家族という選択肢はまだ残っているか
「家族」に関する話題が苦手だ。自分の家族になんの思い入れもなく、どちらかといえば意識的に避けてきた。かといって特別仲が悪いわけでもない(決して良いとはいえないが)。
↓その微妙な距離感について以前書いた記事
だから、どこか他人事のように「家族」という概念を、あるいは社会やグループについてあまり考えないようにしてきた。考えても意味がないし、自分の人生には関係のないものだと思っていた。
ところが、ここ1〜2ヶ月の間、ずっと「家族」について考えている。最近なぜか人様のご家庭に混ぜていただいて食事する機会が多く、さまざまな家族の在り方を目の当たりにし、その多様さと自由さに面食らったのだ。
とある年配夫婦の奥さんは、客の前で夫をきちんと立てつつも、自分らしさが服装や言葉遣い、やることなすことの端々から滲み出ていて格好いい。古き良き妻像と、一人の女性としての強さが共存しているようだった。
比較的年齢の近いご夫婦は、夫婦同士も子どもたちとも、まるで友達みたいな付き合いをしている。父・夫、母・妻、子ども(長女・姉、次女・妹)という互いのポジションを定義しないような、軽やかな関係性がうらやましい。
娘やほかの親族に対し、亡き夫との惚気話を延々と聞かせる女性も素敵だった。何十年と連れ添っても変わらない(それどころか一層燃え上がる)愛がこの世には存在するのだと知った。さみしそうではあったが、同時に幸せそうでもあった。
よく身の上の相談をする一回り上のお母さんは、小学生の子どもたちが目の前にいるにもかかわらず、あっけらかんと元カレの話を引き合いに出しながらリアルなアドバイスをくれる。聞いているわたしがちょっとおどおどしてしまった。
またあるご家庭は、伝統を重んじていて厳かな感じ。年末年始やお盆などの家族行事をとても大切にしていて、そのためにとびきり上等な食材を全国各地から取り寄せて準備する。家族内で敬語を使うのも新鮮だった。
世の中には、人の数だけ家族の形がある。当たり前のことなのだけど、気づかなかった。もちろんわたしが見たのはそのほんの一面にすぎないが、その一面だけでもこんなに多様なのだ。それは良し悪しで測れるものではない。絵に描いたような理想の家族像に囚われる必要もない。どんな人間関係だって、日々移り変わるのだから。
わたしは、自分の家族だけを見て「家族」というものに希望を失っていた。けれどきっと、その状態が永遠に続くとも限らないのだ。自分の意識次第でこれから良い方向へ変化していくかもしれないし、自分自身が新たな「家族」をつくり、1から心地のよい関係性を築き上げていくこともできるかもしれないじゃないか。30年かけて閉ざしてきた「家族」という選択肢に、少しだけ光が差したような気がした。
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