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“期待”という夢からの目覚め、歩きだす準備

先日、「システム思考」にまつわるワークをした。
システム思考とは、すべての事象は原因と結果の連なりで起きている、という考え方だ。

ワークの内容は極めてシンプル。
紙に大きな円を描いて、てっぺん12時の位置に点を打ち、自分が抱える課題を簡潔に書き込む。
1時のところには課題が起きている原因、2時のところにはさらに1時の原因、11時には12時の課題によって起きる結果、10時にはさらにその結果…
そのように可視化することで、課題の全体像を把握することができ、改善するためにはどのポイントを起点に好循環に転換させていくべきかが見えてくるというもの。

シンプルではあるけれど、これがなかなか難しい。
原因をひとつひとつ丁寧に紐解いていくと最終的に己の深層心理にたどり着くわけだが、それは大抵、自分の「見たい答え」ではないのだ。
自分の弱い部分を自らの手によって突きつけられることになり、思わず目を逸らしたくなる。
しかし文字に起こすことで、それを認めざるを得ない状況に追い込まれてしまう。
人は紙とペンを前にしては、自分に嘘をつけない生き物なのかもしれない。

前置きが長くなったが、円に点を打ち込んでいくなかでひとつ気づいたことがある。
わたしは「周りからの期待に応えたい」「期待を裏切るのがこわい」という思いが強すぎる。
その思いを抱えるが故、自分が本来やりたいことから段々と着実に離れていき、我に返ったときには迷子も迷子。
なぜそこにいるのか、どうやって立ち戻るのか、どこへ向かえばいいのか、完全に道を見失ってしまうのだ。
あらゆる悩みの原点には、「周りからの期待」という抜群の粘着性を持った執念のような(あるいは怨念のような)ものがこびりついているのではないか…そう思えてきたのだった。

冷静に考えてみれば、ほんとうに周りから期待されているのかは甚だ疑問である。
わたしの勘違いという可能性は大いにあるし、仮にされていたとしても、あくまで他人に寄せる期待はいつだって無責任だ。
わたしがそれを成し遂げようがなかろうが、最後まで見届けてくれる人がいるのかどうかさえも怪しい。

なぜここまで「周りからの期待」に縋るのか、改めて深掘っていく必要があるにしても、ひとまず「期待されている」という前提でワークを進めてみた。
見えてきたのは「期待を裏切るのがこわいから、自分のやりたいことができない」という現状と、「やりたいことができないと、期待を寄せてくれていた人たちを恨むことになる」といういつか直面するであろう結果。

これはほとんどアハ体験だった。
「期待を裏切るのがこわい」と感じるほど大切な相手をいつか恨むことになり、なんなら納得のいく人生が送れないことをその人のせいにしてしまうかもしれないなんて。
もしそんなことになれば、ますます自分を嫌いになるだろう。
どうにも足掻けない状況に苛立ち、誰かのせいにしたくなり、自己嫌悪感に苛まれ、また新たな悪循環が生まれる。
暗すぎる未来がはっきりと見えた気がした。

周りからの期待を裏切ったところで、どうなるのだろう。
がっかりされるだろうか。
陰口を言われ、嫌われたりするだろうか。
万が一そういう人がいたとしても、その期待は前述したように無責任なもの。
ほんとうに心からの期待をかけてくれる人ならば、わたしが別の選択をしたとしても応援してくれるはずだ。

本来、期待とは応援なのだ。
なにかを成し遂げようとする人の背中を押してくれるものなのだ。
なにかを成し遂げようとする人の足を引っ張り、心をがんじがらめにするためのものではない。

そう気づいたとき、体内に蓄積された重りから解放されたような気分になった。
大切な人に大切な人のままでいてもらうためにも、わたしはわたしの道を歩く必要がある。
大丈夫、大丈夫だよ。
心のなかで何度も言い聞かせた。

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