今なら自分を好きになれる
ごく稀に、自分のことを好きだと思える。
それは1ヶ月に1回あるかないか、あったとしても、腹の底でじんわり「今のわたし、なんかいいじゃん」と感じるだけで持続はしない。
その間だいたい15秒程度で、またすぐに「いやでもわたしなんて…」とうじうじモードに戻るのが常だ。
昨夜ひっそりと、超絶小粒な成功体験を積んだ。
とある小説を2時間足らずで一気に読み切ったのだ。
夕食を済ませ、いつもなら録画したテレビドラマを見ながら飲酒をするところ、ふと思い立ってベッドの中で本を読む選択をした。
読み終えた頃には0時を少し過ぎていて、本の内容と読了に成功した自分への満足感に浸りながら眠りについた。
あまりにも心地よい睡眠だったので、翌朝寝坊したのは言うまでもない。
「書く」仕事をしたいと豪語しておきながら、いい歳をして読書が死ぬほど苦手だ(いや、過去形の「苦手だった」にしてもよいだろうか)。
高校生あたりからインターネットにふれる機会が急増し、知りたい情報はGoogle先生が瞬時に教えてくれるようになった。
それなのに本ときたら結論は数百ページ先まで進まないと辿り着けない。しかも解釈は読者任せである。
伝えたいことは3点にまとめて、140字以内で教えてほしかった。
でも、つい最近思い出した。本来わたしは読書好きだということを。
小中学生の頃は、はやみねかおるさん・伊坂幸太郎さんの本を友達と競い合うように読破し、流行りの小説は一通り読んでいた。
地元のスーパーに入っている小さな本屋と、町に2軒あった古本屋に通い詰め、お小遣いをもらえばすぐさま本を買いに走った。
ただただ純粋に「本を読むこと」が好きで、15年もの月日を重ねた現在のわたしを支配する「誰にどう見られるか」「その行動に意味はあるのか」といった邪念は一切ない、まっさらな自分。
わたしには無縁だと思っていた「好き」に突き動かされる感覚は、たしかに存在していたのだ。
無論、当時のわたしに「読者好きな自分が好き」という意識はなかったのだが、「15年前の自分に手紙を書こう」みたいな中途半端な企画があったなら、そんな自分を誇りに思ってほしいと偉そうに書くかもしれない。
今ならはっきり言える。あの頃の、好きなものに一心不乱に取り組めるわたしが好きだ。
15年間雲隠れしていた自身の一面が、突如として再び顔を見せ始めた。
今日は図書館で本を借りてみた。短歌集と、エッセイを2冊。
2週間後の返却日までに読み切れる自信は正直ないけれど、3冊の本を抱えて意気揚々と図書館を後にする自分への好感度がひとつ上がるのを感じた。
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