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文化は不要か 〜 「生きる」と文化を考える

文化は不要か

新型コロナウイルスの感染拡大防止のため、ライブハウスや劇場、映画館など多くの文化施設が自粛を要請された。長期間に及ぶ営業休止により、閉店を余儀なくされた施設もある。その間、現場から国会議員を通して、あるいはメディアを通して、都政や国政に文化事業者に対する補償を要求する声は絶えない。その度に散見されるのは「優先すべきは生活のための取り組みで、文化は不要不急である」という旨の反論である。

「不要不急」は外出自粛要請が出た際に使われ始めた言葉だと記憶している。ぼくはこの言葉をはじめて聞いたとき「誰かにとっての不要不急を社会が勝手に決めてくれるな」と思った。これはぼくが小学生の頃から変わらないことだが、個人のあり方を社会が規定することに強い抵抗がある。大切なものは人によって違うし、タイミングによって変わるものだ。

ただ一方で、文化を不要不急とする声に反論しきれない自分にもどかしさも感じた。

ぼくは特に音楽や映画に強く影響を受けながら人格形成してきた。地元福岡から東京に出てきてからできた友人は、音楽や映画でつながった人ばかりだ。そんなぼくにとって、文化は「必要不可欠」である、と言いたい。もしそう言えなければ自分自身を否定することになりかねないからだ。しかし、「文化は不要不急」という言葉を目にしたとき、ぼくは「勝手に決めるな」以上の反論する言葉を持っていなかった。文化が苦境に立たされている現状を見ながら、明確なスタンスを取れていない自分への憤りすら感じていた。

すでに文化の価値を感じている人や日常的に触れている人、文化に救われた過去を持つ人は「文化は必要だ」と言うだろう。ただ、文化に関心がない人、救われた経験がない人にとってはどうだろうか。

この記事を書いているのは、個人の文化に関する経験や興味関心を問わず、「生活者にとっての文化の存在意義」を思考したいと思ったことが動機にある。

この記事を書くことを通して、改めて考えたい。

果たして、ぼくらにとって文化は不要なのだろうか。
そして、これからぼくらは文化に対してどのように振る舞っていくべきなのか。

これらの問いについて、現在文化が置かれる状態といくつかの先人の知恵(書籍)を参照しつつ、踏み込んで考えていくことがこの記事の目的だ。

また前提として、文化を生業としている人にとって文化が必要不可欠であることは言うまでもない。繰り返しになるが、ここでは主に文化を享受する生活者を主語とする。

「生きのびる」と「生きる」

「ぼくらにとって文化は不要か」この問いについて考えるときに、まず何において不要なのか、不要の前提を考える必要がある。

ここでは「生きのびる」「生きる」という2つの言葉で考えてみたい。

これは歌人の穂村弘の著書『はじめての短歌』の中で、短歌のあり方を紹介する際に使われていた言葉だ。

「生きのびる」ことは命をつなぐことと言い換えられる。穂村は本書の中で「『それがないと困る』ものを手に入れること」と定義している。

目が悪い人はメガネやコンタクトレンズがないと困る。道端で落としたコンタクトレンズを探していたら、きっと周囲の優しい人が手伝ってくれるだろう。なぜなら「生きのびる」ために必要だと万人が思っているものだから。社会的に価値が認められていて、そこには強い正当性がある。これが「生きのびる」ために必要なものの扱いだと、穂村は述べている。

もう一つ例を挙げると、サラリーマンの世界には「生きのびる」ためのシステムが張り巡らされている。効率がよく、生産性が高い人が良しとされ、会社の利益に貢献できる人ほど高い給料をもらえる。さらには「サラリーマンの教科書」のような書籍や「ビジネスマナー講座」と銘打った研修のように標準化される正しさがある。

