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そうして街並みは個性を失い、新たな時代を呼ぶ

【文字数:約800文字】

 昨日の記事にて、実家近くの本屋が閉店したことを書いた。

 最後に残ったそこもなくなったことで、近隣の本屋すべてが閉店したわけで、コンビニをのぞけば大きな駅前に行かないと本が買えなくなった。

 商店街の1軒として数えられる本屋が閉店する前には、個人の食料品を扱う店が、その前にはクリーニング屋が、お菓子屋が、喫茶店が、瀬戸物屋が、おもちゃ屋が、花屋が、八百屋がなくなった。

 かろうじて居酒屋と新しく出店した理容室などがあるものの、単身者向けのアパートや戸建てが並ぶ通りは、生活に必要なものが揃う「商店街」と呼ぶのは難しい。


 子供の頃、おもちゃ屋で買った空砲は世界を撃ち抜くものだったけれど、今そこにあるのは開いてるかよく分からない居酒屋バーだ。

 栄えている商店街もある一方、私のところと同じく寂れた場所も多く、各地を旅しているときに昼なお暗い商店街を見つけると、どうにも寂しい気持ちになった。

 子供の頃にあったものがなくなるのは仕方がない。

 社会や家族の形、個人の考えも変わっていくのだから、それに伴って変化するのは必然といえる。

 ただ、未開発で街を一望できる丘がマンションになり、隙間なく建物が並んだ風景に私は息苦しさを覚える。

 そんなものは感傷に過ぎなくて、元からそうした街に住んでいる人にとっては、理解しがたい感覚なのかもしれない。


 ムダがなく効率的で、美しく整頓された街並みが理想とされる。

 でもそこには店主が子供たちのケンカを止めるお菓子屋もなければ、計算めんどくさいからとオマケをしてくれる八百屋もない。

 なくなってから惜しむのが人間の習い性であるように、ひっそりとnoteで活動しなくなる人もいる。

 けれども桜は必ず芽吹いて春を告げる。

 過去を苗床にして生まれる現在があるのだから、せめてもの記録として今は亡き商店街を、ここに残しておく。


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