後光がさす女

私の人生を変えたひと言

#ビジネスの出会い #海外 #マスコミ


それは、オーストラリアのブリスベンの空港で起こった。当時私は、ビジネスビサを取得して、オーストラリアで現地ガイドとして働いていた。

と言えばカッコよいが、実はここまで来るのも大変だった。
元々マスコミ業界、もっと言うと海外をまわるリポーターになりたくて模索をしていた。好奇心旺盛で仕事で色んな体験をさせてもらえるリポーターが羨ましくて仕方なかった。その時は、本気で誰よりもたくさんのモノをこの目で見て、誰よりも多くの体験をして死んでいきたいと思っていた。
当時はネットなども普及しておらず、どうすればなれるのかがよく分からなかった。あらゆるツテを頼り、超有名な広告代理店の人を紹介してもらい、直接どうすればよいのかを聞く機会を設けた。
希望を膨らませている私にその人はこう質問してきた。
「君、短大卒だよね?」「で、業界にコネクションは持ってるの?」
いやいや、ないから悩んでいてあなたに聞いてるんでしょうが!と思いつつも、「いえ、コネクションは全くありません」と答えると、
「う~ん、じゃあ無理だね。うちの会社なんかも取引先のお嬢さんがほとんどだよ、しかも仕事をしに来るというよりお婿さん探し。でも、これが現実なんだよね」のお言葉。
夢見る少女だった私は、脳天を勝ち割られたような衝撃だったが、ここまではっきり言ってくれた事に感謝をした。そりゃそうだ、世の中そんなに甘くない。けれども、マスコミへの最後の望みとして、アナウンサーからリポーターという手もあるのでは?と、テレビ局に電話をし、アナウンサーはどういう人を採用するのかを聞いてみた。
すると、「そうですネ~、○○女子大とか△△大学とかの帰国子女が多いですね」と、とても手が届かない大学名をあげたのだった。しかも帰国子女と言われると、もうどうにも出来ないではないか!
それでも往生際が悪い私は、念のため親に電話をし、「今から東京のアナウンス専門学校で勉強したいんだけど、ダメかなぁ〜」と恐る恐る訊ねたのだが、「ダメかなぁ~のか」辺りで、「ジョーダンじゃない。何寝言言ってるの!!!!!!!」という一言でバッサリ切り捨てられてしまった。まぁ、ここに関しては想定内であったが…。そんなこんなで、マスコミ業界はキッパリ諦め、仕事で海外へ行ける→旅行会社と安直な発想から、旅行会社へ入社をした。

そこで、夢の方向転換をし、リポートしなくったって、海外へ行ければいいじゃん!と自分に言い聞かせていたのだが、何故か配属されたのが団体旅行の営業課というところだった。支店初の女性営業マンとなった私。
当時ハラスメントという言葉など誰も気にしていなかったので、上司の口癖は、「ヘド吐くまでヤレ〜」であり、その言葉通りの生活であった。睡眠時間は2~3時間。飛び込み営業で来る日も来る日も企業に飛び込み、莫大なノルマと自分が取った団体の宴会の盛り上げ要因として戦う毎日を過ごしていた。それでも、その上司には絶大なる信頼を持っていたので、それなりに充実した日々であったが、思っていたのと違う感も否めなかった。何よりも、海外に行きたいのだが、自社のパッケージ商品の海外添乗に出てしまうと、それだけ営業ができなくなると、営業マンは中々行かせてもらえない環境だったのだ。

そんな生活が4年を過ぎ、ついに海外への思いが爆発をしてしまい、退社をして、ワーキングホリデーで渡豪することにしたのだ。
すると、上司から突然電話が入り、
「オーストラリアの同列会社でビジネスビザで渡豪してくれる人を募集している。今一次選考が終わって、数日後に2次選考がある。ブッ込んどいたから東京に受けに行け!」と言うではないか。
言われるままに受験に行くと、そこはとんでもない世界であった。何でも英字新聞に募集を出していたそうで、一次を通過したそのメンバー10名程は、これまであまり接したことのないタイプの集まりであった。外人さんがよくやる自分で自分の話を笑いながら話す日本人、日本語がたどたどしく6カ国語話せる人、ジャスチャー満載で話す人、もはや日本人ではない人などなど。
で、やはり出たのだ。
「では、英語で自己紹介をお願いします」
フッ、こんなところで、英語の自己紹介などできるはずもなく、大学教授の中に保育園児が混ざっているようなもの。ここは、心が折れる前にとっとと済まして楽になろうと、
「すいません。私は英語が話せないので、皆さんの話の後では自信がなくなり出来なくなります。一番にやらせてください!」と自爆することにした。
ところが、何が幸いするか分からない、「そのど根性こそ、求めているものです」と採用されたのだ。

そんなことで、ビジネスビザを取得してのオーストラリア勤務であったのだ。余談であるが、あれほど英語が出来ないことを見せつけたにもかかわらず、現地に到着すると、「英語もペラペラのすごい人がやってくる」と変換されていて、到着したその日から英語で仕事の説明を延々とされる、初の仕事が通訳という地獄のようなスタートであった。

そんなことも何とか乗り越えて、オーストラリア生活を心からエンジョイしていたある日、彼女は現れたのだ。
その日、いつものように空港のゲート前で、担当の団体を待っていた。すると、ある女性が黄色と黄金とを混ぜたような強烈な光を放ってゲートから出てきたのだ。その女性は、その日私が担当する団体の添乗員だったので、彼女にいろいろと話を聞いてみた。すると、彼女は二足のワラジをはいていると言うのだ。1足目は、添乗員。2足目はリポーター。何ということだ。
私がやりたかったことを、実際やっている人がいる。彼女にできるのなら私にだってできるのではないか。という熱い思いが蘇ってきた。自分では、蓋をしてもうなかったことにしているつもりであったマスコミ業界への想い。
彼女の存在が私のフタを刺激したのだ。そして、彼女に後光がさして見えた事に運命を感じてしまった。
「私も昔リポーターをやりたかったんだ」という話をすると、彼女が決定的な一言を放ってしまった。
「あなた、向いてるわ!」きっと、彼女は話の流れで、もしかするとサービストークで何となく発した言葉だったのであろう。
でも、心のふたを開けるべきなのか、閉めるべきなのか揺れ動いていた私の心が、彼女この何気ない一言で完全に決まってしまったのだ。
「日本に帰ろう!そして、マスコミの世界を目指そう!」

そうして、それから私は何のあてもなく日本に戻り、マスコミの世界を目指したのだ。相変わらず、どうしたらなれるのか分からない上に、年齢だけは重ねてしまっているという悪条件であったが、ありとあらゆるオーディションを片っ端から受けた。やがてタレント事務所が養成所を持っているということを知り、そこで勉強をして事務所に所属することになり、マスコミの中でも商店街の抽選会の司会やビアガーデンの司会等、マスコミ業界の隅っこで仕事を学び、たまにテレビや大きな仕事をさせてもらえるようになっていった。結局、年齢的にも海外リポーターの夢は叶わなかったが、新たにラジオの世界に魅了され、ラジオDJとして生活をしていた。

それから月日を重ね、50代の今は、これまでの経験を活かせる仕事ということで、セミナー講師として全国を回っている。
あの時、彼女に会わなければ、青い目の子供と金髪の主人に囲まれた別の人生があったのかもしれないとふと思うこともある。
なぜ、あの時彼女に後光がさして見えたのか、こちらに進みなさい!ということであったのか、今でも不思議であるが、「あなた向いてるわ!」の一言が私の人生を大きく変えたことは間違いない。


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