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どこにでもいる人間の半生5

しばらくして、この人の子どもを産んであげたい、と言う思いが芽生えた。

もう既に3人も子宝に恵まれている私には、家計を見てもそんな余裕はないことは明らかではあった。

しかし、初婚の旦那にも、一からの育児を経験する機会を与えてあげたかった。

それが旦那の養子となった私の3人の子ども達の為にもなるのではないだろうか、血の繋がりはないが、父として、まさに血の繋がりのある子を一から育てる感動や体験が、彼の糧とならないだろうか。

それがひいては子ども達の生育環境に良好に作用しないだろうか。

そんな思いの中で生まれたのが三男だった、私が27歳の頃だ。

それはもう可愛かった。
旦那も、俺に似てブサイクだ!と言いながらとても可愛がって、夜は泣き止まない三男を連れて近所を散歩して寝かしつけたりしてくれていた。

娘や息子達もそれぞれに三男を可愛がってくれた。

姉からは、また?!と言うような驚きと呆れる感情を率直にぶつけられたが、お祝いをしてくれて嬉しかった。

私は程なくして夜間に飲食店のキッチンで働き始めた。

流石に旦那も夜は睡眠を取らなければ仕事に差し障る為、母乳で育てていた三男は、私が夜間仕事の間は母に預けて見てもらっていた。

それでも泣き止まず、母からのSOSで仕事の合間を縫って何度か母乳を飲ませに行った事もあった。

そんな折り、姉が手術をする事になった。

姉は後天性の側湾症とヘルニアを患っており、私とは違って我慢強く、ストイック、潔癖なところもあったり、とてもユーモアがあり、漫画が大好きで雑学に長けている。

時には厳しいが、それは私の為だとわかる、姉は心底優しくて繊細で、この世界が似合わないような人間だ。

そんな姉が昔から大好きだった。

姉は雑貨屋さんの店長を任されていたし、頑張り屋さんでガムシャラに働いていた。

姉の彼氏はとても温厚で、何より姉を大切にしてくれた。
姉が幸せそうで私は嬉しかった。

私は昔から、自分に自信がない。
愛されているのか、と言う点において特に自信がなかった。

だから姉が嫌であろう事をズケズケやらかすのだ。

例えば姉のベッドに寝そべったりする。
姉は潔癖なところがあるので、絶対嫌なはずなのに、受け入れてくれるのが嬉しいのだ。

事あるごとに姉の持ち物を欲しがったり、世に言うシスコンと言うやつだ。

そして、姉は自分としては、手術は今じゃない気がするが、今から仕事も忙しくなるし、周りの後押しもあり、手術をする事にしたのだ。

4時間の予定の手術が終わらない。
5時間、6時間、時間だけが過ぎていく。

何か莫大な不安感に襲われる。

連絡を受けた私は急いで病院へ向かった。

不安は的中した。

姉は医療事故により、両下肢麻痺となった。

不幸中の幸いか、脊髄は完全断裂を免れていた為、リハビリによっては程度はわからないが足が動く可能性は0ではなかった。

入院期間は半年か1年ほどだったのだろうか、よく覚えていないが、私は体が勝手に動く。

今だけは子ども達どころではなかった。

私にできる事を、と毎日のようにお見舞いに行った。

義理の兄ももちろん献身的なフォローをしてくれた。

姉をどうにか自殺したりなんかしないようにしたかった。
姉の辛さを考えると、それは私のわがままである。

その時ばかりは、姉が死を選ぶのではないかと怖かった。

そんな時にも、私たちの親はどこかズレていた。

娘の一大事よりも父を優先する母。
養父は姉に手術をするからだとまるで自業自得だと言わんばかりであった。

もとを正せば姉が側湾症になったのは小学生の頃だった。

真剣にケアしてやれなかった分際でよくそんな言葉が口から出るものだと、呆れて絶望した。

姉は昔からそうだ。

頑張り屋さんで、辛いところをあまり見せない。
持病で腰痛が酷くても、疲れてしんどくても、みんなこれ以上に辛いに違いないと我慢するのだ。

唯一覚えているのは、姉が18歳くらいの時だろうか。
姉は無給で両親が営むスナックで働かされていた。
それは多分16歳頃からではないかと思う。

お小遣いがない為、掛け持ちで昼間は飲食店で働いていた。
そんなある日、姉は私に呟くように言った。

同い年の子はね、ブランドの財布を持っているんだ。
私だって欲しいよ。

姉が居た堪れなかった、と同時に親への嫌悪感が増した。

私は1人勝手に家を飛び出したが、姉は私が家を出るように促すと、家を出たらこの親は誰がフォローするの?人様に迷惑をかけてしまう、と言うようなことを言っていたと思う。

私は何がなんでも姉を家から出したかった。

子どもに甘え切るこの親の元にいたら、姉はもっと搾取され、束縛され、姉らしい人生は送れないと思った。

その時にも力になってくれたのは義理の兄だった。

私は当時の姉に物理的なサポートをしてあげられなかった為、良いパートナーに出会えた事に心底安堵し、義理の兄にとても感謝した。

そして、姉は20歳を超えてようやく家を出て、親の呪縛から少しだけ解放された。

そのあとすぐに親の経営するスナックは閉店した。

それはそうだ。
周りからも母は酒癖が悪いし、養父の人付き合いは例えば小指なんかがない人や背中丸々和彫りが入った人、はては出所したばかりの人なんかで、ある意味では有名だったのだ。

姉は可愛かった。
当時はその界隈では一二を争う可愛さだった。
それでお客さんを繋いでいたところは大きくあっただろう。

そして、話は戻るが、姉は車椅子での生活になった。


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