穂村は、会社におけるその人の役割が「部長」や「課長代理」のように肩書きによって共有されていることへも言及している。

これらはみんなが「生きのびる」ために、「ないと困る」ものを手に入れためのルールだ。これが社会で共有されているから、多くの人は難なく生きのびられているのかもしれない。そして上にあげたサラリーマンの例を見るとよりクリアにイメージできるかもしれないが、「ないと困る」ものは究極的にはお金である、とも言える。

では「生きのびる」を踏まえて、「生きる」とはどういうことか。穂村弘は『はじめての短歌』の中でこのように述べている。

言っておきますけど、それは「生きのびる」ための明確さに比べて、不明瞭なんです。「生きのびる」ためには、ご飯を食べて、睡眠をとって、お金を稼いで、目が悪ければコンタクトレンズを入れて……しなきゃいけないでしょ、はっきりしているよね。だけど「生きる」ってことは、はっきりとはわからない。一人ひとり答えが違う。

「生きる」ことは「生きのびる」ことに比べて不明瞭で、一人ひとり答えが違うものらしい。

本書の中から興味深い短歌をひとつ紹介したい。

鯛焼きの 縁のばりなど面白き もののある世を 父は去りたり
高野公彦

亡くなった父親を悼む歌である。高野さんにとって、父が去ったこの世で食べられる美味しいものは、ほっかほかの鯛焼きでもなく、霜降りステーキでもなく「鯛焼きの縁のばり」なのだ。この美味しさは社会的に認められているとは言えないが、「鯛焼きの縁のばり」に喜ぶ高野さんと父親の関係性や暮らしの風景をこの言葉から描くことができる。この「弱さ」や「パーソナルさ」こそが短歌の言葉であり、「生きる」価値観と言える。

先ほど「生きのびる」の例で挙げたサラリーマンに対して、「生きる」の視点で言えることはなんだろうか。まず、「生きる」ことはお金にならない。正確に言うと、なりづらい。なぜならその価値が社会的に認められていないから、一人ひとり違うものだから。高野さんの父親との記憶の中にある「鯛焼きの縁のばり」と思い入れのない人が手に取っているそれは全くの別物であり、同じ値段はつけられないだろう。

お金は社会で認められている価値の最たるものだ。もともと価値を定める条件や性質が違うはずの物品を、交換可能にするための共通の基準として貨幣が導入された。そのことを踏まえると、一人ひとり違う「生きる」ことに値段がつけられないことは合点がいく。

役割だってそうだ。会社には「課長代理」という肩書きが存在する。「課長」が対応できなかったり、いなくなったりしたら「課長」に相当する能力を持った「課長代理」が代わりに「課長」の仕事をする。でも家に帰ると、そうはいかない。例えば「夫(妻)」や「親」の代わりはいない。子どもの教育ができてお金が稼げて、という機能的な要件を満たす人がいたとしても、当然代えが効くものではない。家庭では誰もが唯一無二の存在として生きている。これが一人ひとり違うということであり、「生きる」ことである。

これまで紹介してきた「生きのびる」と「生きる」の性格を表にして整理すると下記のようになる。

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これを文化に当てはめて考えてみるとどうだろう。

例えばライブハウスにロックバンドのライブを観に行く。学生時代からずっと好きだったバンド。ある曲を聴いて思い出すのは部活の最後の試合で負けたことかもしれないし、卒業式の風景かもしれない。個人的な思い出を重ねながら涙を流している人は、きっと「生き」ている人だろう。

でもこれがもしクライアントが大好きなバンドで、明日の会食で話すネタを探すためだとしたら、これは「生きのびる」行為になる。クライアントと仲良くなり、契約を延長できればお金になる。そして話のネタ探しは「ライブを観る」以外の手段にも代替可能だからだ。

ぼくらが文化に触れるとき、それは「生きる」ことの場合もあれば「生きのびる」ことの場合もあるだろう。そしてこれらは正反対ではないし、優劣もない。ぼくらはこの2つの価値観を自分の中に共存させながら「生きのびる」ことに寄ったり「生きる」ことを膨らませたりしながら、生活しているのかもしれない。

