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灰汁という個性

山あいに住んでいるので、春になると散歩がてら山菜を採りに行くことが楽しみになる。
わらびやタラの芽などは前から食べていたけれど、今年は今までハードルが高そうなイメージで敬遠していたゼンマイを初めて採ってみた。下処理をしてから茹でて乾燥させることに手間がかかるイメージだったけれど、やってみればそれほどでもない。ただ、カリカリに乾いたゼンマイは最初の頃のボリュームは影もなく、ほんのわすがだけになったその姿を見て、山菜の中でも格が高いことに合点がいった。

楽器を作っていると、その素材である木というものは、なんだか山菜とよく似ていると思うことがある。
山菜も木も、その多くは森や野で自然と生え出て育ち、ちゃうどよい頃に人がやってきてそれを収穫し利用する。自然の中で育ったものだからこそ山菜や木には灰汁(あく)があり、クセがある。
自生植物と栽培植物との区切りをはっきりと引くことはできない。そこには人の手が加わることのない完全な自生から、人工的に完璧に管理された栽培という段階へのグラデーションがあるわけだが、やはり天然物に近いほど山菜(野菜)も木材もその価値は高い傾向にあると思う。
灰汁/クセが強い天然物はうまく処理しないと扱いにくいものであるのに、なぜ栽培されたものよりも重宝されるのか。それは灰汁やクセこそが、その素材における個性であり価値だからだろう。
強すぎる灰汁/クセはそれを利用することを人に対して許さない。だからこそ人は山菜のアク抜きをし、木材なら乾燥や製材法によって予めそのクセを逃しておく。
けれど過度に灰汁/クセを抜いてしまうことは、その素材の個性であり価値を生み出している本質そのものを抜き去ってしまうことにほかならない。
だからこそ、人にとっての利用しやすさと素材の持つ個性とが最もバランスをとれる地点を探ることが大切になる。
自然の素材を扱う人は、その灰汁やクセを忌み嫌ってはいけない。もしそれを完璧に漂白しないと気がすまないというなら、たとえばプラスチックやコンクリートのような、人に従順なものとしてはじめから飼いならされた素材を選ぶ方がいい。
だからといって、自然の素材が持つ強い個性に人が無理に従ってしまうこともまた、結果的には素材を活かすことに繋がらない。

野馬を馴らすように、その野生の力を自らの望む方へと導いていければいい。
あるいは、ただその背に揺られて、思いもしなかった場所へと連れて行ってもらうのも悪くない。

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