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とどめの愛撫で 2



「ほんとに、気をつけて帰ってくださいよ」
宇田にそう告げて、しばらくその背中を見つめる。


後悔している背中だ。


神谷にはそれが分かった。
この人はいつも後悔している。

宇田を助けるのは、とても難しい。


なぜ難しいかというと、あの人は不幸になりたがっているからだ。自ら進んで、傷つこうとしている。

神谷が手を差し出して引っ張り上げようとしているのに気づきながら、いつまでも手を取ろうとしない。

不幸であろうとする人を助けるのは、本当に骨が折れる。



*
*
*



約束の夜8時、神谷はワインを持って絵里のマンションを訪ねた。
「うわっ、汗だくじゃん、入って入って」


絵里は綺麗だ。
付き合って1年半になる。

子上ねがみ絵里は華奢で背が高く、鼻がツンとしていて、稼ぎの良い男にモテそうな女だった。値上げ前に買った、キャラメル色のマトラッセをいつも持ち歩いていた。


実のところ、神谷もその恩恵を受けている。
絵里の・・・金で高級レストランに行くし、年齢に似つかわしくない時計をプレゼントされたこともある。

だから、彼女が大金を手に入れる手段については気づかないふりだ。相手パトロン自分神谷の存在を知っているだろう。明白だが、大の大人が揃いも揃って事実をあやふやにしていた。


「その服、可愛いね」と言うと、
絵里は、ありがとう、と嬉しそうに笑う。

彼女は、丸襟のブラウスに黒色のジャンパースカートを着ていた。いつも質の良さそうな服を着ているから、神谷はデートの度に必ず褒めるようにしている。実際、上品な服は絵里によく似合っていた。今すぐ脇の下に手を差し込んでジッパーを降ろしてしまいたいと思ったが、そういうのは絵里の好みじゃないことも理解していた。

絵里はグラスにワインを注ぎ、そういえば、と呟く。
一颯いぶきくん、宇田先生と会ってたの?」

神谷は今思い出した風に「あー、うん」と答えた。

宇田と神谷は、予備校の講師と生徒として出会った。絵里も同じ生徒だ。宇田はすでに講師を辞めているが、2人が高校を卒業してからも交流は続いている。


「彼女さんと別れたみたいで、元気なかった」


「えっ」
絵里は目を丸くする。

「だって、10年くらい付き合ってたじゃない」


神谷も、『だって』と思った。
「すごく仲よかったよな、結婚するもんだと」と言って口をつぐむ。

「怖いね」
絵里はとても深刻そうな顔をして、先生大丈夫かな、と続けた。

その顔を見て、神谷は自分が宇田に対してこの反応をしてあげられなかったことに気づいた。当たり前のことを、していない気がする。今度話す時には、大丈夫ですか、と聞こうと決めた。

「どうなるか分かんないね」
絵里は不安そうな顔をする。

神谷は細い肩を抱き寄せて、手入れの行き届いた髪の毛を梳いた。この高飛車そうな見た目で甘えたがりなのが男にウケるのだろう。


そう、絵里は甘え上手だった。
そして神谷は甘えさせ上手だ。

だからうまくいかない。



不思議だ。


甘えさせ上手と甘え上手では、機能しなかった。

神谷は、不器用な甘え下手が自分にだけ甘えてくるのが好きだった。絵里は、人に甘えられたことのない人が自分だけを甘やかしてくれるのが好きだった。

物足りない。

2人でいると、どうも演技じみる。


絵里と会った後、神谷は決まって宇田に会いたくなった。


あの人は、人に甘えたいのに甘えられない部類の人間だ。
そして明白に不器用なのに、不器用なのが神谷にバレていないと思っている。出会った頃のまま、上手に「大人」をしようと無理をしている。



「ちょっと電話」
と絵里に告げてベランダへ出ると、生ぬるい空気が神谷を包み込む。

遠くの踏切のカンカンという音にカラスの鳴き声が途方もなく共鳴して、酷く不気味な日没だった。

掌の中で、通話の呼び出し音が途切れる。

「もしもし宇田さん?大丈夫ですか〜?」
冗談めかして言うと、

少し驚いた声は「大袈裟だな」と呆れて、
「そう聞かれたら、大丈夫じゃない気がしてきたよ」と呟いた。


声は、少し笑っていた。



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