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掌編小説:明日もあさっても【8918文字】

今日も典弘さんは帰りが遅いらしい。

異動先の新しい部署が忙しいようだ。最近は、いつも私が寝てからの帰宅だ。夫の帰りが遅いのは寂しいことだけれど、仕事が忙しいのは喜ぶべきことだし、多忙な夫を支える妻、というのもなかなか悪くない、と私は四つん這いになって風呂場のタイルをブラシでこすりながら、思う。


先週梅雨が明けてから、暑い日が続いている。午後の三時。リビングは軽くエアコンをかけているが、それでも浴室はずいぶん蒸している。


夫が仕事から帰ってきたときに、きれいなお風呂で疲れを癒してもらいたい。そう思っているから、浴室の掃除は気合いが入る。カビ取りハイターなどで「こすらずキレイ」になる洗剤もあるが、やはり四つん這いでゴシゴシこするのが一番きれいになる。

Tシャツの裾をスウェットパンツのお腹に入れ、スウェットパンツの裾は膝上までまくり上げて、床に膝をつき、力を入れてゴシゴシこする。排水溝や浴槽と床の隙間など、見えづらいところは細めのブラシでしっかりこする。シャンプーやボディソープのボトルの裏は見逃しがちだ。すべてひっくり返してスポンジでこする。磨き終えたら、洗剤は水で流す。冷たい水のほうが新しいカビが付きにくい。水で流して、最後はスクイージーを使って、なるべく水分を残さない。立ち上がり、腰を伸ばして浴室を見渡す。満足だ。

「忙しい夫を支える良き妻」

声に出して言い、その響きの幸福さに思わず笑ってしまう。時代錯誤なのかもしれない。でも、私は、忙しい夫を陰で支えられることに、妻として生きがいを感じている。



今日の夕食は何を作ろうか。脱衣所で自分の手足を拭き、膝上まであげていたスウェットの裾を直す。

典弘さんの好物をいくつか思い浮かべながら冷蔵庫の中を確認する。何を買い足そうか。効率よく買い物をして、家計を支えるのも、良き妻の仕事。夫の収入は十分にあるが、それでも将来のことも考えて、節約することも大切。

鶏もも肉があるから、から揚げにしよう。生姜をたっぷり入れて、塩から揚げにしようか。メインが揚げ物だから、副菜はさっぱり冷奴と、箸休めに煮豆でも作ろうか。お野菜が少ないからお味噌汁は具だくさん野菜たっぷり汁にしようかな。忙しい夫の体調は、食事で支えたいと思っている。たとえ帰りが遅くても、栄養のある手料理を食べて、翌日への英気を養ってもらいたい。

「お、今夜はから揚げか、うまそうだな。ビールが進んじゃうな」

夫の口調を真似して口に出してみる。笑いながら食卓につく姿が目に浮かぶ。きっと塩から揚げは夫の好みだ。から揚げを食べながら、冷えたビールを美味しそうに飲むのだろう。グラスが空になれば、私はすぐに注いであげる。忙しくなる前は、いつもそうやって一緒に夕食を食べていた。ふと寂しさがこみあげる。

「仕事が忙しいんだから、仕方ないでしょ」

自分に言い聞かせ、買い物に行くためにスウェットをジーンズに履き替えた。



夕方になっても外は蒸し暑かった。さっと買い物を済ませ、手早く夕食を作る。一人で夕食を食べるとき、テレビはつけないことにしている。15分ほどで夕食を食べ終え、すぐに食器を洗う。典弘さんの食事はラップをして冷蔵庫へ。テーブルに書置きを残す。

