見出し画像

調和という概念を岡本太郎から考える


幼少期から、なにかとぶつかりあっていた少年 岡本太郎氏

画像5

漫画家の父と小説家の母のもとに生まれた岡本太郎氏。
幼少時代は両親や学校の先生と議論で戦うなど、
周囲の大人たちを、いつも驚かせていました。

その結果、退学と転向を繰り返し
小学1年生を2回経験したそうです。
小学生で留年とは驚きですね。

学校での成績はいつも最下位でしたが、
僕は授業に出ていないからと、
一蹴する気概にも驚かされます。

そんな太郎氏ですが、慶應義塾普通部を卒業後、
画家になる事を迷いながらも東京美術大学に進学します。
しかし、芸術は人に教わるものでは無いと僅か1ヶ月で退学します。

18歳の時、両親のヨーロッパ取材旅行に同行し、
訪れた花と芸術の都パリに留学することを決めます。

ピカソの抽象画に興奮、感動し涙した青年 岡本太郎氏

画像2

パリ留学時代にパブロ・ピカソの『水差しと果物鉢』に出会い自分の
アトリエに帰るバスの中で涙を流したそうです。

人生でほとんど泣いたことのない太郎氏にとって、
よほど衝撃的な出来事だったのではないでしょうか。

興奮と感動のエネルギーを得た太郎氏は
ピカソを、抽象的な芸術を乗り越える決心をします。
全く違うものを作ると。

そして、行き着いた答えが抽象的と具象的をぶつかり合わせて
引き裂かれた場所にこそ、人間の本当の存在があるというものでした。

25歳のときに発表した『痛ましき腕』
この絵によって抽象とも具象とも言えない
太郎氏独自の世界を開いていくことになったのです。

岡本太郎氏がたどり着いた調和=ぶつかり合うこと

画像3

アジアで始めて開催された日本万国博覧会で登場した。
太陽の塔もぶつかり合う調和としての存在だったのです。
テーマ館プロディーサーとしてオファーを受けていた太郎氏でしたが、
日本万国博覧会のテーマが『進歩と調和』であることに納得できず、
はじめは断っていました。

理由は進歩と調和というものは逆だと考えていたからだそうです。
最終的には、普通の人間の考えと違ったことをやるということを
万博の責任者に承諾させ、引き受けることになりました。

世界のタンゲとして有名な建築士である丹下健三が設計した大屋根を
ぶち抜くという奇抜なアイデアで持ち出し、
ぶち抜く存在として太陽の塔を制作することになります。

正反対のもの同士をぶつけ合う。
その答えが、計算され尽くした大屋根と素っ頓狂な太陽の塔のコラボレーションでした。
当時6400万の人々が、この2つが創り出す調和を見上げました。

私たちの生活にもぶつかり合う調和が存在している

画像4

ぶつかり合う調和の美しさは生活の至る所に存在しています。
建築の例ではコンクリートと木で作られる部屋の
空間も心地よい調和を感じさせてくれます。
冷たさと暖かみの調和とも言えます。
居心地の良い空間は調和の中にあるのかもしれませんね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?