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美しく小さな死に思う。

小学校の種学旅行以来で宮島を観光してきた。
目に掛かるものがある度に写真を撮った。
それらの全てはiPhoneで僕が撮ったものだから、それなりのカメラでそれなりの人が撮ればより良い写真になったに違いないが、とても印象的な情景がそのままにカメラに収まることがあった。

この、メジロの亡骸を足下に見つけた時、その美しさに目を奪われた。そして、その時の印象はうまくカメラに収まり、この写真をみる度に思い起こされる。

僕は神も仏も信じない。
あの世も信じなければ、霊魂の類も信じない。
勿論固有の宗教を信じることもない。
とはいえ、「死を思う」というのは、それ自体がおそらくすでに宗教なんだと思う。
「宗教的」と言った方が良いのか。

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古代ギリシャ哲学など齧ると、もう本当に何もない、何も分からない状況から、それまでどこにもなかったところに疑問を持ち、なぜこうなるのか? どのようにできているのか? これらの違いはどのように出来上がっているのか? などというところから考察が始まり、そしてそれがその後の歴史の中で見事に展開されていることに気づく。

文系理系に限らず、哲学を含めた所謂「科学」というのは、世界を覆い尽くした暗闇(=無知)を照らしていく作業なのだろう。
とはいえ、その灯りがどれ程多くを照らすようになったとしても、その暗闇は、占める範囲は狭まれど無くなりはしない。
その暗闇は、多くの部分で宗教が支配している。昔も今もそうだし、これから占める範囲が狭まれど、無くなることはないのだろう。

僕は宗教を信じない。

とはいえ、踏み締めた足下を見つめて「踏まなくて良かった」と思い、美しく小さな死を思い、手を合わせ、踏まれることがないように亡骸を移した。
一体これが宗教以外の何だと言うのだろうか?

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