名作『赤毛のアン』。
 情景描写の多いあの描き方に苦戦したのも束の間、私はあっという間にアンの虜になってしまった。こんなにも自由で、美しい世界があるのかと、ページをめくる手が止まらなかったのである。
 アンのように、鏡の向こうに映る自分に毎日違う名前をつけては友達のように会話をし、頭の中に溢れ出る空想を忘れぬようにと必死にペンを動かした。そうこうしているうちに私は言葉に取り憑かれ、本、読書がなくては生きてゆけない人間に仕上がってしまった。けれどそのことは全く後悔していない。むしろ、あのとき『赤毛のアン』を薦めてくれた母には感謝しなければ。あそこで出会っていなければ、きっとこんなにも素敵な世界があることを、知らずに生きていたことでしょう。


 読書休暇。たまたまインターネットで見つけた一言。うわあ、なんて贅沢なんだ。うんうん、あまりに素敵すぎる。やってみたい。社会人になっても読書への眼差しが変わることがなかった、むしろ増す一方だった私は、咄嗟にそう思ってしまった。休暇中、ただひたすらに本を読み続けるだけ。やることはたったのそれだけなのに、これは間違いなく人生が変わるぞと、そう私は確信した。
 とはいえそんな休暇とは裏腹に、あまりにも忙しい仕事を選んでしまった私に、そんな夢のような時間が訪れてくれるはずもなく、私はまだこの特別な夢を叶えられてはいない。それでも少しでもそんな時間を味わいたいと、私に与えられたたった“数時間の休暇”に、私は本屋を四軒、五軒とはしごするのだ。
 夜寝る前の数十分、心が弾む本屋はないかとマップを検索する。よし、ここだと思ったところへ印をつけ、眠りにつく。そうしてときたま訪れる数時間の休暇に、それらの本屋を巡る。ただし、欲しい本、読みたい本というのは特に調べてはいない。ただそこに行って、実際に手に取り、心惹かれるものを探し出す。本の中で、“自らがその物語を形作る言葉”であることを誇りに思っている言葉の棲む本を見つけ出す。そうして選ばれた本との読書の時間は、必ず特別なものとなるのだ。
 人間が生きるのには衣食住が不可欠。しかし私にはそれと同等、いや、それ以上に読書という時間が無くては生きて行けない。どれほど忙しい時を過ごそうとも、言葉と戯れることを手放してしまっては、それはもう私ではなくなってしまう。

 いつか私に読書休暇なるものが訪れたとき、私はこのワンルームでともに暮らす本を連れて、存分に言葉と戯れる、人生を彩る旅に出るとしよう。


そのほかのエッセイはこちらから🐩

いろんなエッセイが読めるマガジン↓

エッセイ「感覚」が読めるマガジン↓

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?