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掌編小説「明日もあさっても」後編

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帰りの更衣室、洋子さんと順子さんが大きな声で話している。洋子さんも順子さんも、良い人で優しいけれど、噂話が好きで、それぞれがいないところでは、お互いの陰口を言ったりするから、はじめは何と答えていいかわからなかった。自分で失敗したお総菜を、お昼に当然のように食べるタイプの二人。

「うちの隣に住んでる夫婦なんだけど、なんか変わってるのよ。特に奥さんのほうが、ほとんど家にこもりきりで、いったい何してるんだろね」

洋子さんは声が大きい。少し出っ歯気味の前歯をさらに見せるようにしながら、更衣室にいる全員に話しているような声を出す。

「挨拶もできないし、洗濯なんかも、ほとんど休みの日に旦那がやってるみたいでさ。たまに奥さんがやっても、干し方が汚いっていうか、適当なんだよね」

洋子さんは気になっていつも隣人を観察しているらしかった。

「ちょっとここが弱いのかもしれないよ」

順子さんが侮蔑的な言い方をして、自分の人差し指でこめかみあたりを指す。

「うん、たぶんね。旦那さんは、おとなしそうな人なんだけど、2週間に1回くらい、二人でどこかに出かけているんだよ。もしかしたら、病院かもしれないね」

「病院に通ってるような奥さんじゃ家事もろくにできないだろうし、その旦那も気の毒ね。私なら、とっとと離婚しちゃうけどね」

順子さんはなぜか少し楽しそうな口調で話す。

「私も、なんで一緒にいるんだろう、って不思議に思うよ」

洋子さんは声をひそめ小声で言った後、突然大きな声で

「あー私も旦那捨てて自由になりたいわ!」

と言い出し、何がおかしいのか笑い出した。順子さんも一緒に笑っている。

私は、すっかり、げんなりしていた。会ったこともない、見たこともない、実際にいるのかもわからない夫婦の話であったけれど、それ以上は聞きたくなくて、おつかれさま、と小声で言い残し、更衣室を出た。

もやもやした気持ちでいると、自転車置き場で育代さんに会った。

私のもやもやが顔に出ていたらしい。何も言っていないのに、育代さんは「気にすることはないよ」と言った。

私は黙って頷いた。



夕食のとき、テレビはつけない。一人で過ごすとき、周囲がにぎやかなほど孤独を感じるのはなぜだろう。静かな森林を一人で散歩していても孤独は感じない。でも、騒がしい人混みを一人で歩くとき、自分は今たった一人で歩いている、と実感する。私は一人で夕食を食べるとき、テレビの賑やかな音と画面に、対峙する心意気はない。自分の孤独が増すだけだ。

だからテレビをつけず、代わりに、向いの席に典弘さんがいるつもりで食べる。

このいんげん、すごくうまいよ。胡麻和えの甘さがちょうどいいね。きっとそう言って笑ってくれる。笑うとたれ目になる優しい顔を思い浮かべる。ビールを飲んで、機嫌が良い典弘さん。私は、パートの更衣室で嫌な思いをしたことを話す。

「ほかの夫婦のことなんて、誰にもわからないのにね」

実際に口に出して言ってみる。典弘さんは、きっと、笑いながら私の頭を撫でてくれるだろう。幸恵ちゃんは気にしすぎなんだよ。人の陰口や噂話なんで、聞き流しちゃえばいいのさ。

「うん。そうだよね。聞き流しちゃえばいいんだよね」

本当に聞き流せそうな気がしてくるから、夫婦は不思議だ。もともと他人なのに、いつの間にか一番大切で、かけがえのない存在になっている。私の頭を撫でる典弘さんの手を思い浮かべ、結婚して良かった、と温かい気持ちになる。私には、この人がいるから大丈夫。



暑い日が続いている。

その日は、広告でお米が安かったから、少し遠いスーパーまで頑張って自転車で来てみた。目当てのお米は買えたが、お米を自転車の後ろの籠に括り付けると思いのほか重く、ハンドルをとられてしまうので危なくて乗れなかった。