『今日もお疲れ様。食事は冷蔵庫です。レンジして食べてね』

自分でピカピカに磨き上げたお風呂で入浴を済ませ、私は一人布団に入る。





朝目が覚めると、典弘さんはもう出勤していた。夕食の食器がきれいに洗って、水切り籠に伏せてある。典弘さんは、どんなに遅く帰ってきても、ちゃんと食器を洗っておいてくれる。私は、きれいな台所で気持ちいい朝を迎えることができる。忙しくても、妻に家のことを任せて当然、という風にしないところも、典弘さんの素敵なところだ。夫を陰ながら支える良き妻でありたいけれど、威張った亭主関白な男性が好きなわけじゃない。典弘さんは、家事をする私をいつも労ってくれる。



トーストとヨーグルトで簡単な朝食を終えると、私はパートに行く準備をする。自転車で15分ほどのところにある商店街のお総菜屋さんで働いているのだ。

食品を扱う店だから、髪はひとつに結い、化粧もあまりしてはいけない。手短かに支度を済ませ、サンダルをつっかけて外へ出ると、お隣さんも家から出てくるところだった。

「おはようございます」

声をかけると

「おはようございます。今日も暑くなりそうですね」

と返事が返ってきた。いつもあまり挨拶を返してくれない人だったのに、今日はとてもにこやかだった。何か良いことがあったのかしら。

お隣さんはすぐに家に入ってしまったが、おくるみに赤ちゃんを抱いているように見えた。一人暮らしだと思っていたのに。それぞれの人の、それぞれの朝。それぞれの今日。



首の後ろまで日よけのついた帽子をかぶり自転車にまたがると、まだ朝だというのにもうサドルが熱くなっていた。だから夏は嫌だ。怯んだ心に少しだけ気合いを入れてペダルを漕ぎだす。握るハンドルも熱い。ペダルを漕ぐ度にキイキイ軋むような音がする。数分漕いでいるうちに、帽子の下にじっとり汗が染みてくる。ハンドルを握る手の甲に強い日差しが刺す。暑くて不快だ、と思ったその一瞬、ぐっと胸にこみ上げてくる言いようのない違和感があった。違和感。でも、何に対する違和感だろう。

少し考えてみても、不快感が増すだけで、違和感の正体は見えてこない。暑いから嫌な気持ちになっているだけかなと、増してくる不快感を無視してペダルを漕ぐ。手の甲がじりじり暑い。うっすら日に焼けて浅黒くなった手の甲が暑い。ハンドルを握る手に力が入る。一瞬感じた違和感と、そのあとなぜか沸き起こった少しの惨めさを頭から追い出し、ペダルを踏むことに集中する。



店についたら、更衣室に育代さんがいた。育代さんは、ぜい肉のたっぷりついた腕やお腹を揺すりながら、割烹着に着替えている。髪はまとめて、三角巾を被るのが店の決まりだ。

「幸恵さん、おはよう。今日も暑いねぇ。ほら、野菜ジュース飲みな」

いつもにこやかで飾らない、世話好きな中年の女性。育代さんは私を何かと気にかけてくれている。1日に必要な野菜、果物、食物繊維などが1本でとれるというその紙パックのジュースは、よく冷えていて表面が結露で濡れている。私は遠慮せずに受け取り(育代さんは気を使って遠慮することを嫌う)お昼休憩中に飲みます、とお礼を言う。

「最近の夏は本当に暑いからね、幸恵さんもちゃんと食べて少しは太らないと、夏バテしちゃうわよー。私の肉を分けてあげたいわ」

そう言って快活に笑う育代さんは、その体重のせいで痛めているという膝をかばうように、体を揺らしながら厨房へ向かっていった。私も急いで身支度を整え、あとを追う。

 

今日は、店で一番人気の「鶏団子」を揚げる当番だ。鶏肉の挽肉に、たまねぎや人参やひじきや生姜などみじん切りになって入っていて、それを油で揚げるのだ。ボールに大量に作ってあるそのタネをスプーンですくって油へ落とす。どぷん、と一度油に沈んでから、ゆらりゆらりと浮き上がってくる鶏団子。少しずつ表面の色が濃くなって、茶色になったらさっと手早くすくいあげ、油切りトレイへうつす。

