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海の星空 あなたは神様 《短編小説》

【文字数:約 4,700文字  = 本編 4,000 + あとがき 700】
※ 本編は無料で読むことができます。


 
 巨人の住処みたいな建物から外に出て、むわりとした熱気に顔をしかめる。

 すこし歩けば波打ち際と似た日陰も消え去り、陽光たちの踊る舞台は果てがない。

 ぬれない海水の温度をたしかめるように立ち止まって、何の気なしに横を見た。

 ぬるい風にひらり空中を漂うドレスの裾が、陽光できらきら光る。

 顔見知りでもなければ知り合いなはずもない他人が、地上で憩う神様みたいに思えた。

 向けられた視線に気づいたらしく、なめらかなガラス玉の瞳がこちらを照らし、その眩しさに声が出る。

「……きょうは、あついですね」

 ため息の泡には人の言葉が含まれており、見えない波が空気を震わせたに違いない。

 しばらくと呼ぶには短い間をあけて、神様の口元がほころんだ。こちらには聴こえない返事をしてすぐ歩き出し、白と黒で作られた横断歩道の先へと向かう。

 気づいた頃には赤い信号が起き出して、さめのような車たちが獲物を求めて行き交う。それらが鎮まるまでの数分を、意識の中では数秒を一緒に過ごしただけの神様は、もうどこかに行ってしまった。

 ドレスだと思ったのは涼しげなシースルーの装いで、そもそも地上にいるのは自分と同じ人間だ。

 いきなり変なことを言ったと後悔したけれど、嫌な顔をされなかったのが幸いというか。

 鮫たちの往来が止まった後で歩き出さず、今度は通行の邪魔にならないよう脇に寄る。

 建物が作る恵みの日陰と横断歩道は離れており、信号が変わるのを雨宿りするように待つ人はいる。

 もちろん手前で行儀よく、あるいは律儀に待つ人も多いから、さっきの神様が横にいたのは偶然に過ぎない。

 それなのに視界の端には光を浴びて揺らめく波が、ぼんやり今でも瞬いている。

 先週まで半袖のちょうどいい気候だったのに、もう快適な日々は遠くに去ったらしい。

 暑さと熱さのサンドイッチに挟まれて、頭が変になっていたから変なことを言ったのであって、もうそろそろ正気になる頃だ。

 でも透明な水槽に入っているみたく、現実とそれ以外の境があやふやになっている。

「……い、ど……た?」

 水中の音を拾うのが苦手な耳に、どこかで聞いたことのある声がする。

「どうしたんだよ? おまえ、先に帰ったんじゃないのか?」

 よく見ると同僚が立っており、それなりの時間も経っていたと知る。

「……ちょっと用事があって」
「こんなとこで? あ、もしかして待ち合わせ中だったか」

 気を回すついでに周囲を見回し、相手が誰だと詮索するのは自然なことだ。

「誰も待ってないよ」

「それ、ホントかぁ? さっきまで人探しするヤツの顔だったぞ?」

「だから待ってないって」

「あー、なるほどフラれたんだな、かわいそうに」

 水を得た魚みたいに同僚は何度も頷いて、同じリズムで肩を叩かれる。言い返すのも面倒くさくて打楽器に甘んじていたら、へびみたいな腕が巻きついてきた。

「誰にも言わないからおにいさんに話してみろよ、な?」

 言葉の最後で腕の力を強くしているのが脅迫だと、本人はわかっているのだろうか。

「だったらおまえにも言わない、じゃあおつかれ」

 皮膚にぬめりの出始めた蛇を引き剥がし、ちょうど信号の変わった横断歩道へ歩き出そうとして、

「つれないこと言わないで、おれの話につきあえよ~」

 蛇からたこになった同僚が絡みついてくる。趣味でレスリングをかじったらしく、くっついたら離れないガムみたいだ。

「ああもう、わかった、わかったからはなれろ」
「おおマジで、やった!」

 洗剤をかけられた油と同じ速さで分離して、なぜかふたたび周囲を見回す。暑い中べたべたしているのが気になっていたらしい2人組を発見して風のように近づき、

「よかったら一緒にのみませ~ん?」

 映画から出てきたみたいなノリで声をかけるものだから、ぐいと襟首をつかんで引き戻す。

「すいません、気にしないでください」
「えっと……」

 あきらかな拒否感を示すわけでもなく、互いの顔を見ながら耳打ちする姿が不安をあおる。値踏みの眼差しから逃げるように、点滅する信号に向けて走った。


 駅からの距離で混み具合の決まる時間帯なので、すこし歩いてから店に入る。

 壁の木目は飾りに過ぎないけれど、どことなく隠れ家のような薄暗さが外の暑さを遠ざけ、早割のビールは月末のふところにも優しい。

「かんぱ~い!」

 はじける泡みたいな同僚を睨みながら、無言でジョッキを打ち鳴らして一口飲む。お通しのポテトサラダは甘さ控えめなわりに辛みがあって、飲み慣れたアルコールの邪魔をしない。

