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【エッセイ】駆け抜けたUTMB170kmの風は、誰かへの優しさの匂いがした。

2015年8月、私はフランス、モンブランの麓町、シャモニーを走っていた。

私が走ったのは、およそ30m程度。でも、その30mを吹く風は、モンブラン1周170kmと、ここに至るまでの挑戦の日々、そして、誰かへの優しさの匂いがした。



そもそもの始まりは、その日、日本にいた人なら誰も忘れることができないであろう、あの日。

2011年3月11日。東日本大震災。

当時、看護師として病棟勤務していた私は、地震の揺れを感じた瞬間、患者さんたちが集まってお茶を飲んでいた談話室に走った。どんどん強くなる揺れ。左腕で車椅子の患者さんを、右腕で杖歩行の患者さんを抱きかかえ、ふたりが倒れないように必死で支えた。車椅子ごと倒れてしまいそうな揺れだった。

揺れがおさまり、どうにか家に帰れる状況になって、帰宅。神奈川県在住の私たち夫婦の家に大きな被害はなかったが、テレビのニュースでは決して忘れることのできない悲惨な映像が流され続けた。

あらゆるものを飲み込み、全てを奪った津波。あの恐ろしい映像が脳裏を離れないのは私だけではないはずだ。



そんなニュースを見ながら夫が言った。

「日本は地震の多い国だし、その分、津波の危険も高い。台風も来るし、洪水もある。自然災害はいつ起こるかわからない。災害にあって、自分が逃げているとき、もしお年寄りが一生懸命逃げていたら、俺は助けられるだろうか。もし大人とはぐれた子供が泣いていたら、俺は救えるだろうか。」

私は、地震の瞬間、両腕に抱えていた患者さんたちを思い出していた。

「俺は、自分も助かって、その上で、少しでも誰かひとりでも多くの人を救えるように、タフでいたい。例えば、お年寄りをおぶって逃げられるくらいに。子供を抱っこして走れるくらいに。俺はなりたい。」

恐ろしい映像にショックを受けていたのは夫も一緒だったのだ。その上で、いつかくる非常事態に備えて、自分を鍛える、という選択をした夫。私は賛同し、応援すると伝えた。



その日から、夫はまず近所を走り始めた。

中学、高校と陸上部ではあったが、種目は短距離。しかも高校を卒業してからは陸上競技とは離れていた夫。無理はせず、継続できることを目標に、短い距離から始めていた。

そして、日々のジョギングは継続され、習慣化していた。



そして10か月ほど経ったある日。夫は突然、雑誌を持ってきて私に見せ、「俺、これに出る。」と言った。

それはトレイルランニングという山岳地帯を走るスポーツを紹介する記事で、そのトレイルランニングの世界では一番大きいといってもいい、ウルトラトレイル・デュ・モンブラン(通称UTMB)というレースを特集していた。

UTMBとは、ヨーロッパアルプスの最高峰モンブランを取り巻くフランス、スイス、イタリアにまたがる山岳地帯を走るトレイルランニングのレースである。総距離170km。累積標高差9889m。制限時間46時間半。つまり、フルマラソン4回分走る間に、エベレスト以上の高さまで登るというレースなのだ。