外はカリッと中はふわっと、を売り文句にしているため、あげるタイミングは大切で、鶏団子の当番の日は、いつも以上に集中力が必要だ。目の前の、ひとつひとつの仕事に集中する。どんな仕事でも、馬鹿にしてはいけない。この労働でお金をもらっているのだから。丁寧に、集中して、真面目に取り組む。

夫が仕事中の私を見たら「幸恵ちゃん真面目すぎるんだよ」と笑うだろう。でも、私はそうするしか、仕事への向き合い方を知らない。お金をもらう以上、真面目に取り組むのは当たり前だ。

どぷん、と油に落とし、ゆらりゆらりと浮かんで、茶色くなったらさっとあげる。どぷん、ゆらりゆらり、さっと。どぷん、ゆらりゆらり、さっと。



更衣室の隣の事務室で、パート従業員は交代でお昼休憩をとる。折り畳みタイプの事務テーブルが一つ置いてあり、その半分は何かの書類や店の備品を買うためのカタログや誰かの忘れものや雑多なものであふれているため、もう半分の少しのスペースで、今日は育代さんと顔を突き合わせてお昼を食べる。

この店ではまかないとして、売り物にならなくなったお総菜が食べられる。割れて中身が飛び出してしまったコロッケや、揚げすぎて黒くなってしまった鶏のから揚げ。

育代さんも私もあまり失敗作を作らないが、ほかの人はすぐに揚げ物を黒くしては、お昼に自分で食べている。私なら、自分が失敗して売れなくなってしまったものを、あんな平気な顔をして食べられない。恥ずかしくて。いたたまれなくて。もしくは、品がなくて。


私は、朝握ってきたおにぎりを食べながら、ほかの人が失敗した少し黒いから揚げをつまむ。失敗作を多く出す人は品がない、なんて思いながら、自分でも誰かが失敗したまかないを期待して白いおにぎりしか持ってこないのだから、私も品がない、と思う。

かつてはもう少し品があって淑やかな女だったのに、と思う。
でも、かつてっていつ?と思った途端、胸がひゅっと音をたてるみたいに縮んで、嫌な気分になる。まただ。この感じ。朝感じた違和感にも似ている。最近よく訪れるこの感じ。何かを忘れているような、妙な気持ち。何かとても大切なことを忘れてしまっているような。焦りに似た感情が沸き起こる。思い出そうと考えてみても、悲しく惨めな気持ちばかりが溢れ出て、肝心な何かが思い出せない。

「ね、幸恵さんはどう思う?」

育代さんが私に何か話していたらしい。曖昧に笑って返事をしたが、話を聞いてなかった私には、何のことかさっぱりわからない。育代さんはそんな私を特に責めるわけでもなく、にこにこしながら話し続けている。



午後も「鶏団子」を揚げる当番だ。熱された油に鶏団子を落としていく。どぷん、ゆらりゆらり、さっと、の繰り返し。当店一番人気の鶏団子。買ってくのは、ほとんどが主婦で、夕食のおかずに食べるようだ。私は、鶏団子を食べるそれぞれの家庭の食卓を思い浮かべる。

子供たちは大好きな鶏団子を競い合って食べ、最後の一個で喧嘩をする。それを見て笑う両親。平和な食卓。家族の団欒。テレビもついていて賑やかなバラエティ番組を見ているのだろう。もしくは、野球中継。応援しているチームが勝って、ご機嫌なお父さん。微笑むお母さん、今度はデザートを奪い合う子供たち。賑やかで温かい家庭の風景。

そこまで考えて、自分が奥歯を噛みしめていることに気付く。他人の幸せのための、私の労働。いけない、目の前の仕事に集中しなければ。



帰りの更衣室、洋子さんと順子さんが大きな声で話している。洋子さんも順子さんも、良い人で優しいけれど、噂話が好きで、それぞれがいないところでは、お互いの陰口を言ったりするから、はじめは何と答えていいかわからなかった。自分で失敗したお総菜を、お昼に当然のように食べるタイプの二人。

