コンテナハウス

6.may 2010

生活用コンテナ、それが私の所有物の全てだった。
遥か高いところを雲が覆っている白い空がどこまでも続いていた。そこはいつでも冷たい夜風が吹いている。

外を眺めていた窓を閉じる。自分のコンテナの中を見渡した。コンテナの中はほとんどアパートの一室のようなものだった。あらかじめ用意されていたシンプルな家具に、真新しい壁、ガラスの窓、低い天井、コンパクトな空間。与えられたのはそれだけだった。

近くに聳えているビルは、まるでそれが全てのものを裁く権利を有するかのようにそこに立っている。たった一本のビルが景色の中に聳え立っているのだ。

部屋は微かに揺れていた。窓の外に見えるそのビルを眺める。少しずつ近づいてくる。
コンテナは宙に浮いたままゆっくり移動していた。移動用クレーンで吊り上げている最中だ。学年が変わったのでコンテナの場所も変わる。席替えみたいなものである。

ビルを中心にして、その周りに円を描くようにコンテナがずらりと並んでいた。まるで幼児がつみあげた積み木のような不規則さだった。今年は何段目になるだろうか。なるべく高い場所のほうがいいな、なんて考える。

ガタン、と微かな衝撃が床に走った。

どうやら着地したようだ。私は玄関のドアを開けた。風が吹き込んでくる。
この高さは三、四階くらいだろうか。目の前に手すりの付いた廊下と階段が近づいてきて、ドアのすぐ外にぴったりと設置された。これでようやく地面に足が付けられる。

私はその時、玄関の外にある郵便受けに白い封筒が挟まって風にゆれていることに気がついた。それを引っ張り出して封を切ろうとした時、隣のコンテナから誰かが出てくるのが視界の隅に映った。

そこにいたのは私と同い年くらいの少年で、私と同じように自分のコンテナが何処に降り立ったのか今まさに確認しているところだった。
彼は私に気がつくと、会釈をして言った。
「あ、どうも」
「どうも。隣ですね。よろしく」
「こちらこそ」
彼は郵便受けに目をむけ、そこから白い封筒を取り出した。
「何だろう?」
 彼はそれを不思議そうに眺めている。
「それ、私にも来てました」
「去年はこんなもの無かったよね」
まぁいいか、と呟きながら彼はその封筒を部屋の中に放り投げると、ドアを閉めて、さっさと階段を下りて行ってしまった。私は何となくそれを見届けてから、自分のコンテナに鍵をかけると、周りに誰が住んでいるか散策に出かけた。

コンテナが軒を連ねる通りはゆるくカーブを描いて続いている。どれだけ歩いても外に出ることはできない。
おそらく皆考えていることは同じだったのだろう。その通りでは生徒たちがお互いに挨拶をしたり、自己紹介をしていたり、立ち話をしたりしている。

しばらく周辺を徘徊して何人か見知った同級生が近所に住んでいる事を把握した後、私は部屋に戻った。高いところは好きだ。空が目の前に続いて見えるし、風が吹き抜けるから。
金属製の、はしごに等しいような簡素な階段を登り、私はコンテナのドアを開けようと手を伸ばした。

まただ。私の視界の端に、人影が映った。振り向くと隣のコンテナに今まさに入ろうとドアノブに手を伸ばしているさっきの少年がいた。
「どうも」
目が合ったので挨拶をすると、彼は妙に表情を曇らせてこう言った。
「ねぇ、あの封筒、中見た?」
私も同様に表情を曇らせた。
「見てない。見た?」
「いや、見てない。でもあの封筒が来たのって、このあたりでは俺たちだけらしい」
「どうして分かるの?」
「だって聞いて廻ったんだもん。このあたりの人とは、もうほとんど話したから」
「たった一日で? すごいね」
「元々知ってる人も多いから」
彼はそう言うとドアを開け、部屋に入っていった。
私はぼんやりとしながらそれを見届けると、自分の部屋に入った。

