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開花の時まで、あとどれくらい?#32

 桜が咲く時期には600度の法則というものがあるらしい。
 2月1日から毎日の最高気温を足していき、その合計が600度になった頃に桜が開花する。春らしい陽気な雰囲気の漂う法則だと思うのと同時に、これを自分に置き換えた時に、あと何度合計すれ芽吹くのだろうと考えた。

 自分は根明の人間だという自負があるのだけれど、時折鬱々とした気分に襲われて身動きがとれない状態に陥ることがある。
 それは自分に課した目標を達成できなかったときとか、将来への不安とか、人の生きざまのようなものを見た後に決まってやってくる。

 素晴らしい作品を見終えた後にくるロスのような感覚に近い。
 ただ落ち込んで泣きたくなるような憂鬱さではなく、自分にも何かできないかなと考え込んだり、何かを成さなきゃいけないなという得体の知れない使命感に襲われて頭が重くなってしまう。大抵眠れば翌日には解放されるようなものなので、ただ感傷的になっているとも言える。

 あまり口には出したくないが、この感傷は作品や作者に対する嫉妬のような感情にも近しい。尊敬の気持ちはありつつも、その作品に携われた境遇にとても嫉妬してしまう。もちろんこの気持ちがすごく身勝手なことであるのは重々に理解していて、愚かなことであるのも分かったつもりでいる。
 この感情が何のためにあるのかは未だに分からない。

 魂を揺さぶられるような創作物に触れたとき、この作品に出会えてよかったなと思うのと同時に、とてつもない焦りを抱く。
 
 最近その焦りを頻繁に感じるようになってきたのは、自分の進退について考えさせられる出来事に直面したからだ。
 それは今携わっている仕事のことなのだけれど、半年後までのスケジュールを引いてみた時に、自分は半年後もそれほど成長しないだろうなというのが感覚的に分かってしまったからだ。半年間大きな成長が見込めなければ、1年後も2年後も成長することはないだろう。

 そのことを無意識で分かっていたからこそ、今年から意欲的に執筆活動を行っているのかもしれない。

 現在の職に就いたとき、何か夢や野望を抱いてやってきたはずだったのに、いつからか作業と捉えるようになり、生活に必要なことだからやっているという意識にまで成り下がってしまった。おそらく僕は理想と現実の間に自分なりの折り合いをつけたのだと思う。社会や組織の中で揉まれる内に角が取れていき、何の変哲もない丸石になってしまったのだ。

 環境を変化させなければいけないときが近づいているのが分かる。
 が、自分はやはり弱い人間なので、大きく変化するのがすごく怖い。
 怖いので、自分の好きな本や映像作品の世界へ逃げるのだけれど、最近見るものの全てが夢や人の信念に溢れていて、見た後に鬱々としてしまう。

 4年前の僕は今よりも果てしなく未熟だったというのに、仕事も交友関係も家族も生活環境も全部を置いて、何の痕跡もない東京へとやってきた。
 あのときの勇気をもう一度持たなければならない、数々の作品が与えてくれた勇気を糧に次の一歩を踏み出さなくてはならない。

 色んなものが卒業していく光景を目の当たりにして、僕自身も終わりから始めなくてはいけないなと強く思いました。この憂鬱な気分が晴れる時から数えて、あと600度。それ以上かもしれないけれど、いつか開花する日が訪れるのだろうか。

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