見出し画像

デザイナーの自分は、カメラで写真を撮る目的を見出したかった


早朝の草千里

最近の出来事

少し前に熊本の阿蘇に行きました。私自身九州に初上陸だったこともあり、阿蘇の山々が作り出す自然や文化に感動し、圧倒されながら写真を撮りました。

沸いた疑問

移動距離に比例して思考を深められると言われていますが、「何を目的にカメラで写真を撮るのか」というある意味考えてはいけないような、疑問が湧きました。
性能が素晴らしく、スマートフォンでも十分綺麗な写真が撮れると思います。そして私自身、そこまでアクティブな方ではなくお出かけスポットを発信するインスタグラマーでもありません。最近はフォロワー1000人未満の私はSNSで多くの人に写真を見てもらうのが難しくなったな…という実感もあります。気まぐれで日記的な写真をSNSで発信するために、わざわざ重い機材を持って何を行っているのか?家族からは「ただ楽しいから続けているけれど、無理していないか?」と言われることもあります。

写真、撮影すること自体からの気づき

写真〜現像
人間が「美しい」「落ち着く」「違和感なく受け入れられる」など気持ちを大事にしたいと思っています。阿蘇で撮った風景写真を見返して思うことは、これらの観点において「自然の造形美から人間が心地よい思える形や色」を無意識に理解しようとしている気がします。より具体的にいうと、造形美、黄金比的なものへの審美眼を磨いているのかもしれません。そしてレタッチを通して補色の関係を考えながら色を足していくこともあります。印刷をするとプリンターや用紙によって色や線の現れ方も異なるので、PC画面で確認したイメージとはまた違う印象になります。グラフィック関連のデザインを実務ではほとんど扱ったことがなく、web系デザインメインの私にとって、これらの工程はハッとすることばかりでした。

撮影すること自体
日頃屋内でPCに向かっている時間がほとんどですが、つい、インターネットが繋がればほとんどのことが解決してしまう錯覚に陥っているのでは、という不安があります。そのため外に出て人間味的なものを取り戻したい。自然に圧倒されたい…といった欲求もあります。(基本的にはインドアのため、外カメラで何か表現できるという動機付けが必要です)
カメラを持って出かけると気づくことはたくさんあります。スマートフォンより手軽でなく細かいチューニングが必要なこと、カメラの操作的な興味や外観の美しさ、撮影する行為全体…頭と手と足を使って…、つまり体全部を使って表現するための写真を撮る行為そのものが、人間らしさを取り戻すために必要なことな気がしています。

終わりに

本当に好きなものに大義名分はいらないかもしれません。写真もカメラも楽しいしワクワクするし美しいから好きです。

そうはいっても、食事睡眠以外の時間はクリエイターでありたいという思いもあり、心おだやかに過ごすためには、趣味とデザイナー業務との連続性のようなものを言語化しておく必要がありました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?