次の日、目が覚めたのはコンテナの呼び鈴がけたたましく音を立てたからだった。コンテナの移動から新しい学期が始まるまではまだ日数があった。今日も特に予定はない。
まだ朝の8時だ。まだ、と言うほどの時間ではないのだろうが、私にとっては、休日の朝にしては早いと思う。
玄関にゆき私はドアを開けた。
するとドアの向こうに立っていたのは昨日の少年だった。
「・・・どうしたの?」
 私が訝しげに訪ねると彼は唐突にこう言った。
「昨日の封筒、中身見た?」
「あぁ、封筒・・・昨日はあれからすぐに寝ちゃったんだ」
「あけてみてよ」
朝から人のコンテナに訪ねてきて何を言い出すのかと思いつつ、私は奥の部屋からその白い封筒を持ち出してきた。玄関に戻り、その場で封を切る。
中には白い紙に書かれた文書が折りたたまれて入っていた。
無言で目を通した私は、前方からその文章を覗き込んでいる彼の顔を見上げた。
「・・・これ、何?」
「何だと思う?」
彼は少し皮肉っぽい表情で笑っていた。
「俺たち病棟行きメンバーに選ばれたんだ」
「は?」
「知らないの?」
それがさもおかしいことかのように言う。
「あの塔には医療部門の施設があるんだ。年始の健康診断で病の気があった生徒は病棟行きになって、医療部門の研究対象になるんだ」
「研究対象?」
「まぁ、あくまで治療だけど」
私は手に持った紙きれに視線を落とした。そこには確かに、『今年度のコース変更のお知らせ』とあり、そこには『病棟』や『手術』といった言葉が並んでいた。
「同意書も入ってるから、サインして、来週には提出だって」
隣人は書面を指差して言った。
「もし同意しなかったら?」
「わからない。でも、同意書の内容をちゃんと読んでから判断した方がいいんじゃない。ちなみに俺はもうサインしたよ」
「でもなんか恐くない?」
「別に、病気の影があるなら治療してくれるのはありがたい事だし。それにそこに書いてあるけど、治療中の分の単位は免除してくれるって。むしろいい話だよ」
「でも、それは研究対象になる事に対する報酬じゃないの?」
「まぁ、そうかもしれない」
彼はもう既に心に決めているのか、もうこの話に興味がなくなってきているみたいだった。さらりとそう言うと、へらへらとどこか遠くを見ているのだった。
「だからさ、病棟行きになったら仲良くしてよ」
彼はそう言い残して階段を下りていった。

それから数日考えた末のこと、私も同意書にサインした。
研究対象という言葉が何か引っかかってはいたものの、自分に何の病の気があるのか気になってもいたのである。
一週間の準備期間が終わり、新しい学期がようやく本格的にスタートした。私と新しい隣人はとうとう病棟行きだ。自分のコンテナはそのままそこに維持されるが、生活に必要な私物は病棟に移されることになった。荷物はそれほどなかった。ダンボール一つが半分埋まるくらいだ。それを管理部の職員が取りに来て先に運んでいった。

私はコンテナのドアを閉め、身一つで塔に向かった。治療が終わるまではこのコンテナに帰ってくることもできないのだと思う。鍵は他の管理部の人が持っていってしまった。
塔の脇道を通り、螺旋状に上へ続く吹きさらしの通路を歩いてゆく。ふと、後ろから声をかけられて私は振り返った。突風が吹きぬけて靡いた髪が視界を遮る。

そこにいたのは隣のコンテナの住人だった。彼は私のほうを見上げて苦笑いをした。
「病人にここを歩いて来させるなんて、どういうつもりなんだろうね」
私はそれを聞いて同じく苦笑する。
「本当に。」
荷物と一緒に病棟まで運んでくれればいいものを、本人たちには自力で来させるその意図がわからなかった。
「つまりは、それだけの体力がまだある病人にしか用がないということなのか」
彼が私の横に追いついてきて並ぶとそう言った。
「研究対象になる条件ってこと?」
「ふるいにかけるってことじゃないかな。それを本人に悟られず遠まわしにそうさせているとしか・・・」
「・・・そう思えなくもないか」
「まぁ、考えても仕方ないことだね」
考えても仕方が無い・・・彼の言った言葉が妙に心に引っかかった。そう思いたいが思えないという心の葛藤があったのだ。私たちはそう思うように仕組まれているのではないかとすら思う。わたしたちの行動はここではあまりに行き先を決め付けられている。一度その進路が決まれば、なぜその方向に行かなければならないのかなんて疑問にも思わない。疑問を殺されて育ったからだ。

しばらく風の強く吹き付ける通路を歩き、私たちはやっと塔内部への扉を見つけた。
医療部につながるドアだ。今私たちが通ることを許されているのはこの扉だけ。だからこの長い通路を通って来なければならなかったのだ。
ただの裏口かのような飾り気のない金属の扉だった。四角いただの箱のような機械が横に付いていて、そこに自分の登録カードをかざすと扉のロックが外れる音がした。
室内に入るとまず何も無い真っ白な通路が曲がりくねりながら続いていて、それを通り抜ける節々でいくつかの段階に分けられて全身消毒をされた。
否応も無く、私たちはその一本道を進むしかなかった。横道はどこにもなかった。
そしてとうとうその一本道の終わりが見えた。通路の先にあるドアのガラスから医療部門の通路らしき景色がようやく見えたのだ。

