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掌編小説:8000円の未来【2303文字】

「で、味はどう?」

 兄貴が、からかうような顔で聞いてくる。俺は、一口だけ含んだ琥珀色の液体を舌で転がすように味わって、鼻に抜ける香りを楽しむ……はずだった。でも。
 首をかしげる俺を見て、兄貴が笑う。



 俺は地元の喫茶店で働いている。今はしがないアルバイトの身だ。でも、俺はコーヒーが好きだ。今風の洒落たスタンドカフェも良いが、やはりこだわりの純喫茶が良い。いつか自分の店を持ちたい。そんな夢を持ちながら、こつこつとコーヒーの勉強をしている。

 なんて恰好つけたことを言っても、田舎の狭い喫茶店で、コーヒーの本を読んだり、焙煎の本を読んだり、そんな程度の勉強。バイト代はいつの間にかなくなってしまうし、「自分の店を持つ」なんて、おおよそ遠い夢のまた夢。

 それでも、うすぼんやりとだけれど、いつか自分の店を持ちたい。漠然とした夢を持っている。夢なんて、見るのも語るのも、自由だ。



 ある日、自分の働いている店に置いていないコーヒーを調べようと本を読んでいたところ、驚くものを見つけた。

【コピ・ルアック……ジャコウネコの糞から摂られる未消化のコーヒー豆のこと。産出量が少ないため、希少性が高く、高額で取引される】

 え? ジャコウネコの糞?

 何かの比喩かと思って調べてみたが、本当に野生動物の糞から摂っているらしい。ジャコウネコを調べてみたら、猫というより、タヌキかイタチのような外見の獣だった。

 世界にはこんなコーヒーがあるのか。俺はショックを受けた。コーヒーの奥深さは、俺の知っている比ではなかった。飲んでみたい。動物の糞から摂るなんて想像もできない。こんな珍しいコーヒーがあるなんて、一度でいいから飲んでみたい。

 どこまで行けばコピ・ルアックが飲めるのか、調べてみた。

 え? 

 インターネットで検索すると、出てくる、出てくる、店の名前。場所は、神楽坂、高田馬場、神保町、横浜、中央林間、鎌倉……東京と神奈川だけでどれだけ飲めるんだ! 俺は、また別のショックを受けた。俺は、存在も、名前も、今初めて知った、コピ・ルアック。世界的にもすごい希少性があると思って、はるか遠い国に行かないと飲めないのかと思っていたのに。東京と神奈川だけで、こんなに飲めるなんて。俺はどれだけ狭い世界で生きているんだ。

 俺はさっそく、仕事の関係で横浜に住んでいる兄貴に電話をした。

「コピ・ルアック? なんだそれ」

 珍しいコーヒーで、ぜひ飲んでみたいことを説明する。

「んー、この店なら、近いぞ」

 兄貴が横浜の喫茶店を教えてくれる。

「本当か? なあ、行ってもいいか? 案内してくれよ」

「別にいいよ。今週末なら予定ないし」

 持つべきものは横浜在住の弟想いの兄貴だ。俺は、バイト代をかき集めて、兄貴の住む横浜へ向かった。



 店は、コンクリート打ちっぱなしの壁に蔦植物の絡まるお洒落なカフェで、俺は少し緊張した。入ると、シンプルな内装で、壁にコーヒー豆がずらっと並んでいる。良い香りに満ちている。

 席に案内され、メニューを開く。
 あった。コピ・ルアック。

 ──8000円!

 高いとは思っていたが、一杯8000円とは! 俺は驚いてメニューを持ったまま固まってしまった。兄貴がニヤニヤしている。

「どうした。金足りないなら、貸してやれるぜ」

 俺は首をぶんぶんと振った。さすがに金まで借りるなんて恥ずかしい。

「大丈夫だ」

 そう言って、店員さんを呼んだ。



 運ばれてきたコーヒーは、見た目は普通のコーヒーだった。香りも、特に癖はない。カップに口をつける。

「で、味はどう?」

 兄貴が、からかうような顔で聞いてくる。俺は、一口だけ含んだ琥珀色の液体を舌で転がすように味わって、鼻に抜ける香りを楽しむ……はずだった。でも。
 首をかしげる俺を見て、兄貴が笑う。

 なんてことはない、普通のコーヒーだ。これが8000円? 本当か? 騙されているのか? とんでもなくうまいとか、とんでもなくまずいとか、とんでもなく臭いとか、そういうものはないのか?

 そこへ店員さんがやってくる。モスグリーンのエプロンをつけたかわいらしい女性で、少し年上に見えたが、二十代だろう。

「うちのコピ・ルアック、いかがですか?」

「あ、はい」

 よくわかりません、とは言えない。

「うちのコピ・ルアックは、インドネシア産のアリズコピルアクという種類の天然コピ・ルアックなんです。酔うような幸福感が、後味に残ると思いませんか?」

「はあ……」

「チョコレートとバニラみたいな甘い香りが特徴的で……これ焙煎した豆だけを食べても美味しいんですよ」

 目をきらきらさせて語る店員さん。

「あ、そうなんですね」

「そうなんですよ。あ、ごめんなさい。お邪魔してしまいましたね。では、ごゆっくり」

 そう言って、戻って行った。言われてから飲むと、チョコレートとバニラの香りが……するようなしないような。

 兄貴が、ブレンドコーヒーを飲みながらニヤニヤしている。

「人生勉強には、なったな」

 その通りだ。



 店を出るときに店員さんにコピ・ルアックの豆を勧められたが、それこそ目が飛び出るほど高額で、何とか断った。

「8000円はどんな味がした?」

 兄貴が歩きながら聞いてくる。

「うーん。正直、全然わからなかった」

 思わず笑ってしまう。

「素直でいいじゃねえか。でも、今日のことは、きっとこの先絶対忘れないぜ」

 そう言って前を歩く兄貴は、何だか恰好よく見えた。

「俺さ、ちゃんと勉強して、いつか自分の店持つわ」

「おう。応援してる」

 いつか絶対、あの店員さんみたいに、きらきらした目で店のコーヒーを自慢できるような、良い店を持とう。その頃にはきっと、俺だって、味の違いのわかる男になっているはずだ。淡い期待を込めながら見た夕景に、香しい未来を感じた。

《おわり》

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