少し話が逸れたが、短歌で挙げた「生きる」と「生きのびる」の言葉を再度文化に照らしながら、文化の性格を考えてみる。

音楽それ自体は腹を満たしてくれないし、文学は身体の健康にも直接的には影響しない。映画を一本観たからといって、会社はぼくにお金をくれない。

「文化は不要か」という問いで始まった手前「必要」「不要」で解を出すべきかと思考を重ねたが、はっきりとした答えが出せない。「人によって違う、勝手に決めてくれるな」と思っているわけではなく、キッパリと切り分けられるものではないのではないか。

ただ、どうやら文化は「生きのびる」こととあまり相性がよくないということは言えそうだ。「生きのびる」ことへの貢献度が比較的低い、とも言える。

ここで新たな疑問が沸いてくる。

「生きのびる」という人間にとって達成されるべき行為と相性がよくない文化に対して、どうしてぼくらは熱中するのだろうか。そこに時間やお金や労力をつぎ込むことは、無駄なんじゃないか。人間が抱えるバグなんじゃないかとも思えてきた。

なぜぼくらは「生きのびる」において無駄なことに熱中するのか

「生きのびる」ことへの貢献度が低く、一見無駄なことは、身の回りに溢れている。

最近ぼくは競馬にハマっている。週末になると馬の勝ち負けにお金を賭ける。競走馬や騎手、馬場の状況をチェックして、スマホで馬券を買って、祈るようにテレビを見つめ、結果に一喜一憂する。先に言っておくが、経済的に困っているわけではない。ではなぜぼくはそんな無駄なことにお金と時間を使い、熱中しているのか。

そんな問いに、哲学者の國分功一郎は『暇と退屈の倫理学』にて、さまざまな角度から示唆をくれている。

『暇と退屈の倫理学』からいくつかエピソードを紹介したい。

フランスの思想家パスカルは、部屋に一人でいることややることがなくてそわそわすること、それにガマンならないことが人間の不幸の源泉であるとした。そして人間が退屈に耐えられず、無駄な営みの中でさまざまな苦痛と出会ってしまう運命を「ミゼール(=みじめ)」と呼んだ。それゆえ人間は退屈に耐えられない状態から気を逸らすため(気晴らし)に熱中できることを探す。

例えば、かつて身分の高い人にとってウサギ狩りは人気レジャーのひとつであった。彼らは食料に困っていたわけではない。しかし、汗水流して、怪我をするリスクを背負ってウサギを追うのだ。

最近ぼくが競馬に向かう姿勢と非常に似ている。

パスカル曰く、人間は退屈を避けるために「気晴らし」として無駄なことに勤しむ。「気晴らし」とは自分のみじめさから目を逸らすことであり、自分を騙すことだという。賭けた馬が勝つか負けるか、買った馬券が当たるか外れるか。ぼくの生活において一見重要ではないこと、無駄なことに意識を向かわせることで、ぼくは週末の退屈から目を逸らしている。充実した週末を過ごしていると、自分自身を錯覚させているらしい。

こうなると、そもそも「文化は不要か」という問いから疑いたくなってくる。いくら生命維持の文脈で文化を不要と位置づけても、ぼくらは不要なことから逃れられない、それどころか求め続けてしまうのだから。

(念の為書いておくが、ここでは文化それぞれの魅力や芸術的価値については触れない。そしてそれらが「気晴らし」と一口に言えるものではないこともぼく自身実感している)

パルカルの主張には納得感がある。が、しかし文化の価値を「気晴らし」だけだと片付けてしまうのは物足りないので、もう一つ参照したい。

同じく『暇と退屈の倫理学』の中で、哲学者ラッセルの『幸福論』を基に「人は楽しいことなど求めていない」という考え方が紹介されている。「退屈」の反対は「快楽」ではなく「興奮」である、と。ここで言われている「興奮」とは、昨日と今日を区別してくれる「事件」だ。ありきたりな表現にはなるが「非日常」が退屈を乗り越えるための糧になる、と。このラッセルの主張を、國分功一郎はこのように解釈している。

