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お好み焼きをナイフとフォークで食べるのは、どうやらウチだけらしい

控え目な家電

小学生のころ、友達の家にあった三合炊きの炊飯器を見て「●ちゃん家の炊飯器小さいね、変なのー」と悪気なく言ったことがあった。
だけど世間一般的には、一升炊きの炊飯器を所有している家庭の方が少ないらしかった。

カレーやシチューを作るとき、ルーは必ず二箱入れた上で、水でもっと薄めて一気に30皿くらいの分量を作った。必然的に学校の家庭科室にあるような大鍋を使っていたけど、他の家では、うちがミルクパンとして使っている鍋のサイズでこと足りるようだった。

こんな感じで、普通だとばかり思っていたけど「やっぱりうちは大家族なんだなあ」と感じるギャップは多かった。
世の中自分が思っている以上に、家電もキッチン用品も慎ましやかに存在していたらしい。


ビゴーの風刺画

うちの食卓のおかずは基本的に大皿に盛ってあって、各自好きなだけ取るバイキング形式。だから一人暮らしを始めたばかりの頃は「一人分の量」がイマイチ分からず、よく食材を無駄にしたものである。

バイキング形式と言えば、唯一「いただきますのタイミングで最初から各自の皿に盛ってある」ものが、お好み焼きだった。
そして、いつからそうだったのかは覚えてないけど、お好み焼きの時はお箸ではなく、必ずナイフとフォークが食卓に並んだ。

今小学生・中学生の子供がいる人には想像に易いかもしれないけど、食べ盛りが複数いる食卓は、最早ただの戦場なのである。
うちの場合は「一人●個ずつね」と母が言っていたとしても、気付いたら自分の分がなくなっている、ということは良くあった。これぞ競争社会、って感じだ。

そういう意味では、誰にも取られることなく自分のペースで食べられるお好み焼きに子供達がナイフとフォークを並べ始めたことは、ごく自然なことだったのかもしれない。

普段母に「お茶碗を左手でちゃんと持ちなさい」と注意されていた兄でさえ、お好み焼きの時だけは様子が違った。

背筋をピンとさせて、なめらかにナイフを滑らせ、フォークで刺したお好み焼きにナイフでこれまた上品にソースをつけて、ゆっくりと口に運ぶ。
うん。良いお味ですね。シェフを呼んでください。



通過儀礼

ただその当たり前も、私が中学生の頃に友達の家でお好み焼きパーティなるものが開催されたときにあっさりと砕け散った。

私はなんの不思議もなく友達に「あれ、ナイフとフォークある?」と聞いた。
そのときの、その場にいた全員のキョトンとした顔が忘れられない。


いや、使うでしょ。ナイフとフォーク。
爆笑すな。


「逆にステーキが出た時は何で食べるの?」と聞かれたけど、森逸崎家で出るのは生協のサイコロステーキが最大にして最高レベルだ。ナイフで切るまでもなく箸でつまめる。

中学生らしく多感だった私はそれを機に、お好み焼きの隣にナイフとフォークが並んでいても箸で食べるようになってしまった。

だって私はなんだか恥ずかしくて、日本史の教科書で見たビゴーの、鹿鳴館の鏡に映るサルの風刺画を初めて見た時の感覚を思い出してしまったから。


先日、三女とその息子たちとで、実家でお好み焼きを食べた。ナイフとフォークを並べる人はいなかったし、欲しがる人もいなかった。

それぞれ私のように通るべき道を通ったらしい。



各々の成長

思い返せば家族が多い食卓は、それなりに苦労することも工夫しないといけないことも多かった。

全員の好みが少しずつ違うから、鍋の味は「皿に取り分けてから各自で好きな味付けを行う」という目的のもと絶対水炊きだったし(それもダシが入っているわけじゃなくて本当に水だけで炊いていた)、

毎日食事当番も決まっていたから、割とその日担当する子供たちによって夜ご飯の出来映えや量には結構差が出たりもしていた。

でも改めて、今最低限の生活力が備わっている理由の一つにこの大家族ってのがあるし、まあ、あのお好み焼きのナイフとフォークだって、他にそれを使う機会もそんなにあるわけではなかったし、あれはあれで、テーブルマナーを学ぶには結構良い練習だったんじゃなかろうか。

新しい価値観に触れる時はいつだって、新しい出会いだったり、交友関係だったり、少なからず自分が色んな人と関わることで自分のことを知れた時なんだな、と思うし。

そうよ、結果オーライよ。



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