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美しさ

触れる指先、灯る紅。揺れる髪先、叶う夢。

森のざわめきが衣擦れの音を隠す。風が止んでしまわないように、姿を瞳に映させないように。

真っ白な肌を月が照らす。浮かび上がるその白は、触れれば通り抜けてしまうほど朧げで、それでいて目を刺す。そのような白を持ちながら、彼女の髪は黒く輝く。

現実味の無い彼女を目の前にして、私は頬が紅く灯るのを感じている。

「怖い…?」

彼女の目尻が下がる。優しく微笑む彼女の目元に釘付けになる。そして手が伸びてくる。右手が私の左頬に触れる。幻ではないのだと、彼女の冷たい右手から感じる。指先は細くて、手首には青白く血管が浮き出ている。指先で私の左瞼をさすりながら、彼女は笑う。

「ふふ」

私は怯えている。彼女の美しさに怯えている。


私は美しい人が好きだ。昔からそうだった。そこに性差は無くて、ただただ純然たる美しさを備えている人に魅了された。美しくありたいと思った時期もある。それでも私には到底届かないような美しさを持っている人に惹かれる。

美しさに、悪意は無い。

それなのに、その美しさは世界を壊す。瓦解させる。崩す。それも容赦なく。そこにあるだけで、誰もが振り向き、目が釘付けになる。

美しいという感情は、徐々に湧き出るものではない。通り魔的に、夜道で突然頭を殴られるかのような不用意さで、襲ってくる。

今まで生きてきた中で、美しさに殴られることは何度かあった。圧倒的な存在は、固唾を飲んでいる間に目の前から消える。美しさは一瞬にして切り取られる。

瞬間的な暴力は、私の心を連れ去る。まさしく今がそうだった。

連れ去られた心を少しでも長持ちさせたくて、今こうしている。街中で見かけた彼女は、真夏なのに真っ白な肌をしていて、髪は黒く、手足は長くて、そして温度を感じさせなかった。一目みて、私の意識はこの森の中へと迷い込んだ。私は意識をこの森の中へと迷い込ませた。

目の前には彼女がいて、美しく透ける指先で私の頬に触れている。聞いたことがないはずなのに、彼女の声がする。私に囁きかける。耳は吐息を拾う。鼻腔を嗅いだことのない彼女の香りが満たす。

森の中へ迷い込ませた私の意識は、その中で主導権を失う。私の意識の中に存在する森の中で、私の手は彼女に取られ、足は彼女に絡め取られている。

彼女の冷たい親指が、私の唇をなぞる。抵抗ができない。抵抗するという気力はとうに奪われていた。そして唇から私の眼の下へと彼女の指が動く。

「泣いているの?」

彼女の指が私の涙を拭う。なぜ泣いているのかが自分には分からない。涙を流していた自覚もない。ただ、目の前の美を堪能したくて、瞬きをすることを忘れていたのかもしれない。瞬くことすら忘れる美を目の前にして、硬直している。

動かない身体を、彼女が包み込む。暴力にも近いその美しさが、温度を持って私を抱く。

先程までは冷たかった彼女の手が、温もりを持っている。

その温もりに気付いた瞬間、彼女は消える。

目の前は何でもない横断歩道。太陽は恨めしいほどに力強く道を照らしている。前から歩いてくるのは彼女によく似た女性。

信号が点滅している。動かなきゃと思い足を動かす。身体が動く。

横断歩道で彼女によく似た女性とすれ違う。

「ふふ」と笑った気がした。


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