仕方ないので自転車を押しながら帰ろうとしたときだった。スーパーの駐車場に洋子さんを見つけた。パートに来る時より洒落た恰好をしていた。きれいに化粧をして、涼し気な水色のブラウスにベージュのサブリナパンツ。ローヒールのサンダル。隣を歩く男性が買い物の荷物は全部持っていた。少し白髪交じりの髪、恰幅の良い、品のある男性だった。

二人が近づいていく一台の大きなファミリーワゴンから赤ん坊を抱いた女性が降りてきて洋子さん夫婦に歩み寄った。洋子さんは赤ん坊をあやし、ご主人は笑いながら荷物を車に積む。洋子さんとその家族を乗せた車は、幸せの余韻をたっぷり濃厚に残したまま、走り去っていった。

車が去った方向を見たまま突っ立っていた私は、気付くと、歯をきつく噛みしめていた。たまたま着てきてしまった変なキャラクター柄のTシャツが急に恥ずかしく思えて俯くと、何年か前に買ったサンダルから、ペディキュアの禿げた足先が見えた。胸がひゅっとする。なんだか、気持ちがとても寂しい。




今日はパートが休みなので、朝から洗濯をしたり洗面台の掃除をしたり、家事がはかどった。外は相変わらず暑そうだけれど、洗濯物はよく乾くだろう。

昼食を作ろうと思って台所へ行って、ゴミ箱のビニールが蓋からずれているのを見つけた。袋の装着がうまくいってなかったのだろう。直そうと、何気なくゴミ箱の蓋を開け、意外なものを見た。ゴミ箱に、いんげんの胡麻和え、焼き魚、わかめときゅうりの酢の物、昨日の夕食がそのまま捨ててあるのだ。

え、どうして。

胸がひゅっと縮むような嫌な気分がした。見たくなかったものを見てしまったような後悔。考えることを拒否したい気持ちに従おうとしたそのとき、一瞬、皿からゴミ箱に料理を捨てる映像が脳裏に浮かぶ。

昨日盛り付けた皿。ゴミ箱の蓋を開けて、皿を傾けて、料理を捨てる。皿を持っている、私の手。私の手が、料理を捨てたのを、私は知っている……?

私が……捨てた?

思い出したくない。でも、記憶がよみがえってくる。確かに、私が自分で料理をゴミ箱に捨てた気がする。でも、いつ? なぜ?

典弘さんが外食で済ませたか何か理由があって、昨日は食事を捨てたのだろうか。でも、丸ごと捨てたりするだろうか。それに、捨ててしまったことを今まですっかり忘れていた。まったく覚えていなかった。覚えてないことも不思議だし不安だ。少し前から抱えている、胸がひゅっとする違和感は強くなっていく。何か重要なことを忘れてしまっているような違和感は、日に日に大きくなる。何かがおかしい。何かが間違っている。何かがおかしいのだけれど、それが何なのか、思い出せない。思い出したくない。早く典弘さんに会いたい。こんな不安な日くらい、早く帰ってきてくれればいいのに。仕事なんて放って、早く帰ってきて「大丈夫だよ」と笑ってくれればいいのに。



今日も朝から胸がひゅっとするような違和感が離れない。サドルの熱された自転車にまたがり、じりじりと暑い日差しに耐えながらペダルを漕いでパートへ行く。更衣室で育代さんに会ったけれど、楽しく会話する気分にはなれない。育代さんも、その思いを察してくれているのか、あまり話しかけないでいてくれた。

割烹着に着替え、髪をまとめ、今日も他人の食卓のためにお総菜を作る。他人の一家団欒のために鶏団子を揚げる。どぷん。ゆらりゆらり。さっと。目の前の仕事に集中して。胸の違和感になんて、気づかないくらい。



