828世田谷通り

ビーフシチューの匂いがする。好きなバンドの新アルバムを聴くためだけに、家までの世田谷通りをまっすぐ歩く。馬事公苑を超え、砧方面に曲がる。ゴツゴツしたコンクリートの感触。夏を下りかけた夜でも、喉はよく乾いて、出費をガマンしていたのに用賀通り沿いのローソンで負けた。1リットルペットボトルを脇に抱え、再び熱気に体を葬る。歩いていく。ボーカルの声が、曲の変わり目で一瞬止まった隙に、スズムシの鳴き声が流れ込む。チャンスを逃さない奴。とにかく、あれが欲しいこれが欲しいと言い続けている先輩が強い理由を知る。どこからか防虫スプレーの香りがする。25の夏。蚊取り線香じゃないんだ、と懐かしいような悲しいような。耳の奥で、実家の風鈴がはかなく鳴っている。実在しない、縁側ではためく幼少期の記憶を探るけれど、全部映画館のスクリーンに重なって作り物の思い出になる。

体力の残された日、暗い部屋でベージュ色の壁にプロジェクターの光を照らして映画を観る。換気扇をつけ忘れたキッチンから、鶏肉とピーマンを炒めたニンニクの匂いが流れ込む。1Rなんて一瞬で埋まる。悲しいも嬉しいも、私の空気に埋まる。たまに、隣の部屋の生活の匂いが舞い込むことがある。ふしぎと、生活を半分にした気分になる。二人なら二等分、三人なら三等分。その日の私は大泣きした。映画を観た、感動のほう。勿体無かったから、そのまんま寝た。

朝起きると、ブルーのシーツが垂直に存在している。私は地平線と並行で、空中にぽっかり浮かんだ島国みたいな脳に、無心で指令を送る。起きる、と。首を上げると、視界に入るのは半分開いたカーテンから指す白い光。外階段に、茶色いスズメが止まる。しばらく経って、小さくばたついて飛び立つ。今日をはじめる理由は、私の場合、きっと昨日に存在している。生活は繋がっている。だから続けたくなったり、辞めたくなったりする。良くなったり、自分の手で悪くしたり。期待して、勉強して、形にして、それでもうまくいかなかったりする。その手触りを押し返して、自分で進めるために、今日を起きる。

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