見出し画像

【映画】『パラサイトー半地下の家族』について

『殺人の追憶』、『母なる証明』などのポンジュノが監督、韓国の国民的俳優ソンガンホが主演を務めたカンヌ・パルムドール受賞の韓国映画です。

韓国映画なので、俳優陣の演技にぶつくさ文句を言いながら見ることになるんじゃないか、というような邦画っぽい心配の必要は一切ありません。
それから、パク家の妻を演じるチョヨジョン、とても可愛いですねえ。

さて、本題に入ります。
この映画は韓国社会における格差社会がテーマになっています。
ここで描かれているのは、富める者と貧しき者の間にある分断、ハマったら抜けられない底無し沼でもがく貧者の姿です。

テーマとしてはケンローチ監督の『家族を想うとき』、ウォンジョン監督『誰がための日々』と同様で社会問題の警鐘として深く余韻を持たせるものでありながらも、このパルムドール受賞作は、時にドタバタ喜劇、時に韓国映画らしいバイオレンス表現で完全なエンターテイメント作品に仕上がっています。

Story
一家の主であるギテクを中心に、妻チョンソク、浪人生の長男ギウ、同じく美大の浪人中である長女ギジョンの家族は、窓を開けると雨水が流れ込む半地下に住み、まともな仕事に就けず内職に精を出す。
そんなある時、長男ギウに友人から自分が家庭教師を務めるIT企業の社長一家パク家の長女ダヘの家庭教師の話が持ち掛けられる。ギウは浪人中であるにも関わらずギジョンによる偽造の証明書で有名大学の学生であることを偽り家庭教師としてパク家に入ることに成功するものの、キム一家はそれに飽き足らず、四人全員がまるで寄生するかのようにパク家に取り入っていく。

ネタバレが一部の人の鑑賞意欲を阻害してしまう恐れがあるのでストーリー上のネタバレは慎みましょう。
その中で、僕がこの映画について考えさせられたヒントと答えについて幾つか書いておきます。

その前に公式サイトをどうぞ。

まず、「金持ち喧嘩せず」ではないですが、地下世界に住む貧者同士が争い、似たもの同士である互いを蹴落とそうとする構図ですね。ギテクはそれに悲しいものを感じるようになりますが、争いを避けられません。これは例えば、アメリカ西海岸におけるアフリカ系とメキシコ系のギャングの縄張り争いに通じるものがあるでしょうか。
互いに差別的な構造と環境に身を置く似たもの同士でありながら、恐らくはそれを分かっていながら闘争を続けるしかないという生き様、そして金持ちはそれを遠巻きに見ており、貧者同士の争いを野蛮なもの、自分たちとは違うものとして見ているという描写とそこにある構造上の問題。

次には、ギテクに染み付いて取れない「匂い」というのもそうです。
僕自身、いわゆる「底辺」として生きてきた人間で、(数え上げるとキリがないですが)様々な職を経験し、底辺環境に身を置いてきたものとして、その「匂い」は生活習慣や精神構造、考え方の癖の表現として捉えました。
それは例えば、僕が見てきた直接的なものとしては、「値上がりしたらやめる」と言いつつもやめられないタバコ、「トータルでは勝っている」と言いながらいつも懐を寂しくするパチンコ、一時の快楽以外何も得ることのできない課金ゲーム、過剰なアルコール、などがあります(彼らに多くある共通の問題として「家族」の問題もここに当てはまるでしょう)。
僕は(酒を多少飲むくらいで)これらをやらないので、構図としてはそこには加わらず「遠巻きに見ている金持ち」と同様ですが、実際に貧者の側にいる自分としては自己評価を厳しくせざるを得ないものであり、実際に、知らぬうちに身に付いてしまい、そうせざるを得ない、という構造を感じざるを得ないものです。
また、その「匂い」が、自分と同様の人々といる時には気付くことが出来なくても、自分とは異なる「匂い」の人々の中にいる時に気付いてしまい、そこにどうしようもなく抱く劣等感も表現されています。

クライマックスにおけるギテクによる最後の行動は、そういった構図を理解したからこそのどうしようもない、どこにも持っていきようのない怒りの表現なのでしょう(ここにも監督のメッセージがあります)。
そして父がギウに授けた失敗しない計画、つまり「計画は必ず失敗する。計画しないことこそ失敗しない唯一の計画だ」という言葉は、そこにある抗えないどうしようもない構造と共に、ストーリー上、エンディングでも意味を持ちます。

ギテクの「その後は」、彼らの誰も悪くない、我々には彼らを罰する事は出来ない、というポンジュノ監督の意思表示なのでしょう。

キム一家は……いや、これ以上はやめて、一枚置いて終えることにしましょう。

娯楽性と批評性、両方の面から楽しめる作品となってます。

画像1


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?