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そして先生は永遠になった

『檸檬先生』 珠川こおり 読了レビューです。
ネタバレ:一部あり 文字数:約2,300文字

・あらすじ

 むかしむかし、とまではいかない10年前の春のこと。

 私は音楽室で先生と出会った。

 切れ長の黒い瞳と、すっとした鼻梁びりょうが目立つ、白い肌の少女だった。

 これは私が芸術家を目指し、先生が作品になるまでの物語であり、終わらない演奏の始まりだった──。

・レビュー

Named color : 名前のある色

 本作の主人公である私は檸檬先生から「少年」と呼ばれており、2人の名前は最後まで分かりません。

 少年の父と母も同じで、クラスメイトは最後あたりでやっと名前が分かり、それまでは緑、青、赤、群青などと色によって表現されます。

 人間を色で言い表すのは、本作の主題である「共感覚」がもつ特技のようなものとして描かれ、全体を見渡しても色に対する言及が多いです。

 とくに少年と先生が電車で海に行く情景は美しく、文字から色が浮き上がってくるかのようです。

 ガラス一枚の向こうに、碧が広がっていた。
 目の前にある窓の、雨風にさらされ続け傷ついたかさかさのガラスなんかではない。磨き上げられ、全てを反射するほどの硝子のような、サファイアを溶かし込んだような、空を流し込んだような、美しいあおだった。
「うみ」
 うみだった。海がそこに有った。

107頁 夏

 ガラスと硝子、あおとあお、うみと海で書き方を変えているのも手伝って、目にした風景が視覚によって取り込まれ、絵画へと昇華されたような印象を与えます。

名前のない少年と檸檬先生

 本作は共感覚を持つ2人のやり取りが中心なのですが、私こと「少年」のクラスメイトは最後あたりで名前が分かります。

 それまで色で表現されていたのが変化した理由は、少年の側に変化があったことを示しています。

 一方の檸檬先生は最後まで「先生」であり、どこか不変の存在であるかのように思えてきます。

 黒い瞳をした先生の前に檸檬がつくのは、少年がそのように「見えている」ためで、始めて出会った音楽室では匂いまで感じられたらしく。

 白い夕日が音楽室に射す。黒塗りのピアノは筋を残してきらめいた。檸檬の匂い。

20頁 春

 視覚に加えて嗅覚でも檸檬推しな少年は、ついに先生を作品にしてしまいます。

 題名まで『檸檬先生』として、次のような英文を添えるのです。

The Confession for the Most Beautiful Person in the World Who Is in My Mind

252頁 冬

 これを和訳すると「私の心にある世界で最も美しい人のための告白」となり、作者名まで少年としていることからも2人の特別な関係性を表しています。

合作の『シンコペーテッドクロック』

 共感覚によって音から色を見てしまうために、少年と檸檬先生は普通に曲を聴くのが難しいらしく、とある曲の冒頭を先生が演奏しただけで次のような状態になってします。

 弾けるような和音から始まって、唐突にまるでグリッサンドのような速さで下がっていく。また和音で上がって、それから下がる。有名な曲だったと思う。だけど、変な動きで上がり下がりする色が濁った泥水みたいな模様を作って、気持ち悪い。
 聴きはじめてすぐに私は顔を歪めた。しかし檸檬先生は私が何か文句を言う前にさっさと弾くのをやめてしまった。本当に、曲が始まってもないくらいだけど、もう私の脳はぐわぐわと揺れていて、先生も唇の端をぐっと下げている。

21頁 春

 しかし先生はルロイ・アンダーソン作曲『シンコペーテッドクロック』に色を並べ、それから音に変換するという手法を使い、共感覚者でも音楽を『聴ける』ようにする作品を作りました。

 始めて音楽を聴くことができた少年は、秋の文化祭で行われる自由展覧会への出展作品として、シンコペーテッドクロックを絵にすることを提案します。

 先生と2人で様々な色を使いながら制作に打ち込み、文化祭の当日に作品のプレゼンテーションを終えた少年は思うのです。

 世界が、色づいている。拍手の音も、観客の顔も、向こうに展示されている絵画たちも、色と音を響かせて、淡い香りを乗せて、鮮やかな世界が、広がっている。
 お辞儀をした。れんばかりの拍手だった。先生は微笑んで私を見下ろしていた。

217頁 秋

 まさしく大団円と言えるはずなのに、このあたりから先生と少年の間には埋めがたい溝が生まれてしまいます。

冬がきて、それから

 本作は私こと「少年」が先生のおかげで共感覚について知り、その特性との付き合い方を学んで生きにくさを克服する物語です。

 もしも2人が出会っていなければ、少年は自らの特性によって生きづらいままだったことでしょう。

 お互いにこれ以上ない理解者を得たかのように思えるのですが、2人は永遠に先生と少年のままなのです。

 けれど時間は流れ、それぞれを取り巻く環境も変わっていくわけですから、2人の関係も変わらざるを得ません。

 出会ってから10年後、先生は電話口で少年に言います。

『私は結局やっぱり透明だった』

242頁 冬

 絵の具を混ぜていくと黒になるのは、すべての色の光を吸収するためです。

 しかし自分を透明だったと語る先生に見た、匂い立つような檸檬色は少年の妄想だったのでしょうか。

 きっとそれは少年にしか感じられないもので、同じ共感覚をもつ檸檬先生ですら例外ではなかったのでしょう。

 分かりあえるからこそ、分かりあえない。

 先生のこぼした次の言葉が、本作のもう1つの主題であるように思うのでした。

「ニンゲンなんて嫌いだよ。ニンゲンなんて染まったら汚くなるんだよ。黒くなる。でもさ、ニンゲンじゃないと生きていけないから、みんなニンゲンなんだよね」

125頁 夏


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