これは言い換えれば、快楽や楽しさをもとめることがいかに困難かということでもあるだろう。(中略)幸福な人とは、楽しみ・快楽を既に得ている人ではなくて、楽しみ・快楽をもとめることができる人である、と。

つまり仕事や趣味、あるいは信仰。熱意を持って取り組める対象を持つ(=楽しみ・快楽をもとめることができる)ことが幸福になる秘訣であると、ラッセルは結論づけている。

パスカルの主張を紹介する際に、趣味や文化を「気晴らし」「目を逸らす」「錯覚させる」などの言葉を使った。まるでこれらがつまらないことのように思われるかもしれないが、当然ぼくはそのようには思っているわけではない。むしろラッセルが述べているように、趣味は退屈と向き合う術であり、自分自身を精神的に充実させられることは尊いことだと思っている。

趣味と3密

「生きのびる」ことと相性が悪い文化によって、ぼくらはいかに「生きる」ことを手に入れているのだろうか。最近の状況にも目を向けてみる。例えばパチンコ店は「3密空間」として行政からも名指しされ、休業を要請されているが、すべての店舗が一斉に休業に踏み切ったわけではない。そして開店している店舗に、各地から人が集まっている。報道を見る限りでは、都内から郊外のパチンコ店に行く「パチンコ遠征」なる現象も起きているらしい。

感染拡大防止の観点では休業している方が望ましいと思うものの、この状況でパチンコ店に行くほど退屈している人、すなわち自宅で退屈を凌ぐ気晴らしや熱中の対象を持っていない人には想像力を持っていたいと思う。

個人の趣味や文化が個人の意思のみによって獲得されるものではなく、環境や社会の影響を受けながら継承されることを『文化的再生産』として論じたのはフランスの哲学者ブルデューだが、外出自粛要請があるにもかかわらずパチンコ店に行く人と、自宅でレコードを聴いたり映画を観たりして過ごす人は、単に個人の振る舞いとして良し悪しで判断されるべきではない。その違いを生み出した背景には社会構造がある。そしてそれぞれの趣味が「3密」を伴うか否かについては、偶然でしかない。

パチンコやギャンブルはときに否定的に見られるし、依存症や過剰な借金など少なくない闇がある。しかし日々の倦怠や退屈に苦しむ人を救い出してくれるという点では、他の趣味と同じ尊さを持っているはずだ。

編集者の末井昭さんもパチンコに救われた一人だったと言う。

ぼくも依存していたのかも知れません。ただ、ぼくは、当時のうつ状態からパチンコで救われたと思っています。パチンコで借金をする人もいるでしょうが、パチンコのおかげで自殺せずに生きていられる人もきっといる、そんな思いでニュースを見ています。コロナに感染してもいいと思う人は誰もいません。でも、自分が弱くてつい足が向かってしまう人がいるんじゃないか。パチンコをする人は孤独で、自分がはまったことで、その気持ちがわかりました

当然現在の状況下では、感染拡大につながるような行為を肯定することはできない。しかしブルデューの「文化的再生産」や依存症の性質を踏まえると、個人の責任を問うことが建設的だとは思えない。

社会構造や環境のような目に見えない引力が、人を3密空間への外出に導いてしまうのだとしたら、逆に彼(女)らが感染リスクを避けて「楽しみ・快楽をもとめることができるようになる」取り組みやムーブメントについてどのような可能性があるか、考えてみたい。

外出自粛期間のバトンと「うちで踊ろう」

外出することなく退屈を凌げる人はよいが、そうでない人もたくさんいる。パスカルやラッセルの引用で前述したように、人はそもそも退屈に耐えられないし、気晴らしや熱中を求める。そのような意味では、SNSで散見されるバトンは気晴らしの口実をつくる素晴らしいムーブメントなのではないか。