そのドアを開けるとそこは病棟らしく消毒の匂いが漂い、微かな音だけが響く静かな白い廊下と、病室のドアが続いていた。

私たちは受付らしきカウンターへ行き、そこに座って事務仕事をする女性に声をかけた。
「すみません。」
「はい。何かご用でしょうか」
 女性はパソコンの画面から顔を上げるとすましてそう言った。
「今日から病棟入りになったんですけど、何か手続きとかってありますか?」
「いえ、今の段階では特にはございません。学生証の提示をお願いします」
 私たちがそれぞれ学生証という名の登録カードを差し出すと、彼女はそれをコンピューターで読み込み、私たちにそれぞれ新しいカードを差し出した。
「これがこの病棟での登録カードです。治療状況などの情報が引き出せるようになっていますので、常にお持ちいただくようお願いします」
 

差し出されたカードは証明写真とローマ字表記された名前、生年月日、そしてシリアル番号だけが書かれたシンプルなものだった。私たちはそれを受け取り、カードの裏に大きく書かれた病室番号を見た。少なくとも同じ部屋ではないようだが、個室かどうかまではわからなかった。
「それじゃあ俺は自分の部屋に行ってみるよ」
彼はそう言って一人で歩いて行ってしまった。私も自分の病室を探してとりあえず歩き出したのだった。

1426。それが私の部屋の番号だ。
しばらく丸くカーブを描いて続く廊下を歩くと、その番号の部屋を見つけた。私はおっかなびっくりそのドアをそっと開けた。
どうやら個室のようだった。やはりここも白い部屋だ。
案外広いように見える。ベッドの前の空間が少し大きめにとられているせいだった。しかし私は次の瞬間にはその部屋を見回して胃が縮む思いがした。さまざまな医療機械がベッドを取り囲んで置かれていたのだ。床に無数のコードが引かれて、ベッドの下のあたりから放射状に広がっていた。

その時だ。部屋のドアを開けてそのまま放心していた私の後ろで突然、落ちつきはらった男性の声がした。
「○○さん、よく来てくれました。」
私はその声に驚いて即座に後ろを振り向いていた。そこにいたのは医者を絵に描いたような眼鏡をかけた真面目そうな男性で、白衣姿で廊下に立っていた。
「本人が居なくては始まりませんからね。この病室でほぼすべての治療が行われます。さあ遠慮しないで入ってください、荷物はもう運び込んでありますから」
彼は急かすように手をひらひら振って部屋に入ってきた。私は追い立てられるように部屋に足を踏み入れ、ベッドの前の大きく取られた空間に立った。
「消毒は済んでいるでしょうから、安心してくつろいでください。あぁ、その前に、あそこにある服に着替えてもらいます。僕は一度事務室に戻っていますから、準備が終わったらこのボタンで知らせてもらえますか。そうですね、その後はまず体の状態を調べますので、チームのメンバーがここにお邪魔することになりますがご了承ください。質問はありますか?」
私はあまりよく考えずすぐに返事をした。
「いいえ、大丈夫です」
『チーム』の前にどんな言葉が省略されているのかが、その時私にとって一番の疑問であった。それは『医療チーム』なのか、『研究チーム』なのか。それとも、もっと別の何かなのか。
 白衣のその男は部屋から出てゆき、私は彼の指差したところにあった服に着替える。何の変哲もない前開きの白い上下の服で、普通の入院患者が着ているものと変わりなかった。
着替え終わってベッドの近くにあった呼び出しボタンを押すと、ほんの数分でさっきの白衣の男と一緒に他の白衣の人が何人も入ってきて、私をベッドに寝かせると次々と周りにある機械の配線を手繰り寄せ、その先端を私の体のいたるところに取り付けていった。
「しばらくこのまま安静にしていて下さい。明日の朝にはすべてのデータが出ますから」
白衣の男はそう言ったきり『チーム』の人たちと部屋を出てゆき、そのまま次の日の朝まで姿を見せなかった。

頭の中を、懐かしい音楽が流れていた。それが景色の彩度を落とし、明度を少し落として、夕焼けが壁を染める部屋の風景が妙にノスタルジックに見えるのだった。懐かしいはずのものなど何もないのに、頭の中に満ちているその音楽と静かで寂しげな空気が妙に懐かしいのである。ベッドの上に投げ出した腕から体中の血液が流れだし、体がすべて溶けだして闇と融合するかのような気分だった。夜が近づいた。

