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先生と呼ばれる毒親を持ったとき

毒親からの脱却はこのところ盛んで、SNSを通じても色々な場所から確かな助けを求めやすくなってきた。
良い時代だ。

だけど、いくら良い時代になっても、脱却に踏み出せない人たちもたくさんいる。
明らかにひどい目に遭っていて、助けが必要だと自覚していながら助けを求めきれない人たちは、いくら輝く光を指し示してもつかむに至らない。

とはいえ大切なのは、今その人達が生きるために必要な状況のバランスであって、その人が求めた時、求めた人がベストなんだと思う。
たとえ、効率は悪くても、その時つかめるものが共依存やDVパートナーだったっていうのは 有名なあるある。
人は色々な紆余曲折を経て、毒親後遺症の悪夢から覚めていく。

自分は卑怯者だと感じていた

私が在籍した大学は、緑が豊かなチャペルがあって、幼稚園が併設されていた。
歴史がありながら、明るく健全な校風。
昼間はみんな、少しだけ子どもに戻る学問を勉強する。
私は大学生になって初めて、親の知らない同年代ができた。
聖職者のような子か、背景になんかかんかある子しかいない学部だった。
色んな人たちが、それなりに大学に懐いて共存していた。

「中学生の頃 家出を繰り返して、警察のお世話にはよくなったんだよね」
「グレて悪い仲間しか居場所がなくてさ、遠回りしたけど今思えばその経験も大事だったよ」

私は遠方からでも実家通いで、バイトを禁止されていた。
外泊は禁止ではなかったけれど、自由に外泊する気力がなかった。
理由があってありがたかったのは学部で時々泊まりのイベントがあった事。
授業の一環だけど暗黙の了解でお酒も持ち込む。
黒縁眼鏡のコミュ障がシェイカーを持ち込んでカクテルを作る。
みんな授業で見せることのない大人な姿でくつろいだ。
少し場違いな私も「おいでよ」と、誘われた。

もらったたばこを吸ってみようとしたら、後ろから「何やっとんねん!」と、取り上げられた。
ちょっと年上の後輩だった。
13~4歳でたばこを吸い始めて20歳で禁煙した彼。
「ほしのはこれでも成人やぞ?」という周りの声を尻目に、彼は私の頭をポンポンした。
「ほしの先輩もグレたい時もあるやろうけどね、先輩はそういう苦労はしなくていいんっすよ」

暖かくも対等な眼差しで私の目を見下ろした。
彼に限らず、不思議とここの学部生は 私の目の奥にある生きづらい背景を察してそれをジャッジしない。
動物のように心地が良かった。

彼はふらふら外の暗がりに消えていった。
彼女(牧師の娘)としけ込みに行ったんだろう。

厳格な毒親と、古風なキリスト教の教えにガチガチに守られていた私は、他の子よりも強烈にその教えが染みついていて、良くも悪くもその道しか歩むことはできなかった。
これまでも、その後の人生も、よく言う「苦労」というものを知らない。

そこに変なコンプレックスを持っている自分のせいではあるけれど、あまり同じ患者仲間でも、ちょうど良いコミュニティに入りにくい。
助けが必要な多くの人は、私では想像もつかない過酷な苦難を乗り越えてきている。

私は、「先生」という呼称にコンプレックスのある家庭で、形上「そうにはならないようにだけ」育てられ、そう歩んできただけの卑怯者なのだ。

私の親が知ったら全力で見下していたであろう学友達。
出会った全ての人たち。
私にはその毒親特有の秤が否応なく染みついていて、その差別意識が周囲の人たちを無意識に傷つけていたに違いない。
そんな私に、友人としてあるがままの眼差しを向けてくれたことがどれほど私のアイデンティティを潤したことだろう。
砂漠に落とされた一滴が、私の中でどんな宝石になったかなんて誰も知り得ない。

その時は分からなかったけれど、長い時間をかけてその真実味が増してゆく。
「あなたはそのままで良いのだ」という、存在への許し。

彼はしばらくして大学を去った。
何をしでかしたのか、ある教授から「あんな悪いやつは初めてや」と、憤慨されていたから、社会的地位のある大人でも軽く自分の悪さを見せつけて去れるぐらいの能力があったらしい。

多分、今の私にも考えつかないようなやり方だ。


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