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【掌編小説】無心の微笑

2021年、人の目を見る能力が優れてきたことに気がついた。顔から下の情報を覆い隠された分、目でしか人の機微を察することができなくなったから。どこかで聞いた話だが、瞳の周りの化粧が流行っている時は不景気だという。その根拠をわたしは知らないが、恐らく不景気だと、口を見られるのが恐ろしいのだろう。口元だけで笑う、という表現があるように、口が最も人の表情をわかりやすく表す。不景気ゆえの陰気さや不安を人に察させないために、瞳の周りを化粧で装飾し、尊厳を防御しようとしているのではないか。これは私の妄想だから、なんの科学的根拠もないことを付け添えておく。私の目を見る能力も、それらの装飾の影響は少なからず受けているだろう。しかし、彼女の場合、最低限の防御装飾しかしていないようだったから、あまり化粧の話は気にしなくてもいいだろう。

「食べ物を買いに行くだけの単純な目的の散歩がいい」と医者に言われた。従順な私はその言葉通り、自分の調子と見合わせながら最寄りのコンビニに行くようにした。毎日通勤していた時のほうが、毎晩夕飯を買いに通っていたから、頻度自体は落ちているが。店員の顔も慣れ親しんだものだ。これぞ接客業の理想、と言わんばかりの溌剌とした声と笑顔が特徴的な30代ほどの男性。のろのろとした動きで客を苛立たせるのが得意な50代ほどの初老の男性。仕事についてははっきりと愛想のない態度を貫いているらしい、20代ほどの男性。最初に挙げた溌溂店員がおそらくバイトリーダーらしく、その3人がメインとしてコンビニは回っているようだった。それがかれこれ1〜2年ほど続いている。

だから、女性の店員を初めて見た時は少し驚いた。身長は150cm代前半だろうか、小柄でショートカットの、大学生くらいの若い女性だった。すでにニューノーマルとやらの生活様式が浸透していた時期だったから、彼女の顔から下半分は知らない。ただ目もとが柔和にまるく歪んで、虚飾のない笑顔だった。この子は欺瞞や義務で微笑んでいるのではない、確かに私に微笑んでいるのだ、と確信を得た。彼女はその無垢を誰にでも向けた。だからこそ信用できた。新米にしては慣れた手つきでバーコードをスキャンしていったから、他のアルバイトの経験者なのかもしれない。ありがとうございました、と他の店員と同じ台詞。でも他の店員のように、売上に対する焦燥や長時間の拘束による怠けを誤魔化した笑顔を、彼女はしなかった。虚飾のない、無心の微笑。都合よくそう見えているだけと馬鹿にしたければすればいい。私にそう見えていて、それを彼女の周辺に伝えることは決してないのだから、これは私にとって、事実だ。

だから、彼女の微笑に影が射した時は、傷ついた。彼女もついに虚飾の技を得てしまったのだ、という、清廉を汚された思いがなかったといえば嘘になる。しかしここまで美しかった彼女に影を齎すものが何なのかと、単純に彼女が心配であった。何かあったんですか、と声を掛けてしまった。そこから、記憶が混濁している。私はすっかり彼女と知己のようだった。店員用の出入りゲートを挟んで、私と彼女は話している。まつ毛の少ない彼女の瞼が伏していた。コンビニほど四方から明るく照らされる空間というのもない。だが彼女の瞼には影があって、私は2020年から徐々に身につけた能力で彼女の心中を悟ったのであった。

——実は、恋人ができたんです。

だが、私の能力はたかが知れているものだったらしい。彼女の影のそれは、恋煩いであった。
私は彼女を祝福した。内心傷つく心がありつつも、虚飾の笑みで祝福した。

——キリンジって知ってますか。昔のバンドなんですけど、その話で盛り上がっちゃって、そこから付き合うことになったんです。素敵な人で、大好きなんです。彼のこと。

キリンジなら私も好きだったし、何なら熱心なファンと言っても過言ではないほうであった。そうか、あの音楽を媒介にして彼女と知らない男の間に愛情が燃え上がったというのか。キリンジの音楽を孤独の友にしていた私には、あれをBGMに盛り上がる男女の恋愛というのがどうも想像できなかった。

彼女は煙草の並ぶ壁に背をもたれさせ、俯いた。まつ毛の少ない、素っ気ない瞼が、無知な農村の子のようだった。そして、あの無心の微笑で訥々と呟いた。今は業務時間中なのかどうかさえ、もう私にはわからなかった。

——大好きなんです。彼のこと。大好きなんです。

——君の父を殺したとしても?

私は彼女の目から一体何を悟ったというのだろう。ただ彼女の恋人が彼女の両親を殺したという事実を、私はどうしてか知っていた。そして、その言葉はするりと私の喉を通り抜けていた。彼女は変わらぬ無心の微笑で、頷いた。

——そう。大好きなのよ。彼のこと。

——君の母を殺したとしても?

——そう。大好きなのよ。彼のこと。

彼女は小動物のような丸い瞳を歪めて、虚飾のない、あの無心の微笑を浮かべてみせた。顔から下半分の見えない、あの目で。その無心が酷く美しかった。

彼女はしばらくしてコンビニから姿を消した。よく考えれば、名前も連絡先も何も知らなかったし、話をしたのも一晩だか、一年だかさえわからない。つまらない理性で考えれば、何者だったのかとあれこれ推測を書き記したくなる。しかし、彼女については、理性で考えるべき問題ではないのだ。彼女が私に齎したのは、あの、無心の微笑。


そういう、白昼夢。


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