「うちの隣に住んでる夫婦なんだけど、なんか変わってるのよ。特に奥さんのほうが、ほとんど家にこもりきりで、いったい何してるんだろね」

洋子さんは声が大きい。少し出っ歯気味の前歯をさらに見せるようにしながら、更衣室にいる全員に話しているような声を出す。

「挨拶もできないし、洗濯なんかも、ほとんど休みの日に旦那がやってるみたいでさ。たまに奥さんがやっても、干し方が汚いっていうか、適当なんだよね」

洋子さんは気になっていつも隣人を観察しているらしかった。

「ちょっとここが弱いのかもしれないよ」

順子さんが侮蔑的な言い方をして、自分の人差し指でこめかみあたりを指す。

「うん、たぶんね。旦那さんは、おとなしそうな人なんだけど、2週間に1回くらい、二人でどこかに出かけているんだよ。もしかしたら、病院かもしれないね」

「病院に通ってるような奥さんじゃ家事もろくにできないだろうし、その旦那も気の毒ね。私なら、とっとと離婚しちゃうけどね」

順子さんはなぜか少し楽しそうな口調で話す。

「私も、なんで一緒にいるんだろう、って不思議に思うよ」

洋子さんは声をひそめ小声で言った後、突然大きな声で

「あー私も旦那捨てて自由になりたいわ!」

と言い出し、何がおかしいのか笑い出した。順子さんも一緒に笑っている。

私は、すっかり、げんなりしていた。会ったこともない、見たこともない、実際にいるのかもわからない夫婦の話であったけれど、それ以上は聞きたくなくて、おつかれさま、と小声で言い残し、更衣室を出た。

もやもやした気持ちでいると、自転車置き場で育代さんに会った。

私のもやもやが顔に出ていたらしい。何も言っていないのに、育代さんは「気にすることはないよ」と言った。

私は黙って頷いた。



夕食のとき、テレビはつけない。一人で過ごすとき、周囲がにぎやかなほど孤独を感じるのはなぜだろう。静かな森林を一人で散歩していても孤独は感じない。でも、騒がしい人混みを一人で歩くとき、自分は今たった一人で歩いている、と実感する。私は一人で夕食を食べるとき、テレビの賑やかな音と画面に、対峙する心意気はない。自分の孤独が増すだけだ。

だからテレビをつけず、代わりに、向いの席に典弘さんがいるつもりで食べる。

このいんげん、すごくうまいよ。胡麻和えの甘さがちょうどいいね。きっとそう言って笑ってくれる。笑うとたれ目になる優しい顔を思い浮かべる。ビールを飲んで、機嫌が良い典弘さん。私は、パートの更衣室で嫌な思いをしたことを話す。

「ほかの夫婦のことなんて、誰にもわからないのにね」

実際に口に出して言ってみる。典弘さんは、きっと、笑いながら私の頭を撫でてくれるだろう。幸恵ちゃんは気にしすぎなんだよ。人の陰口や噂話なんで、聞き流しちゃえばいいのさ。

「うん。そうだよね。聞き流しちゃえばいいんだよね」

本当に聞き流せそうな気がしてくるから、夫婦は不思議だ。もともと他人なのに、いつの間にか一番大切で、かけがえのない存在になっている。私の頭を撫でる典弘さんの手を思い浮かべ、結婚して良かった、と温かい気持ちになる。私には、この人がいるから大丈夫。



暑い日が続いている。

その日は、広告でお米が安かったから、少し遠いスーパーまで頑張って自転車で来てみた。目当てのお米は買えたが、お米を自転車の後ろの籠に括り付けると思いのほか重く、ハンドルをとられてしまうので危なくて乗れなかった。

仕方ないので自転車を押しながら帰ろうとしたときだった。スーパーの駐車場に洋子さんを見つけた。パートに来る時より洒落た恰好をしていた。きれいに化粧をして、涼し気な水色のブラウスにベージュのサブリナパンツ。ローヒールのサンダル。隣を歩く男性が買い物の荷物は全部持っていた。少し白髪交じりの髪、恰幅の良い、品のある男性だった。