私は大きく柔らかい寝心地のよいベッドでその日は苦も無く眠りについた。ただ少し体に取り付けられた機械が邪魔ではあったが、体に痛みが刺すなどということはなかった。

おそらく今日一緒に病棟入りになった少年も同じ目にあっているのだろうとぼんやりと考えていた。私とあの子はどちらのほうが悪いのだろう。いや、あんまりそういうことを考えるのはやめておこう。

次の日の朝、目覚めると周囲が妙に騒がしいのに私は眉をひそめた。
ベッドに横たわったまま少し首を持ち上げて見ると、部屋中に配置された機械からデータの記入された白く長い紙が排出され続けていて、それを巻き取ってゆく人、それからそれぞれの機械をセットアップする人、いずれも白衣を着た人たちがそれぞれ忙しそうに動き回っていたのである。
呆気にとられて見ていると、最初に部屋に来た男が私のところに来て声をかけた。
「朝から騒々しくてすみません。早急にしておきたいことがあったものですから。」
「なにかあるんですか?」
私がそう訊ねると、彼はさも当たり前のことを言うかのようにこう言ったのだ。
「はい、明日早速手術です。でも大した手術じゃないんです。麻酔はかけさせいただきますけど、別に大きなことじゃないですから」
「大きなことじゃないって、一体なんですか?」
「ただ治療の手始めにしておく必要があることですから、特に体調に影響を及ぼすことはありません。安心してください。」
彼はそう言うとただにっこりと笑ってその場を去って行った。

病室ではまだたくさんの白衣の人たちが作業を続けている。心電図のようなデータの紙の束を抱えた人が私の横を通り過ぎようとした。私はその人を引き留めて訊ねた。
「昨日私と一緒に病棟入りになった子、いますよね?」
その人は急ぎ足を止めて振り返ると「あぁ、いますよ。男の子でしょう、同学年の」と言った。
「その子の調子、どうですか? 彼も今同じ検査を?」
「ええ。この検査は必須なんです。調子はまぁ、悪くないと思いますよ。担当チームが違うので詳しくは知りませんけど。」
「会うことはできるんですか?」
「検査の途中ですから今は無理ですよ。あと1時間ほどはこのベッドにいてもらいますよ。どちらにせよ、手術室で会えると思いますし。」
その人はそれだけ言ってまたさっさと紙の束を運んで行ってしまった。
まだ出会って間もないあの少年個人に特に思い入れがあるわけではないが、同じ境遇にいる者としてとても会いたいと思うのだった。

 その日は、検査が終わった後には何もすることが無かった。私はただ病室のベッドに座り、隣のコンテナの少年のことが頭の中をぐるぐる回るのを止められずにいた。
彼の黒髪は細くて、外の通路で振り返った時、きれいに風に靡いていたっけ。初期段階の簡単な手術とはいえ、もうすぐ自分が消えてなくなってしまうかのような感傷的な心理になるのは何故だろう。明日が存在しないみたいな気分になるのは何故だろうか。

検査用の管が全て外され、私は少年の部屋を訪ねようかと思ったが部屋の場所を知らなかったことに気づく。夕方になり、自分以外には世界に誰も存在しないかのような気分になった。

コツコツ。

病室のドアが鳴る。手術の準備をしにチームがやってきたのだろうか。
「はい。」
短く返事をすると、ゆっくりと静かにドアがスライドする。妙にゆっくりに感じた。一人だけだった世界に他人の気配が流れ込んでくる。待ち望んでいた何かが訪れる時のようなスローモション。

「元気?」
顔を覗かせたのはあの少年だった。同じ白い服を着ている。裸足に白いスリッパを履いて。
私はよほど驚いた顔をしていたのだろう。「どうして?」と聞くと、何のことか聞かずに、彼は「部屋の場所なら白衣の人に聞いたよ」と答えた。
少年は私のベッドの横にあるスツールに静かに腰を下ろすと、じっと私の顔色をみているのだった。そして少し真剣な声音で「元気?」ともう一度言った。
病室で一人白い服を着てベッドに入っている私は、よほど悪い状態に見えたのだろうか。私は頷いて、「平気」と答えた。
「どうしたの? わざわざ来るなんて」
 私がそう訊ねると少年はただベッドに視線を落としながら言う。
「何故だかわからないけど…」
「あんなに強気そうだったのに、心細くなったの?」
少し笑いながら言うと、彼は私を見て苦い表情で笑った。
「そうかもね」
少しの間、沈黙が流れた。私は窓の外に目を向ける。真っ赤な染料を流したような空と、雲が沈殿した空。青味がかった紫が上から迫っている。
「私も同じ」
「ん?」
「心細くなった」
 私は窓の外を見ていた視線を彼に向けて笑った。
「がんばろう」
 彼は私がそう言ったのを見てただ頷いただけだった。そっと笑いながら。