パートを終えて帰宅する。
誰もいない部屋。
なんだか疲れてしまった。

今日も典弘さんは帰りが遅い。帰りが遅い。毎日帰りが遅くて、ゆっくり話す時間もない。顔も見ていない。顔も見ていない。もうどのくらい顔を見ていないんだろう。

背中がぞっとする。胸がひゅっと縮む。そんなわけない。そんなはずがない。そんなに会ってないわけがない。帰りが遅くて寂しいから、そんな気がするだけ。

思い込もうとする気持ちと裏腹に、ものすごい焦りが襲ってくる。私、何かを思い出しそう。

急いで台所のゴミ箱を開ける。
昨日の夕食、その前の日の夕食、その前の日の夕食、毎日作っている献立がすべてそのまま捨ててある。



叫びそうになるのを堪えて、玄関に走り急いで下駄箱を開けると、典弘さんが会社に履いていく革靴が入っている。今、会社に履いて行ってるはずなのに、どういうこと。部屋に戻り、混乱した頭で押入れを開けると、会社へ着ていくスーツがきれいに袋に覆われてしまってある。

押入れを開けると……

え、押入れ?

典弘さんと住んでいたマンションに押入れなんてなかった。大きな作り付けのクローゼットだったじゃない。何でこの家、押入れがあるの?

私は意味が分からず、事態を飲み込めず、畳の床にぺたんと座り込む。6畳の和室、狭い台所、黄ばんだ冷蔵庫の扉によく知らないキャラクターのシールが貼ってある。油で汚れたガスコンロ。出しっぱなしのやかん。部屋を見渡し、愕然とする。

ここはどこ?

典弘さん、どこ行っちゃったの?

ふっと何か誘われるような気持ちになって、食器棚の引き出しを開ける。さまざまな書類の一番上に、クリアファイルに入った私の直筆のメモが目に飛び込んできた。



【捜索願受理番号】



捜索願?
捜索願を、私が提出したということ?

混乱する頭と動揺する気持ち、ほとんどパニックに陥り、叫びたい衝動を何とか飲み込み、頭を抱えてしゃがみこむ。捜索願受理番号。



「大人の失踪の場合、自分の意思で、という方も多いんです」

 

誰かの声で突然よみがえるセリフ。捜索願を出したときに警察署の人に言われた言葉だ。だから積極的には探しません、という意味だった。どうして忘れていたんだろう。そんな大切なこと。そうだ、私が自分で捜索願を出しに行ったじゃないか。そこで言われたのだ。

「大人の失踪の場合、自分の意思で、という方も多いんです」

大人の失踪は自分の意思で。自分の意思で。典弘さんの意思で。私を置いて。私を捨てて。

典弘さんの柔らかい髪、太い腕、優しい声、こんなに覚えているのに、昨日も帰ってきたと思っていたのに、典弘さんのために毎日ごはん作っていたのに、典弘さんのためにお風呂場の床を磨いていたのに、毎日一緒に暮らしていると思っていたのに、今日も明日もあさっても、私は典弘さんの妻なのに。私の髪を撫でる優しい手、昨日の夜も同じベッドで寝ていたと思っていたのに。私の夫が失踪したなんて、きっと何かの間違いだ。

頭が痛い。胸がひゅっと縮む。気持ちが寂しくて寂しくて泣きたいくらい心細い。寂しい。寂しい。泣きたい。泣きたい。私はどうしたらいい。






気が付くと床に横たわっていた。
少し眠ってしまったみたい。パートが続いていたから疲れているのかな。少し頭が痛い。眠ってしまう前に、何か大切なことを考えていた気がするのだけれど……忘れてしまったから、それほど重要なことでもなかったのかな。自分の楽観主義に呆れて苦笑してしまう。

「幸恵ちゃんの物忘れは天才的だからね」

夫の口調を真似して口に出してみる。自分でもそう思えて、笑えてくる。

床で寝てしまったから体が痛い。汗が冷えて少し寒い。窓の外が薄暗い。夕食の買い物にいかないと、と思い立つ。そういえば、今日はお肉の安売り日だ。典弘さんは相変わらず忙しい人だから、これからの季節、スタミナをつけてもらうためにトンカツにでもしようかな。典弘さんがトンカツを頬張る姿を思い浮かべ、自然に頬が緩む。 

立ち上がり、冷蔵庫の中を確認する。何を買い足せばいいか考えながら、鼻歌を歌った。





《おわり》

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