見出し画像

【短編小説】わたしの男

 わたしの男は陳腐な男。

 わたしが高校生のとき、内戦があった。理由を知らされることはなかった。先生に聞いても、彼らの苛立ちをぶつけられるだけというのは誰もが知る事実だったので、誰も聞くことはしなかった。わたしたちは学ぶ権利を封じられ、最後の砦と化した校内で身を守るために息を潜めた。いつからそこにあるのだろう、生徒たちの憩いの場であった中庭の古びた鉄のテーブルや椅子がそのままビニールに包まれて廃棄される姿は、ラップに包んで冷蔵庫にしまわれる食材みたいだった。なんでも、菌がそこにあるからだと言う。わたしは校舎の三階からその光景を眺めて、かつて疎ましいほどに騒がしかった頃の様子を思い返していた。

 わたしたちはそれぞれの教室での生活を余儀なくされた。夜は教室に体育マットを一面に広げて、少女たちが各々息を潜めた。眠れるはずがなかった。空ではヒュルルルルと爆弾の音がして、そこからの出来事をわたしは想像する。わたしの家は燃えただろうか。それはどんな有様だろうか。壊滅した一軒家を思ううちに、やがて見回りの犬がやってくる。犬は牙の隙間からダラダラと涎を垂らした化け物で、戦争の道具の一つだ。教師たちがそれを使って、わたしたちを見張るのだ。彼らもまた、疑心暗鬼に陥っていたから。それも仕方がないことだと思う。今日は一人だけ殺された。少し鈍間な話し方をする、小柄でふくよかな子だった。

 その日の昼間、本を燃やした。そこで居合わせたのがわたしの男だった。何の教師だったのかも覚えていない。ただ陳腐な眼鏡の冴えない男だった。ぺらぺらの教科書から化粧箱に入ったような高い装丁の本まで、男と一緒に一つずつ焚き火にくべていく。中にはわたしの好きな作家の本も、いつか読もうと思っていた名作もあった。わたしは密かにそれらを選書し、こっそりと避けながら、淡々と火に焼べていった。男の眼鏡に、燃える文字が反射している。不思議なことにそれ以来、わたしは男の心が手に取るように判るようになった。

 先生、嫌なんでしょ。
 そういう話が出来る状況ではないだろう。
 でも嫌なんだ。
 嫌ではない。
 嫌なんだ。嫌なんでしょう。そうでしょう? 違う? でなければ、どうしてわたしの選書を咎めないの。嫌なんでしょう。全て嫌なんでしょう。何もかも。どうしてこれを燃やしているの? あなたが本当に、今すぐ燃やしたいものは何?

 問い続けると、やがて男の眼鏡の奥に火が灯った。それは革命の炎だった。わたしと男に言葉は要らなかったので、それ以上のことは話さなかった。ただ男の瞳に炎を映させたのはわたしで、わたしは炎そのものだった。そうして、男はわたしに落ちた。

 革命はまあまあごたつきながらも成功した。わたしたちは一応、陽の下を歩けるようになった。たまに校舎の屋上から矢が降ってくることもあったけれど、それらにもまあいつも通りに対処すれば良い話であった。

 革命が終わると、わたしたちはしあわせな暮らしを送るようになった。わたしはそこそこの家と身分を与えられ、男と共に暮らすようになった。男は昼間出掛け、わたしは男がいない間ずっと天蓋つきのベッドで眠る。重くて息苦しいほどの毛布の中で、わたしはただ眠る。眠る。昼も夜もわからず眠る。気がつくと男が萎れた花のような顔で帰ってくるので、わたしは男を拒絶し、罵り、気まぐれに甘やかしては、否定する。男はわたしに翻弄され、わたしの手のひらで踊らされ、傷つく。そうすると男は雑草のように生き返るのだ。

 なあ、お前の幸せは何なんだ。

 男はよくわたしに問うた。わたしは答えずに、ソファーで足を組んだまま男を見下げる。男は跪いてわたしの爪先に口付けた。

 俺はお前のためなら何でもしよう。何でも捧げよう。教えてほしい。俺はお前の何になればいい?

 わたしは爪先で男の踵を蹴り飛ばす。喉を踏みにじり、唾を吐き捨てる。そしてニヒルに笑ってあげるのだ。高慢で理不尽な悪女の顔で。

 少なくとも、あなたみたいに思考放棄した人間の傍にいることはわたしにとって不幸なことだわ。
 でも、昨日は何も考えずに従えと言った。
 昨日のわたしと今日のわたしが同じだと思う? 人の心は日々変化するもの。わたしがここに居てあげているのも、偶々わたしの気が変わらないからなのよ。わたしはいつだってここを出ていける。あなたがどれほど頑強な檻を作ろうと、わたしはいつだってここを出ていけるのよ。その「偶々」がどれほどの確率なのか、あなたはわかっているのかしら?
 ああ、どうか、それだけは。お前を失った人生に何の価値があろう。

 男は号泣し、わたしに縋り付くので、それを蹴り飛ばす。でもその涙の奥に、あの日の炎が映っていることをわたしは見逃さない。わたしの男は、わたしの幸せで頭ぐるぐるにしてるのが一番幸せなど変態だ。その心を、わたしは手に取るように判るのだ。

 わたしが分厚く重い毛布の中に戻ると、男も天蓋を開き、毛布の暗闇の中に這いつくばってくる。わたしのからだにのし掛かり、暗闇の中でわたしのからだを蝕むように舐め回す。暗闇の中での男は静かだ。暗闇での男は、自分を捨て去れるから。わたしも男の要求に答え、物言わぬセックス・ドールになる。そうしてまた朝らしきものが来る。男はわたしの眠る間にいなくなり、帰ってきては悪女ごっこをして、物言わぬセックスをする。

 わたしは男を愛している。

 わたしの男は真面目で律儀で、陳腐な男。わたしのいない世界でも、陳腐な男をやっているに違いない。秩序に寄り添い、決して信念を揺らがせない。でもあの日男はわたしに落ちてしまった。わたしの炎をその瞳に映してしまった。そして揺れる——揺らがされる快感を覚えてしまった。わたしはその心の動きが、手に取るように判った。

 陳腐な男。そして、可哀想な男。

 だからわたしは女王様でいてあげる。わたしのことで一喜一憂して迷えるようにしてあげる。わたしのことで頭ぐるぐるにしてあの真面目で律儀な男を恋の坩堝に沈めてあげる。それがわたしの愛情表現。男はわたしの愛を知らない。知らないくらいでいいのだ。

 わたしは女王であり、炎であり、セックス・ドール。男の髪を撫でることすらしたことがない。こんなにも愛しているというのに。しかしそれも自業自得だ。わたしが、男を狂わせた。わたしは男の心が、手に取るように判るのだ。

 ああ、わたしの、可哀想な男よ。

 もし彼がわたしの与える不安に耐えかねて、暗闇の中でわたしに死を願うなら、わたしはそれを受け入れようと思っている。

 なぜならそれがわたしの愛で、男の恋だから。

よろしければサポートをお願いします!頂いたサポートは書籍購入代とコーヒー代として使わせていただきます🥰