ぼくのもとにも友人からいくつかのバトンが回ってきた。あるテーマに沿って10曲のプレイリストを作って公開する #PlaylistChallenge 、7日間連続で好きな本を1日1冊紹介する #7bookcovers など、自宅での楽しみ方を紹介しあったり話のネタを提供するようなバトンだ。

これらの内容を考えることはまさに気晴らしである。自分の音楽遍歴を振り返ってみたり、自分に影響を与えた本に思いを馳せてみたりする。また他人の紹介している内容を見て、新しい音楽を聴いてみたり、本を買ってみたりすることは気晴らしをさらに後押しする。12,3年前のSNS(前略プロフやmixi)とともに黒歴史的な記憶でもあるバトンが、このタイミングで気晴らしという観点で新たな価値を提供していることは興味深い。

もうひとつ気晴らしという観点で取り上げたいのは星野源による「うちで踊ろう」である。4月3日に星野源のInstagramで

「家でじっとしていたらこんな曲ができました。(中略)誰か、この動画に楽器の伴奏やコーラスやダンスを重ねてくれないかな?」

と動画がアップされた。

三浦大知やmabanuaなどミュージシャンにとどまらず、バナナマンや大泉洋など、業界を超えた参加者が星野源の動画に合わせて各々のやり方でコラボレーションした動画をアップした。もちろん参加したのは著名人だけでなく、学校の吹奏楽部やイラストが得意な人、あらゆる個人があらゆる方法で創作のきっかけを得ることができたのだ。

4月30日時点で6万件以上の #うちで踊ろう がアップされている。内容はプロフェッショナルによるクオリティの高い作品から、子どもが無邪気に踊るものまで幅広い。このムーブメントに見られる魅力的な価値観は「作品としてのクオリティが高いもの=良いもの」という物差しを用いていないことである。

ー本当におっしゃる通りで、アーティストやクリエイター、一般の方々までプロアマ問わずどんどん反応して、すごい勢いで拡散されていくなかで、それぞれの個性が発揮されているところも素敵だと思ったんですよね。

星野:そうなんですよ。

ーきゅうりにエフェクターを通して楽器代わりにするとか、そんな発想もあるんだなって。

星野:うんうん。でも、大喜利大会にもなるだろうとも思ってたんですよ。音楽を重ねる方向もあれば、面白くする方向もあったりしたほうが絶対にいいと思ったので。バナナマンさんの動画を自分のアカウントで投稿したのも、「音楽じゃなくても、あなたにできることならなんでもいい」っていうのを示したかったから。大泉(洋)さんのもそう。

ここでの社会的な知名度を問わない姿勢と「あなたらしい表現」の肯定は、「生きる」価値観と共鳴する。ひとりのミュージシャンがSNSで発信した作品、そしてムーブメントは、個人の創造を誘い、個人の「気晴らし」になり、同時に「生きる」希望でもあったのだ。

まとめ

冒頭で挙げた「ぼくらにとって文化は不要か」という問いを巡って思考を重ね、ぼくは下記のように解をまとめた。

1. 何が「不要不急」かは人によって違う、社会に規定されるものではない
2. 文化は「生きのびる」ことより「生きる」ことに必要とされる
3. 人は「生きる」ことを求め続ける

新型コロナウイルスにより文化が苦境に立たされている現状を起点に、穂村弘の「生きる」と「生きのびる」、パスカルの「気晴らし」、ラッセルの「幸福論」、星野源の「うちで踊ろう」などさまざまな理論や現象を見ながら文化に思考を巡らせた。

そして今回の思考を通して文化が人間を人間たらしめる重要な側面を持っていることが腑に落ちた。

では次は「これから自分は文化に対してどのように振る舞っていくべきなのか」という問いについて、引き続き考えていきたい。

これまで一見無駄なこととしての文化の価値や生活との関わりを見てきた。次の記事では、文化に見られる性質をさらに紐解きながら「カルチュラル・アントレプレナーシップ」というキーワードを据え、ぼくがデザイナーとして、文化芸術の受け手として、一市民として何ができるか。これからの文化との向き合い方に踏み込む。

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