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HSPに後天的になったと思う出来事

小学生5年生の時、3つ上の姉が不登校になった。

理由はわからないけど、多分いじめ。

母は私に何も教えてくれなかった。

おねえちゃんどうしたの?と聞いても、「りんこはいいの。りんこにはわからないから」と言われた。

学校から帰ってきても、いつもお姉ちゃんは家にいた。

不登校は中学校の間ずっと続いた。

登校しても保健室へ行く程度。

授業を受けないから成績もどんどん下がっていった。

父は姉の様子に痺れを切らして学校へ行きなさいと怒ったり、母がそこに仲介したり、喧嘩が絶えなくなった。

姉が不登校になってから、家庭内が不穏な空気に包まれていった。

また、毎日担任の先生が家庭訪問。

毎日来て迷惑な先生だな。

と思っていた。

子供ながらに、担任のやっていることが相手を思いやってしていることか、そうでないかは分別がついていた。

姉の担任は後者だと感じていた。

母は悩みすぎて円形脱毛症になってしまい、当事者ではない私はただただ、空気を読むしかなかった。

幸いわたしは明るく元気で、友達とのいざこざがあっても乗り越えられるタイプの子供だった。

姉は心優しくて、いつもわたしのことを面倒見てくれて本当に良いお姉ちゃんだったから、不登校の状態が悲しいと思っていた。

お姉ちゃんに学校に行けないの?とか悩みがあるの?とか

聞いてはいけない雰囲気だった。

わたしは家族の中で、ただただ手のかからない、学校も楽しく通っている、成績も問題ない、優等生を演じるしかなかったのだ。

私にも私なりの悩みはあった。

ある日、姉と母が急にいなくなった。

車もない。

どうしたんだろう、、

この頃、姉と母はよく二人で出かけていた。

学校がある時間にスーパーとか、ドライブとか姉の気分転換をさせていたので、またそれかな、、と思っていた。

待って待って

夜遅くに帰ってきた。

どうしたの????

母が口にした


「お母さん、お姉ちゃんと川へドライブへ行っていたの。

辛いなら一緒に死んでもいいんだよって言ったの。

車で一緒に川に飛び込もうって思ったの。」



私を置いて死ぬんだ、、、、

心の中で叫んだ。

二人に対して何も言えなかった。

言葉が出なかった。

私を置いて死なないでって言えなかった。


だって、、


私より、二人がとても辛そうだったから、、


でも


私もそんなこと言われて悲しい。。


きっと、そこからがわたしのHSPの始まり。

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