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『レミング~世界の涯まで連れてって~』を観て「死の向こう」

2013年に書いた劇評を再掲しております。

「死の向こう」

夢はいい。夢は向こうの世界を見せてくれる。一度眠りにつけば、私たちは向こうの世界の住人なのだ。そこでの私たちは、こちらの世界で抑圧された一切のものから解放され、完全に無垢な状態でいることができる。それは生まれる前の姿であり、死んだ後の姿でもある。
六月一日、シアターBRAVA!にて『レミング~世界の涯まで連れてって~』を観た。寺山修司没後三十年、パルコ劇場四十周年を記念したこの公演は、寺山が主宰した演劇実験室「天井桟敷」の最終公演『レミング』を「ヂャンヂャン☆オペラ」で知られる維新派の松本雄吉が演出するということで、上演前から多くの人の関心を集めた。
幕が上がると幻想的な舞台セットを背景に大勢の人々が現れる。彼らは小刻みに足を動かし、その足音が劇場の隅々にまで広がる。このシーンに代表されるように今回の作品において見て取れるのは、寺山が書き松本が語る「都市」の姿だ。やがて、中華屋のコック見習い二人(八嶋智人・片桐仁)の掛け合いが始まり、ここは二人の下宿先だとわかる。そうこうしているうちに下宿先の壁が消失し、世界は夢現の様相を呈し始める。 
映画の撮影現場で女優(常盤貴子)が高らかに台詞を歌い上げる。しかし、どこまでが映画の撮影でどこからが撮影現場の風景なのかがわからない。精神病院では、誰が医者で誰が患者なのかわからない。くり返される中断。虚構と現実の逆転、そのまた逆転、そのまた逆転……このくどいまでのメタ的要素から感じてとれるのは、言うまでもなく「自我」や「内面」といったものへの疑念である。そして更に言うなら、私たちが“見ている”「世界」そのものへの疑念ではないか。
果たして、この物語において語られたのは単なる夢の世界なのだろうか? 狂った非日常なのだろうか? 確かに、唐突に人がピストルで撃たれて死ぬなど物語的な必然性は無視されている。くり返される中断により世界は非常に断片的で継ぎはぎのようにも見える。しかし実のところ、私たちは常に死と隣り合わせの日常を生きている。昨日元気一杯で幸せに暮らしていた人間も、今日交通事故で呆気なく死ぬ。それが現実だ。そして、その日常は、いくつもの断片的なエピソードの集積なのである。それを一つの物語として解釈しているのは私たちのちっぽけな脳みそに過ぎない。そう考えると、なにが「虚構」でなにが「現実」なのか、わからなくなってこないか。

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