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君のなかで屹立する象徴、それは太陽の塔
『太陽の塔』 森見登美彦
読了レビューです。
文字数:約1,700文字
ネタバレ:一部あり
はじめて読んだときの衝撃が強すぎたらしく、私にとって本作は岡本太郎の手による『太陽の塔』であるかのように感ぜられた。
関東民かつ戦争が遠くなった頃の本邦に生まれた私は、実際に太陽の塔を見たことはない。あくまで概念、イメージとして理解されることを望む。
こうして作者の文体に寄せているのか、はたまた無意識に吸い寄せられているのか知らないが、おそらく作者は太宰治を崇拝せずとも好んでいることは確かである。
その証拠に『奇想と微笑』という、太宰治作品のアンソロジーを編集しており、どことなく文体やテーマに共通点を感じられる。
さて、本作を一言で表すなら次の一文に集約されるであろう。
我々はクリスマスを呪い、聖ヴァレンタインを罵倒し、鴨川に等間隔に並ぶ男女を軽蔑し、祇園祭において浴衣姿でさんざめく男女たちの中に殴り込み、清水寺の紅葉に唾を吐き、とにかく浮かれる世間に挑戦し、京都の街を東奔西走、七転八倒の歳月を過ごした。
ときは巡って本年のクリスマスを一方的に呪う「私」と仲間たちは、とある計画を実行しようとする。
内容としては非常にくだらないし、妄想と夢と現実とが多重交差のち行方不明になる。
おそらく何の益にもならないエネルギーを煮つめて蒸留し、ウォッカを通り越して純アルコールのようになったものが本作だ。残念ながら臭いつきなので売り物にならず、燃やして暖を取るのが世界平和の為である。
主人公の「私」が恋をして、しばしの逢瀬の後に終わった「水尾さん」という人物が重要なのだけれども、作中における2人のやり取りは全頁をとおして0だと思う。
「私」と仲間たちその他が右往左往したところで、2人の関係が何かしらの変化を迎えるでもなく、むしろバッドエンドで盛者必衰のことわりをあらわすというか。
題名にもある「太陽の塔」は圧倒的な存在として描かれ、「私」と水尾さんの関係にも暗くて長くて深い影を投げている。
そうした陰鬱なものに沈むことなく浮かんで飛翔するのが、「私」と仲間たちによる次のやり取りだ。
「見つけた」
私は言った。
「何を?」
高薮はびっくりしたらしい。
「自分」
「どこで?」
「大英博物館に陳列してあった」
飾磨がずるずるとマロニーを啜り込みながら、「そんなところにあったら、そりゃ見つからんよなぁ」と、しみじみ言った。
「自分っつぅのは、どういう風に落ちてるもんなの?」と高薮。
「これぐらいのブリキの箱に入っていて、可愛いリボンがかかっていた。それはもう、感動的な出会いであったという」
「いい話ですねぇ」
井戸が言い、高薮は溜め息をついた。
「そうなると、俺もどこかに落ちてるんじゃねぇか」
「あるだろう。たぶん月面あたりに」
異次元すぎて中身が常人には見えない会話ながら、こうしたものが私は好きだし、次の部分も最高に面白い。
私と飾磨は八条にある京都駅ビルを訪れた。
階段に巨大なクリスマスツリーが設置されたという風の噂を聞いており、我々は「ええじゃないか騒動」に向けて意気を盛り上げるべく、言うなれば前哨戦の意味を込めてツリーの下に立った。その木の下でサンタクロースを数匹仕留めて、サンタ鍋をやろうと思っていた。
誉め言葉としてのおバカなやり取りを楽しむのが本作であり、読み終えた頃には作者、森見登美彦があなたにとっての「太陽の塔」的な存在になっているかもしれない。
ファンとして嬉しいのは、著作『四畳半神話大系』とその番外編にあたる『四畳半タイムマシンブルース』との関連がある点だ。
主人公の「私」が住むのも四畳半であり、先の2作に登場する「下鴨幽水荘」には仲間の1人が住んでおり、作者自身によるクロスオーバーは大変に面白い。
結論として私が身体の中に収めていた本作への憧憬は、脆くも崩れ去ってしまった。
それは私があの頃より成長したのかもしれないし、あるいは単純に老いただけなのかもしれず、真相を究明するのは命取りになるやもしれぬ。
何であれ私は作者の描く阿呆な世界が、やたらめったら好きなことは確かなのだった。
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