その雑誌には、まるで「アルプスの少女ハイジ」の世界のような広大な草原と聳える山々、美しい氷河、そして過酷な山岳地帯を走る選手の姿が載っていた。

「出るって、これに?!」
「うん。出たい。出てみたい。」

まだジョギングを始めて10か月。継続できてはいるが、近所を走っている程度だ。
それが、一気に「アルプスの少女ハイジ」の世界で、170km?想像ができなかった。

「出たいって、これに?!」
「すぐじゃない。でも、挑戦する。」

いつか誰かを助けられるように。そう思って鍛え始めた夫だった。

夫は、さらに高みを目指すため、より強い自分になりたいと思い、より過酷な道を選んでいくと決めたのだ。

いつか誰かのためにと始めたことが、やっていくうちに自分の夢になる。それは、まさに、自分への挑戦だった。



目指すのは遥か遠い異国の山で行われる超過酷なレース。
挑戦と呼ぶには現実感がなかったけれど、夫は本気だった。
それなら私も応援しよう。

この日から、夫のUTMB出場の挑戦が始まった。



まずは国内のレースへの挑戦が始まる。



2012年4月、東丹沢トレイルレース30kmを完走。
初めてのトレイルレースは見事完走。完走したあとにコーラのような血尿が出て、焦って私に電話をしてくる夫。「ミオグロビン尿だと思うよ」と看護師の私。初めてのレースで、相当筋肉へのダメージがあったものと思われる。加えて、膝の靭帯を損傷し、普通に歩けない状態に陥る。テーピング、靴の種類、いろいろな知識や技術も必要であると思い知る。
膝はしばらく治らず、2012年はリハビリの年となる。トレイルランニングの厳しさと奥深さを知るレースとなった。


2013年7月、おんたけウルトラトレイル100kmを完走。
初の100km完走。このレースまでの最長走距離は30km。急に距離を延ばすことに不安もあったが、完走できた。足元の土が硬く、足場の悪いコースであった。翌日は体のあちこちが痛み、ロボットのような歩き方になっていたし、膝へのダメージも大きかった。足場の悪いコースの走り方や関節を傷めない走り方を考えるレースとなった。


10月、ハセツネ71.5kmを完走。
ハセツネとは、由緒ある伝統的なレースで、日本のトレイルランナーなら知らない人はいないという有名なレースである。トレイルランニングを始めた人が最初に目標にするような憧れの大きなレースである。完走できて夫も喜んでいた。


2014年7月おんたけウルトラトレイル100km完走。
前回のおんたけウルトラトレイル完走後は、体への負担が大きく疲労困憊であったが、この年は、完走後もロボット歩行にならずに済んだ。体が強くなってきているようだ。


9月、上州武尊山スカイビューウルトラトレイル120kmを完走。
初めての120kmで、初めてレース時間が24時間を越えるレースだった。距離もさることながら、24時間以上という長時間、体を動かし続ける過酷さを初めて知る。ヨーロッパのトレイルレースを意識したコース設定になっており、UTMBへのイメージトレーニングにもなった。かなり険しい道のりだったが完走できた。



そして2015年、いよいよUTMBにエントリーし、当選できた。

いよいよ夢の舞台。本当にUTMBに挑戦できる日がくるのだ。


3月には伊豆トレイルジャーニー72.5kmを完走。体調は良く、UTMBへの挑戦を後押ししてくれるようなレースだった。7月おんたけウルトラトレイル100km完走。夫を成長させてくれたレースのひとつである。3回目の走り慣れたコースの完走で、大きなダメージはなく、UTMBへ向けての自信を持たせてくれた。


夫は、少しずつ国内レースで経験を積み、少しずつ距離を伸ばし、トレーニングをした。
小さいレースを含め、完走した国内レースは10を越え、総距離は680kmを越えていた。

レース以外にも日々のトレーニングを怠らなかった。富士山登頂トレーニング。横浜の自宅から山中湖まで走るという夫が生み出した「地獄の山中湖トレーニング」。(これはかなりきついらしい)。食事にも気を使い、健康管理も気を付けた。関節を守るテーピング方法や足のマメ対策、負担の少ない走り方。たくさんのことを学び、経験した。



8月。私たちは高揚しながらフランスへ旅立った。



開催しているモンブランの麓町シャモニーは大盛り上がりで、お祭りのようだった。
お洒落な建物のベランダに色とりどりの花が飾られ、氷河を背景に旗がはためく。

2000人以上のランナーを応援するため、スタート地点は大勢の人で賑わっている。
私も沿道でスタートを待つ。どきどきする。

まさか、あの日、雑誌の写真で見た遠い国の出来事に、自分も参加する日が本当に来るなんて、思ってもいなかった。

大きな歓声とともにスタートがきられ、私は2000人の中から必死で夫を探す。

いた!夫も気付いて、いってらっしゃいのハイタッチ。

どうか、大きな怪我や事故なく無事に終わりますように。
それを願って、私はホテルに戻り、夫につけられたGPS(安全のため、選手の位置を把握するために全員に装着されている)とUTMBの地図、夫が事前に作ったタイムスケジュールを睨んだ。