二人が近づいていく一台の大きなファミリーワゴンから赤ん坊を抱いた女性が降りてきて洋子さん夫婦に歩み寄った。洋子さんは赤ん坊をあやし、ご主人は笑いながら荷物を車に積む。洋子さんとその家族を乗せた車は、幸せの余韻をたっぷり濃厚に残したまま、走り去っていった。

車が去った方向を見たまま突っ立っていた私は、気付くと、歯をきつく噛みしめていた。たまたま着てきてしまった変なキャラクター柄のTシャツが急に恥ずかしく思えて俯くと、何年か前に買ったサンダルから、ペディキュアの禿げた足先が見えた。胸がひゅっとする。なんだか、気持ちがとても寂しい。




今日はパートが休みなので、朝から洗濯をしたり洗面台の掃除をしたり、家事がはかどった。外は相変わらず暑そうだけれど、洗濯物はよく乾くだろう。

昼食を作ろうと思って台所へ行って、ゴミ箱のビニールが蓋からずれているのを見つけた。袋の装着がうまくいってなかったのだろう。直そうと、何気なくゴミ箱の蓋を開け、意外なものを見た。ゴミ箱に、いんげんの胡麻和え、焼き魚、わかめときゅうりの酢の物、昨日の夕食がそのまま捨ててあるのだ。

え、どうして。

胸がひゅっと縮むような嫌な気分がした。見たくなかったものを見てしまったような後悔。考えることを拒否したい気持ちに従おうとしたそのとき、一瞬、皿からゴミ箱に料理を捨てる映像が脳裏に浮かぶ。

昨日盛り付けた皿。ゴミ箱の蓋を開けて、皿を傾けて、料理を捨てる。皿を持っている、私の手。私の手が、料理を捨てたのを、私は知っている……?

私が……捨てた?

思い出したくない。でも、記憶がよみがえってくる。確かに、私が自分で料理をゴミ箱に捨てた気がする。でも、いつ? なぜ?

典弘さんが外食で済ませたか何か理由があって、昨日は食事を捨てたのだろうか。でも、丸ごと捨てたりするだろうか。それに、捨ててしまったことを今まですっかり忘れていた。まったく覚えていなかった。覚えてないことも不思議だし不安だ。少し前から抱えている、胸がひゅっとする違和感は強くなっていく。何か重要なことを忘れてしまっているような違和感は、日に日に大きくなる。何かがおかしい。何かが間違っている。何かがおかしいのだけれど、それが何なのか、思い出せない。思い出したくない。早く典弘さんに会いたい。こんな不安な日くらい、早く帰ってきてくれればいいのに。仕事なんて放って、早く帰ってきて「大丈夫だよ」と笑ってくれればいいのに。



今日も朝から胸がひゅっとするような違和感が離れない。サドルの熱された自転車にまたがり、じりじりと暑い日差しに耐えながらペダルを漕いでパートへ行く。更衣室で育代さんに会ったけれど、楽しく会話する気分にはなれない。育代さんも、その思いを察してくれているのか、あまり話しかけないでいてくれた。

割烹着に着替え、髪をまとめ、今日も他人の食卓のためにお総菜を作る。他人の一家団欒のために鶏団子を揚げる。どぷん。ゆらりゆらり。さっと。目の前の仕事に集中して。胸の違和感になんて、気づかないくらい。