「だからさ、おれは決め顔で言ったわけよ、きみがいちばんだよって」

「究極の二択でなら相手も満足するだろ」

「そう思うだろ? でもさ、ちょっとした後にそうじゃない、さめたってひどくね?」

「もともと脈なしで、どっちを取ってもダメだったってことじゃないか?」

「でも決められないなんて、そんなゼラチンみたいなこと言えないだろ?」

「だったら熱で溶けたんだろ」

 フラれた疑惑をかけられて、なぜかフラれた話をされる地獄みたいな時間だったけれど、さほど気分は悪くなかった。

 見た目からしてお調子者な同僚は、ともだちとしてなら付き合えるけれど先には行けない呪いにかかっており、定期的に今みたいな飲みに連れてこられる。

「それにしてもさっきの、もったいなかったなぁ~」

 刺すほどでもないけれど、硬いものを宿した眼差しがこちらを向く。

「……ああいうのは苦手なんだ」
「お地蔵さんって前に言われたの、まだ気にしてるのか?」

 顔つきだけで肯定すると、同僚はレモンサワーの香りがする溜め息をついた。

「かたく考えなくていいんだよ、接客してるみたいにさ、こう、フラットに話せばさ」
「相手の要望がわからないのに?」
「むこうが期待してんのは楽しさとか、親しみやすさだろ」

 言われなくてもわかっているし、そうしたものが苦手だから地蔵と言われても仕方がない。貼りつけた笑顔で話を聞くのがせいぜいの、漬物石みたいな人間だから。

 内側へと沈みかけたところで、個室の出入口に紺色の割烹着が現れた。

「おまたせいたっしゃいまっさー!」

 早口言葉の呪文とともに刺身の盛り合わせ、たこわさ、ししゃも炙り焼きが卓上に置かれる。

「どうもー!」

 割烹着に礼を返した同僚に割り箸を差し出して、こちらは注文の品に手をつけないままジョッキの中身を空にする。

「で? なんであんなとこにいたんだよ?」

 店に入ってから同じ問いをされたのは3回目なのに、酔いが入ったせいか口がすべってしまう。

「……たんだ」

 耳打ちするような小声で白状すると、同僚は予想した通りのいやらしい表情をする。すぐやられる悪役の子分がするみたく、舌なめずりをして見せた後に言った。

「ピュアじゃん、ピュアピュアじゃん」

「かさねるなよ」

「いい話は何度したっていいのと同じだし、もう一本いっとく?」

「この……!」

「2杯目って意味だって! そんなにあつくなるなよ!」

 さびしげなジョッキを指差しながらでは、こちらも矛を収めるしかない。

「……同じので」
「へいへいっと」

 卓上にある端末を叩く同僚を見ながら、すこし前に記憶を巻き戻していく。すると悪寒のようなものがして、抑えきれず顔に出てしまう。

「どした? 変なことでも言ったのか?」

 ついつい視線をそらしてしまえば、それはもう肯定したのと同じ意味をもつ。

「おー、こりゃ図星かー、ほーん」

 そのまま掘り下げずに泳がせるあたり、同僚の人あたりの上手さを証明している。

 黙っているか別の話題を振れば流すけれど、思いがけないタイミングで引き戻される針に驚いて、あたふたする姿を楽しむようなやつだ。

 半分くらいに減った注文の品を見つめ、それとは関係なしに観念する。

「……きょうは、あついですねって、そう言ったんだ」

 ぼそぼそと打ち明けたものの、同僚の顔は渋い。

「なんだそれ?」
「だから、思ったことをそのまま口にした」
「それはわかる、わかるけどなんでそんな顔してんの?」

 スマートフォンを取り出して撮ろうとするのを止めさせ、あー、うー、と唸ってから理由を打ち明ける。

「……月がきれいですねって、あるだろ?」
「え、それなんかのネタ? 月がきれいですね……っと」

 手にしたままだったスマートフォンで調べてすぐ、同僚の顔が奇妙な動きをする。喜怒哀楽の1つだけを除いた感情が寄り集まって、一言で表すなら不気味な表情だ。

「なんていうか、気にしすぎだろ……」

 正直に返されたものの、これ以上は言葉にするのもはばかられる。

「おまたせいたしましたー!」

 狙いすましたかのように紺色の割烹着が現れて、空のジョッキを新しいものに交換してくれる。よどみのない流れるような動作を目で追っていくうちに、

「……あれ」

 服装は違うけれど既視感のある顔立ちにつぶやいて、それが相手の記憶にも届いたらしい。

「ほんとうに、きょうはあついですね」

 ごゆっくりどうぞ、と同じような口調でも、遅れてきた返事が時間の波を越えて漂着する。

 去っていく割烹着の背に礼を投げてから、同僚がこちらを見る。

「お客さぁん、ずいぶん酔ってますねぇ」

 年配の店主みたいに笑い、すこしだけ残っていたレモンサワーを飲み干し、注文用の端末に手を伸ばす。

「次も同じ人が来てくれたら、おれのおごりでいいっすよ」
「……うっさい!」


  店を出たときには日も陰り、温められた足元だけがふわふわと、気分その他を浮き上がらせる。

 賭けには負けたので割り勘となりそうなところが、会計にやってきた割烹着を見て同僚が、

「おれ財布わすれちゃったんで、この人のおごりなんです!」

 なんてまっかなウソをついたものだから、仕方なく払うことになってしまった。月末に痛い出費ではあるけれど、意外にも嫌な気分ではない。

 見上げると町の光にも負けない星がいくつか見えて、それは海底から眺める星空のようだった。 



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