#9 韮崎さん(導入編)

ついにこの人を紹介する時がきてしまった。
韮崎さん。
この人は特別。スペシャルである。
例に漏れずあの派遣バイトで出会った男性なのだが、韮崎さんは私たちが所属する派遣会社に所属していない。別の派遣会社に所属している。なぜ彼だけ他の会社から派遣されてくるようになったのか、事の経緯は分からない。こういうケースは大体仕事がすごく出来るために会社の人に気に入られて個人的に呼ばれるようになるというものが考えられるが、韮崎さんは別に仕事がすごく出来るわけではないし、どちらかと言えばトラブルの元になることもある人だ。なぜトラブルになるかというと、この人の接客を見ればすぐに分かるだろう。この人の右に出るものはいないと思わせるほど、ロボットのようなマニュアル接客をする人なのだ。

見た目はどこからどう見ても楽しんご。もう楽しんごだけイメージして読み進めていい。あの細身で長身で浅黒い感じ。茶色い髪の毛。声までも楽しんごに似ている。それがいつもスーツを着ている。

私が初めて韮崎さんと同じ仕事だった日。
その日は1日2人体制のポイントアプリ特設カウンターだった。
ところが、現場に着くと派遣会社の社員さんがいた。なぜいるのか尋ねると(よくそんなこときいたな)、「あ、ちょっと…韮崎さん、結構クセ強めだから…最初だけ…。ね…。」と何やらお茶も濁せてない感じでゴニョゴニョ言っていた。
その30分後、遅番の人がくる時間になり、韮崎さんは登場した。

前述した通りの楽しんごルックスの男性。
これはただものではない。
なんか泥団子みたいなどんよりした個性の塊が現れた感じだ。
(おぉ…)
まぁただ、仕事をちゃんとしてくれればいい。
第一彼の方が先輩だ。私は今日、何かあったらこの人に助けを求めなければならない。上手くやるしかない。そんな気持ちだった。

お客さんがきて、まずは先輩である韮崎さんがお手本として接客するのを見た。

ポイントアプリの説明や注意点を説明したあと、お客さんに必要事項を記入してもらう。
お客さんに見せるプラカードみたいなものに書かれた文章を一言一句違わず読み上げる韮崎さん。
「こちらは、○○○、××××のポイントアプリでございます。まず、ポイントは、税抜100円で1ポイント貯まります。貯まったポイントは、500ポイント500円より、各店舗でのお会計時にその場でお使い頂けます。尚、有効期限は…」
必ずポイントアプリの正式名称から始まり、ポイントの概要を腹からでるはっきりとした大きな声で、ゆっくりと読み上げていく。その様はまるで口上を述べる歌舞伎役者のようだ。

(こ、これは……!!!!!!!!!!!)

当時20数年生きてきて、こんなにもマニュアル接客をする人は見たことがなかった。
ちょっと融通が利かないとかじゃない。
ずっっっと、ずーーーっっっと!!!!!
マイペースに大きな声で説明を読んでいる!!!!!なんだこの時間は!!!

こうなるとお客さんの反応が心配になってくる。

見ていると、お客さんの反応は大体3パターンに分かれることが分かった。
韮崎さんの口上を浴び、じっと耐え続ける者。
歌舞伎役者ばりの口上を述べるかの如き接客に、驚き、マスクの中で明らかに笑っている者。
最後は1番見ていてハラハラする、韮崎さんのあまりのマイペースさにイライラしてくる者。

上2つに関しては、ごめんねと隣で思うだけだが、最後のイライラしてしまうタイプの人には本当にハラハラするし、韮崎さん!もういいから!!空気読んで!!お願いだから!!!怖い!怖いよ!!と思う。
お客さんが少しイラつきながら「あ、もういいです。読んだので。」と口上を述べる韮崎さんを遮って止めようとしても、韮崎さんは口上の速度をほんの少し上げるだけで、予定する説明は全て行う。
私が面白くて1番好きなパートは、お客さんに必要事項を記入してもらう瞬間。
韮崎さんはいつもの調子で「それでは最後に、こちらを全てご一読頂き、ご了承頂けましたら、こちらの油性ペンか、油性のボールペン、お好きな方を手に取って頂きまして、こちらのカードの裏面に、お客様ご自身のお名前を、はっきりと、ご記入頂くよう、お願い致します。」と説明するのだが、大体皆「ペンを手に取って」の辺りで名前を書き終え、韮崎さんの説明が終わるのをじっと見つめて待っている。でも韮崎さんはそんなことお構いなしだ。韮崎さんの口上が中断されることなんてない。もはや誰のために、なんのための説明なのかわからない、韮崎さんの説明が宙に浮いているこの瞬間が、なんとも言えない気まずさを醸し出していて面白い。お客さんはどうしていいか分からず口上を述べる舞台上の韮崎さんを見つめ、韮崎さんは自身の用意した台本通りに台詞を全うする。見てるこっちまで居心地が悪くなってくる。これは何の時間なんだ…。もうお客さんはカードの裏面に名前を書き終え、ペンをトレイに置いて韮崎さんに終わってますよの視線をじっと送っているぞ。しかしその頃韮崎さんは、お客さんと私からの視線を受けながら、1人舞台上でその台詞を大きな声で発声していた。
歌舞伎座の舞台上でピンスポットを浴び優雅に舞う韮崎さんの舞を、私とお客さんの2人でじっと見つめているようだ。

なんか、社員さんが様子を見に来るのも分かるなぁ…と思った。


ちょっと長くなったので、韮崎さん導入編はここまでにして、次回は各スタッフから聴取した韮崎さんのヤバめエピソードをご紹介します。


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