夫はじわじわだが進んでいる。タイムスケジュール通りとはいかないが、進んでいる。私は、ホテルでひとり留守番をしながら、自分にできることは別にないのに、どきどきそわそわ、落ち着かない時間を過ごした。


大会2日目、昼頃にレースの中間地点であるイタリア、クールマイユールのエイドステーション(休憩所のような場所)で会えることになっていた。私はシャモニーから家族用の送迎バスに乗ってクールマイユールへ向かう。バスの窓から見える景色は、自分が人生で見ることはなかったのではないか、と思うような、美しいヨーロッパの草原だった。

クールマイユールで夫を待つ。次々と選手が到着してくる。

来た、夫が来た。疲れてはいるがまだ目は輝いている。膝も大丈夫そうだ。

エイドステーションの中は、正直言って、すごく臭かった。ほぼ不眠不休で90kmくらい走ってきた人たちが集まっているのである。汗と疲労物質と、何日も履いた靴下みたいな臭いだ。夫と話していると、突然バタンと大きな音がして、驚いて振り返ると休憩していた女性の選手が床に倒れていた。まわりの人が救護を呼んで、担架で運ばれていった。道のりの過酷さを目の当たりにした。


「残り半分、完走できなくても、挑戦したことに意味があるんだから、無理はしないでね。」

私の言葉に「わかってるよ」と笑う夫は、「じゃ、ゴールのシャモニーで!」と言って、また走っていった。


ホテルで地図を睨む私。少しずつゴールへ近づく夫。残り40kmくらいになると、「ここまできたら完走させてあげたい!!」という気持ちが強くなったが「40kmって、ほぼフルマラソンじゃん!!まだフルマラソン1回分残っているのか?!」と私のほうがひとり情緒不安定になっていた。



そんな私の気持ちとは違って、冷静に少しずつゴールに近づいていく夫。
私は、そろそろだ、と思いホテルを出た。もうすぐゴールできそうな位置まで来ている。
ゴールゲート近くの沿道で夫を待つ。

来た!夫が来た!

UTMBでは家族や友人の同伴でのゴールが認められている。
私は走る夫へ駆け寄り、残り30mを一緒に走った。

シャモニーの風をきって、170km走ってきた夫と30m走った私は、一緒にゴールを目指した。

夫は両腕をかかげ、ガッツポーズをしてゴールゲートをくぐった。

私は歓声をあげ、思わず夫に抱き付いた。

何日もお風呂に入っていないし、不眠不休で170kmも走って、なんだかボロボロだったけれど、夫は輝いていた。それは、そもそも走るきっかけになった、夫の優しい気持ちの輝きでもあった。あの日に言っていた通り、夫はけっこうタフになった。

「お疲れさま。完走おめでとう!」

私の言葉に、夫ははにかんで笑った。



夫の挑戦を近くで見ていて、私が学んだことは2つある。

1つ目は、誰かのために始めたことが、自分の目標になることもあるということ。誰かへの優しさが、自分への挑戦へと繋がり、自分を成長させてくれることもあるのだと知った。

2つ目は、大きな挑戦というのは、小さな挑戦の積み重ねであるということ。まずは目の前の、手の届く挑戦から始めてみる。そうすれば、その延長線上に、大きな挑戦が待っているのだ。



2020年、世界はすっかり様変わりした。

海外レースはもちろん中止。国内レースもほとんどが中止だ。


それでも夫は走っている。

夫のタフさが役に立つ日なんて来ないほうがいいに決まっているけれど、それでも、夫は今日も走っている。今のような、時代だからこそ。

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