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掌編小説:マグノリア トワイライト 1/3

 ところどころ黒っぽく汚れた雪が、歩道の脇に寄せられ、膝ほどの高さまで積み上げられている。昨日の夜に強く降っていた雪はやみ、穏やかで冷たい空気と除雪された雪の塊だけが、吹雪の余韻を残している。

 エミは、ミキを幼稚園に送った帰り、ポニーテールに結った長い髪を揺らしながら、転ばないように慎重に歩いていた。スキニーデニムのポケットでスマートフォンが振動する。振動の長さからして、着信のようだ。普段こんな時間に電話してくる人なんていない。

 木度きどくんかな? エミは仕事に出たばかりの夫が忘れものでもしたかと思ったけれど、予想に反して電話の相手は職場の上司、やまだった。

「おはようございます」
「あぁ。エミ、休みの日にすまないが、ばしから何か連絡が行っているか?」

 田橋すみ──エミの働く山矢探偵事務所の後輩で、エミが産休をとっている間に就職してきた若い女性だ。

「え? 田橋ちゃんですか? 昨日事務所で会ったきり、連絡はありませんけど」
「そうか」
「何かあったんですか?」
「今日、時間になっても田橋が出勤しないんだ。電話も繋がらないし、今アパートに来てみたんだが、玄関の鍵はかかっていて、中に人がいる様子はない。エミが何か知っていればと思ったんだが」

 山矢は落ち着いた声で話す。

「いえ、何も聞いていません」
「そうか。朝から悪かったな」
「田橋ちゃん……いなくなっちゃったってことですか」

 このとき、エミと山矢の頭には同じ不安が漂っていた。山矢の天敵、荒草あらくさとの決闘から三年。そう、今年は荒草が蘇ってくる年なのだ。

「とりあえず、俺はもう少し探してみる。手がかりになりそうなものがあるかもしれない」
「わかりました。私も田橋ちゃんのアパートに向かいます」
「ミキは大丈夫なのか」
「はい。今ちょうど幼稚園に送ってきたところです」
「わかった。田橋のアパートで待っている」

 電話を切ってエミは、久しぶりに恐ろしい予感がしていた。荒草はいつも、山矢の見えるところでしか悪さをしない。それは、荒草の目的が、あくまでも山矢を懲らしめることであって、ほかの人間を傷つけることではないからだ。でも、山矢に何の知らせもなしに、田橋だけ消えた。何か、いつもと違うことが起こりそうな予感がしていた。

 エミが田橋のアパートに着くと、山矢がいつもの白いシャツに黒い細いネクタイを締めて、黒いジャケットを着て、立っていた。長身、黒髪、鋭い目つき。煙草を吸っている姿は、とてもじゃないが堅気には見えない。山矢は年中かわらずこの恰好で、エミは、こんな雪の中であの恰好じゃ寒そうで仕方なかったが、山矢は全く寒そうにはしていなかった。

 山矢はエミを見つけると、すっと片手をあげる。

「休みなのに悪いな」
「大丈夫です。それより田橋ちゃんの手がかり、ありましたか?」
「ああ、ちょっと見てほしいものがある」

 そう言うと山矢は携帯灰皿に煙草を捨て、田橋のアパートの玄関のほうへ向かった。

「これ、見てくれ」

 山矢がエミを連れて行ったのは、田橋の部屋の玄関横の、電気メーターなどが入っているメーターボックスの前だった。扉は金属製で、鍵はなし。1センチほど開いている。

「開いていますね」
「そうだ。俺が来たとき、このくらい開いていた」
「中に、隠れられます?」
「いや、見たが、そんなに広くない」 

 そう言って山矢は、メーターボックスの扉を開けた。その瞬間、エミは生ぬるい風が頬を撫でるような、言いようのない不快感を持った。恐怖にも似た、鳥肌が立つような嫌な感覚。

「やっぱり、変な感じするか?」

 山矢に聞かれて、エミは頷いた。

「怖いっていうか、嫌な感じします」

 エミは正直に答える。

「俺もそうだ。不快感しかない。だが、何もない。電気メーターと、水道メーターがあるだけだ」

 そう言いながら、山矢はメーターボックスに顔を突っ込んで覗いた。

「このメーターボックスに何か──」

 エミが話しはじめたとき

「しっ」

 急に山矢が険しい声を出す。

「おい、エミ、何か聞こえないか?」
「え?」

 エミは山矢と入れ替わってメーターボックスに顔を入れた。


 ──ねえ、今度は何して遊ぶ?


