初盆にて

お久しぶりに自分の言葉を綴ります。りんねです。

かなぁり、ご無沙汰な投稿になってしまったのですが、心の充電期間だったのでまぁ仕方なし。今日はリスタート、というか偶然書きたい事が出来たので徒然なるままに書いていこうかな、と思います。

父の帰宅

父は、今年亡くなりました。
ひえー唐突な一言。うーん重たい。少し茶化してみようが趣向を凝らして演出しようが誤魔化そうが重たい一言。
生死の重みは感情の対価ですから、こればかりはどうしようもないですね。

つまりですね、今は初盆ど真ん中なんです。
初めて、飾り付けられた大きな仏壇がお出まししたんです。
存在自体が濃厚な質量を持っているのに加え、予想以上に影響力が莫大です。悲しみとか後悔とか、ナヨナヨした感情のトリガーとして、この世でトップレベルに作用しやすいのではないでしょうか。

しかし、それも信心と淡く儚い期待があればこそ。
初めから「死人に口なし!覆水盆に返らず!宗教行事なんて、(精神的に)無信教の私にはほぼ関係なし!」と思っている私からしたら、世間と信心のある親戚へのアピール以外の意味をほぼ持ちません。
見栄を張る暇があるなら可愛い服を着たいし美味しいものを食べたい…なーんてカルマと煩悩でヒタヒタ浸けられた心しか持ち合わせていないので、通過儀礼は通過する為にある、程度の乾いた認識。

ここまで罰当たりな精神なので、「父が帰って来ているからご飯をお供えしなくちゃ」という言葉すら違和感を覚えます。
父親なのに。そう言われたらもう本当にその通りなので、黙って眉毛を八の字にして頭を下げるしかないのですが、お盆だからこその感慨や喜怒哀楽はほぼゼロ。
強いて言えば、親の知り合いに会うというイベントから感情の起伏が生じるかもしれません。

文化の伝承と保護、ご先祖様への感謝と命の誇り、それらの価値が見出されつつある事は理解していますし、命の重みは死んでからでも確かにこの世に存在し続けると思っています。

しかし、感情をマネジメントしてみよう、押し殺してしまおう、なんて考える事もしたくないし、誰でもできてしまう通過儀礼をあたかもそれっぽく執り行って免罪符代わりにしてしまおう、それで区切ろう…そうすっぱり割り切る事もしたくないんです。

人の命を語るほど偉大でなくて、痛みを表現できるほどお利口でもなくて、自分に嘘をつきたくないけど誰も傷つけたくなくて、いい子のふりして傲慢ですよね。

もう少し大人になったら、もう少し、「いい子」ではなく、「いい大人」になれるのでしょうか。
なれないだろうな。

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