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せつなさと うらやましさと なつかしさ

【文字数:約1,300文字】

 数年にわたって活動した小説投稿サイトを訪ねてみて、やりとりのあった人が小さなコンテストで受賞していた。

 それを見た私は「〇〇さん、やったな!」と喜んですぐ、自分がサイトで活動していない事実を寂しく感じた。

 まるで退職した会社の同僚が素晴らしい業績を上げたような、あるいは引退した部活の後輩たちが、自分たちでは届かなかった県大会で優勝したような気分だろうか。

 私は投稿サイトが主催する小説賞で最終選考まで進んだり、数週間ランキングの上位を獲得したこともあるけれど、今現在は活動していない。

 もういいかな、と後ろ向きな到達を果たしたのもあるし、ランキングを争うのに疲れたのも無関係ではない。

 ◇

 ヘッダー画像に映った紙の束は、最終選考に残った作品用のメモ用紙だ。

 がんばった、というのとは少し違う。どうにかしてこの話を形にしたい執念が、およそ3年にわたって書くことを止めさせなかった。

 その作品が一定の評価を得て、やっと私は書くことに自信を持てた気がするし、なんだかんだで6年目になった。

 投稿サイトでは他の人の書いた作品にレビューを寄稿し、そのうち「あのレビューの人」と認識されたのも嬉しかった。

 そこで活動した数年間は充実していたし、辞める必要はなかったのではと今さら思ったりする。

 ただ、私は投稿サイトに縛られてもいたから、離れた今だから書けるものがあるだろうし、自分の時間を楽しめているという実感は前よりも強い。

 小説投稿サイトに集まる人は、当然のように小説を書く人が大半を占める。

 そこでは自らの創作物が通貨であり、評価されれば階級が与えられ、ときに教祖へと祀り上げられる。

 言い換えるなら創作物が評価されないと認知もされず、一方で途切れなく人気作のパレードを見せつけられる。

 いつか自分もそこに並びたいと、目標や指針にする向き合い方もあるけれど、近づきすぎると自分が何を書きたいのかが分からなくなっていく。

 私が投稿サイトを辞めたのも、進みたい方向が分からなくなったのが大きい。

 ◇

 趣味の執筆は社会を支える様々な仕事のように、だれかの生活を便利にしたり助けたりするものではない。

 とある事象への興味から発した研究と同じく、それが有益か無益かの判断をするのは自分自身だ。

 あるとき運命の歯車が噛み合って社会を変える可能性があるし、反対に忘れ去られるかもしれないけれど、大半は後者になってしまうだろう。

 それでも書くのを辞めないのは何故なのかと考え続けて、最近は自らを規定するものが欲しいからだと思っている。

 鏡がなければ自分の顔さえ見られないから、私にとっての鏡が書くことなのかもしれない。

 小説投稿サイトで活動した数年間で得たのは、鏡に映っているのが自分だという他者からの認識であり、例えるならメイクの方法を学んだようなものだろうか。

 けれども次第に自分という素材の活かし方が、あるいは本当はどんな顔をしているのか分からなくなってしまった。

 終わらない舞踏会のようなあの場所で、また踊りたいと思うのか今は何とも言えない。

 とりあえず肌の手入れを欠かさないことで、自分から鏡を割ることがないようにしたいと思う。


なかまに なりたそうに こちらをみている! なかまにしますか?