次の日、私は朝食を摂る事もことも許されないまま、空腹にうなる胃をなんとか抑えようと必死になっていた。担架に載せられる。がらがらと音を立てて、白い照明の一定に並ぶ廊下の天井を見上げながら、私を乗せた担架が手術室へと向かっていた。

昨晩の傷心的な気分は跡形もなく、遊園地でアトラクションに乗るかのような、受け身の浮ついた高揚感があった。なんとなく自分事じゃないみたいな俯瞰した気分だ。
きっと私はこの次の瞬間も、1時間後も、明日も明後日も、もしかしたら永遠に、あたりまえのようにそこに存在しているだろうという根拠の無い自負は、意識しても心からマッサラには取り去れないのだとつくづく思う。
たどり着いたのは強い消毒の匂いのする一室。ガラスの壁数枚でいくつかに仕切られた長細い部屋だ。ガラス越しには同じような部屋があり、鏡で映されたように同じような景色があった。白衣の人たち。医療器具の乗った可動式の台。中央にはベッドと、その上に横たわった白い服の人。

私は首を捻って隣にあるその景色を見ていた。ガラスに微かに映った自分の姿と、その向こうの患者の姿が重なって見える。知った顔だった。彼は同じように首を捻って私のほうを見ると、強気そうに笑ってみせた。それに答えて笑顔をつくる。
「それでは始めます。」の一言で準備が整ったことが知らされる。首を戻し視線を天井に向けた。

説明されていたことを思い返そうとすると、理解できなかった事となんとなくしか理解できなかった事が大部分を占めていて自分で反芻できないことに気づく。覚えていることの一つに、まず麻酔は局部麻酔なので意識はあるのだということだった。そして、まず意識があれば間違いなく安全なのだということ。ゆえに私の意識があることを常に確認するらしかった。具体的にはおそらく、近くにいる白衣の女性が常に話しかけてくれている状況のことなのだろう。もちろんそれに応答する私は意識を保たざるを得ない。逆に言えば、意識が無くなった時その応答はストップする。私が応答をし続けている限り、問題なく進んでいるということだ。

 麻酔のせいで、手術が開始されても何の痛みも違和感も無かった。自分のどこにどんな手術が施されているのかも分からなかった。

 しかし、開始からあまり経っていなかった時、私は好ましくない状態に陥り始めていた。

白衣の女性の話しかけてくる日本語が、徐々にただの音にしか認識できなくなり、だんだんその音もうまく耳に届かなくなっていた。きコエまスか?◯◯サん、ダイじょウぶデすカ?…サ…こえ…………
景色が焦点をなくし色あせていく。目蓋が重くなって脳が空っぽになっていく。

私の応答がなくなった時、室内の白衣たちがそれぞれに目を合わせてから私に視線を集めた。口々に何か言っているのが見える。
一人、また一人と私の視界から消えていく。
床が微かに振動したように感じる。
白衣の人たちは慌てた様子で動き回り始めた。ある人は部屋から駆け出して行き、ある人はしきりに機械の操作をしながら私の様子を覗き込んでいる。機械の単調なアラーム音が鳴り響きはじめる。

同時進行していた隣の部屋の手術は順調にいっているようだった。手術台に横になった少年は呆然としてガラス越しの景色を見つめていた。何が起こっているんだ。と言いたげな顔つきで。
ピーッ、ピーッ、ピーッ・・・

私が見たのはそんな状況のぼやけた断片で、それも徐々に色を無くして光が小さく弱くなっていく。景色と感覚が遠のいて、暗闇が近くなってくる。

その向こうに別の何かの存在を感じ取る。
 

違う感覚が目覚めていくかのような。

 水中から浮き上がり水面から顔を出す時のような。

 今までの世界が虚構であったかのような・・・





ピーッ、ピーッ、ピーッ・・・・・・

アパートの一室。カーテン越しに朝日がまぶしく光る。
ピーッ、ピーッ、ピーッ・・・・・・
眠りから覚めた私は、目覚ましアラームの鳴る何の変哲もない自分の部屋のベッドの上で青ざめた顔をしていた。

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絵の勉強をしたり、文章の感性を広げるため本を読んだり、記事を書く時のカフェ代などに使わせていただきます。