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蒲田駅の東西の違い

西蒲田は蒲田じゃない

 西蒲田は蒲田じゃありません…と言ったとしても「何を言ってるんだろう」と思われてしまうがオチです。でも実際に蒲田ではない…と言うのも間違いではないと思っております。

西蒲田とは

 大田区の蒲田地域における地名で、JRの線路の西側にあります。そしてこの西蒲田は蒲田よりも広いです。池上の少し手前くらいまでは地名としては西蒲田になります。

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(赤字で記した新蒲田もJRの線路の西側に位置する)
 この西蒲田という町名は戦後にできました。現在JRの線路の東側にあります町名としての蒲田や南蒲田、蒲田本町は西蒲田と同時期にできましたが、「蒲田区」や「南蒲小学校」という名称は戦前からありましたし、本蒲田や仲蒲田、新宿町(蒲田新宿村)など元々「蒲田」を名乗っていた町から出来たものという違いがあります。

西蒲田のルーツに蒲田は無い

 西蒲田という町名は「女塚(おなづか)」「御園(みその)」「蓮沼」の3つの町が統合されて出来ました。JRの線路の西側には元々蒲田を名乗る地名がなかったのです。

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 松竹の撮影所があったのも、蒲田町役場があったのもJRの線路の東側。つまり、本当の蒲田はJRの線路の東側なのです。
 蒲田地域におけるコミュニティペーパーのかまたニュース第27号(1986年11月10日発行)にて、「国鉄(現JR)の線路は国境のようなものだった」というコメントが寄せられており、地域差があったことが見受けられます。

蒲田の東西を行き来するには

 当然のことながら、東西を行き来するには何とかして線路を越えなくてはなりません。蒲田駅の東西を繋ぐ連絡路として一番古いものは1872年に出来た女塚踏切(1964年廃止)で、その後1930年ごろにJR管理の通り抜け地下道が完成し、その後1962年に蒲田陸橋が開通しました。
 しかしながら女塚踏切はいわゆる開かずの踏切で、しかも1952年に大きな踏切事故が起きてからは午前7時から午後8時まで自転車と通行人の横断が禁止されてしまいました。地下道は現在もありますが、現在でも道幅はお世辞にも広いとは言えません。蒲田陸橋も微妙に駅から離れてます。まあ確かに国境と言われても仕方のない利便性なのかも知れません。
 ちなみにこの東西のアクセスの不便さについては、平成22年2月19日に開催された第5回学識者検討委員会でも議題に上がってます。

まとめ

 私はJRの線路の西側に住んでいるのですが、たまに東口に行くのがたまらなく面倒くさい時があります。ブックオフとか回転寿司とか、西口にも出来ないかなあと思うことも多いです。でもそれは昔の人もきっと同じ感情を持っていたのであって、私の怠惰ではなかったのかな…と思うようにしておきます。

参考文献

・『蒲田歴史散歩』 伊藤一也編 (大田区立図書館 郷土資料)2012年
・『かまたニュース 第27号』 かまたニュース社 1986年11月10日発行
・第5回学識者検討委員会 配布資料・議事概要 大田区( https://www.city.ota.tokyo.jp/smph/kuseijoho/ota_plan/kobetsu_plan/sumai_machinami/grand_design/kentou_iinkai/iinkai_gaiyou/dai5kaigakushikigijigaiyou.html )
・人口・面積・土地 大田区( https://www.city.ota.tokyo.jp/smph/kuseijoho/shiraberu/ota_kuseifile/ota_kuseifile19/ota_kuseifile19_data/jinkou.html )
・「商い観光展」PRESENTS おさんぽ&イベント情報( https://www.o-2.jp/akinai2020/ )

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