「うわあ!」

 エミは慌てて顔をひっこめる。

「聞こえたか?」
「聞こえました! え、田橋ちゃん、メーターボックスに閉じ込められているってこと? でも、田橋ちゃんの声じゃなかったような」
「ああ、田橋の声じゃなかったな」

 しばらく腕を組んで考えていた山矢は「あの話……」とつぶやいた。

「あの話?」
「エミ、田橋が子供の頃に変わった友達がいたって話、聞いたことないか?」
「変わった友達……あ! うたちゃん?」
「ああ、そうだ。田橋にしか見えていなかったお友達、歌子ちゃんだ。歌子ちゃんが、当時どこに住んでいたか、覚えているか?」

 エミは少し考えてから、眉間に皺を寄せた。

「田橋ちゃんちの、……」

「そうだ。俺は歌子ちゃんって子が、ずっと田橋を守ってくれている守護霊のような存在だと思っていた。でも、田橋は今、なんらかの方法で閉じ込められているように思える。これはどういうことなのか」

 エミにもよくわからなかった。話を聞いた限り、歌子ちゃんというお友達は、子供の頃によくあるような、子供にだけ見える不思議なお友達だった。田橋は、小学生のときにいつも一緒に遊んでいたと話していた。そして歌子ちゃんの部屋に行くには、メーターボックスの中から入っていくのだと。でも、歌子ちゃんが住んでいたのは、田橋が子供の頃に住んでいた家であって、このアパートではない。大人になるまで。一緒にくっついてきていたのか?

 山矢がまたメーターボックスの中に顔を突っ込んでいる。

「ここ……だな」

 電気メーターの左側、コンクリートの壁を撫でる。

「おそらく、ここが入り口だ。触ってみろ、すげえ嫌な感じだ」

 エミはそっとコンクリートに触れた瞬間、全身が粟立った。

「うぅ……嫌な感じ。歌子ちゃんって、こんなに嫌な存在でしたか?」
「いや、田橋にとって良い存在だと思っていたし、実際今まで田橋は救われてきている。田橋は屋上から落っこちたことがあったんだが、あのとき助かったのは、歌子ちゃんの力だと思っている。あれは、優しい温かい光だった。今まで、こんな邪悪な不快感はなかった」
「じゃ、やっぱり……」
「ああ、そうだな。──荒草だろう」

 山矢は忌まわしそうに名前を口にした。

「でも、どうやって?」
「何か手段があって、利用されているのかもしれないな」

 そう言うと山矢は舌打ちをし、きつく結んであった黒いネクタイの結び目に指をひっかけて、少しゆるめた。

「どうあれ、田橋がこの中に閉じ込められているのは事実だろう。ただ、このままじゃ、手の出しようがない」

 そう言うと、硬いコンクリートの壁を軽く拳で叩いた。

「俺はちょっと、山神村やまがみむらへ相談に行ってくる。エミは、ミキと木度くんと一緒に、安全に過ごしていてくれ。また連絡する」
「わかりました。山矢さんこそ、気を付けて行ってきてくださいね。山神村は、このへんより雪深いでしょうから」

 エミの言葉を聞いて、山矢は無表情にエミを見つめてから、ふっと息を吐いて少しだけ口角をあげた。

「エミからそんなことを言われるようになるとはな」
「どういう意味ですか」
「いや、なんでもないよ」

 山矢は煙草を咥えて火をつけると、事務所のほうへ歩いて去って行った。エミは、メーターボックスの中で聞いた声と、壁を触ったときの不快感を思い出して、寒さだけでない身震いをした。

 山矢から再び連絡があったのは、その日の夕方だった。

「エミ、変わりないか?」
「はい。田橋ちゃんとは連絡とれませんけど、それ以外は、何も起きていません」
「そうか。こっちは、山神村に着いて、村のみんなに話を聞いてもらったところだ。明日、朝一番で住職さんとなか村長と一緒にそっちに帰る。手を貸してもらえることになった」
「それは良かったです。私も、明日は木度くんが休みなので、ミキを見ていてもらえます」
「そうか。じゃ、今夜はゆっくり休むように。木度くんにもよろしく伝えてくれ」
「わかりました。おやすみなさい」

 電話を切って、エミは遠い山神村に思いを馳せる。高校生の時に初めて行った山神村。不思議な現象が、当たり前のように起こって、怪奇と常識が日常の中に溶け合っているような場所。エミは、あの場所のおかげで自分が自分らしくいられるようになったのだ、と思い出していた。懐かしい気持ちが、胸を満たす。山神村の人たちに手伝ってもらって、早く田橋を助けたいと思うエミだった。



《つづく》→2

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