パートを終えて帰宅する。
誰もいない部屋。
なんだか疲れてしまった。

今日も典弘さんは帰りが遅い。帰りが遅い。毎日帰りが遅くて、ゆっくり話す時間もない。顔も見ていない。顔も見ていない。もうどのくらい顔を見ていないんだろう。

背中がぞっとする。胸がひゅっと縮む。そんなわけない。そんなはずがない。そんなに会ってないわけがない。帰りが遅くて寂しいから、そんな気がするだけ。

思い込もうとする気持ちと裏腹に、ものすごい焦りが襲ってくる。私、何かを思い出しそう。

急いで台所のゴミ箱を開ける。
昨日の夕食、その前の日の夕食、その前の日の夕食、毎日作っている献立がすべてそのまま捨ててある。



叫びそうになるのを堪えて、玄関に走り急いで下駄箱を開けると、典弘さんが会社に履いていく革靴が入っている。今、会社に履いて行ってるはずなのに、どういうこと。部屋に戻り、混乱した頭で押入れを開けると、会社へ着ていくスーツがきれいに袋に覆われてしまってある。

押入れを開けると……

え、押入れ?

典弘さんと住んでいたマンションに押入れなんてなかった。大きな作り付けのクローゼットだったじゃない。何でこの家、押入れがあるの?

私は意味が分からず、事態を飲み込めず、畳の床にぺたんと座り込む。6畳の和室、狭い台所、黄ばんだ冷蔵庫の扉によく知らないキャラクターのシールが貼ってある。油で汚れたガスコンロ。出しっぱなしのやかん。部屋を見渡し、愕然とする。

ここはどこ?

典弘さん、どこ行っちゃったの?

ふっと何か誘われるような気持ちになって、食器棚の引き出しを開ける。さまざまな書類の一番上に、クリアファイルに入った私の直筆のメモが目に飛び込んできた。



【捜索願受理番号】



捜索願?
捜索願を、私が提出したということ?

混乱する頭と動揺する気持ち、ほとんどパニックに陥り、叫びたい衝動を何とか飲み込み、頭を抱えてしゃがみこむ。捜索願受理番号。



「大人の失踪の場合、自分の意思で、という方も多いんです」

 

誰かの声で突然よみがえるセリフ。捜索願を出したときに警察署の人に言われた言葉だ。だから積極的には探しません、という意味だった。どうして忘れていたんだろう。そんな大切なこと。そうだ、私が自分で捜索願を出しに行ったじゃないか。そこで言われたのだ。

「大人の失踪の場合、自分の意思で、という方も多いんです」

大人の失踪は自分の意思で。自分の意思で。典弘さんの意思で。私を置いて。私を捨てて。

典弘さんの柔らかい髪、太い腕、優しい声、こんなに覚えているのに、昨日も帰ってきたと思っていたのに、典弘さんのために毎日ごはん作っていたのに、典弘さんのためにお風呂場の床を磨いていたのに、毎日一緒に暮らしていると思っていたのに、今日も明日もあさっても、私は典弘さんの妻なのに。私の髪を撫でる優しい手、昨日の夜も同じベッドで寝ていたと思っていたのに。私の夫が失踪したなんて、きっと何かの間違いだ。

頭が痛い。胸がひゅっと縮む。気持ちが寂しくて寂しくて泣きたいくらい心細い。寂しい。寂しい。泣きたい。泣きたい。私はどうしたらいい。






気が付くと床に横たわっていた。
少し眠ってしまったみたい。パートが続いていたから疲れているのかな。少し頭が痛い。眠ってしまう前に、何か大切なことを考えていた気がするのだけれど……忘れてしまったから、それほど重要なことでもなかったのかな。自分の楽観主義に呆れて苦笑してしまう。

「幸恵ちゃんの物忘れは天才的だからね」

夫の口調を真似して口に出してみる。自分でもそう思えて、笑えてくる。

床で寝てしまったから体が痛い。汗が冷えて少し寒い。窓の外が薄暗い。夕食の買い物にいかないと、と思い立つ。そういえば、今日はお肉の安売り日だ。典弘さんは相変わらず忙しい人だから、これからの季節、スタミナをつけてもらうためにトンカツにでもしようかな。典弘さんがトンカツを頬張る姿を思い浮かべ、自然に頬が緩む。 

立ち上がり、冷蔵庫の中を確認する。何を買い足せばいいか考えながら、鼻歌を歌った。


《おわり》








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