創作童話『クラブ通いのラブ蔵』
ラブ蔵は、五代つづく豆腐屋の三男坊でありました。
ふたりいる兄はどちらもりっぱに大学を卒業して公務員になりましたが、
ラブ蔵ときたら大学を中退してからというもの、ずっとぷらぷらしておりました。
インスタのプロフィールには『週末は大体踊ってる系』と書き、
夜な夜なクラブに通っては酒を飲みちらかしてバッキバキになっていました。
それから夏になるとあちこちのレイヴにおもむき、
『玉しか勝たん!』などとバッキバキでほたえ騒ぎながらジャンベのワークショップに参加したりしていました。
そう、ラブ蔵はチャキチャキのドラ息子だったのです。
両親はそんなラブ蔵のことをおおいに心配していましたし、
ふたりの兄はラブ蔵を内心恥ずかしく思っていました。
でも、ラブ蔵はそんなことなどおかまいなしに、遊んで、遊んで、遊びほうけていました。
そんなあるとき、ラブ蔵のおとうさんが胃ガンになりました。
お医者さまによりますとステージ4で手術は不可、余命は三ヶ月ということでした。
はじめのうちは通院治療で抗がん剤を点滴していましたが、またたくまに入院することになりました。
ひまじんのラブ蔵は毎日お見舞いにいきましたが、おとうさんの痛みは日々、ひどくなるいっぽうでした。
そしてついに、おとうさんはモルヒネを投与されることになりました。
おとうさんの痛みはだいぶやわらいだようですが、それからおとうさんはちょっとずつ、ちょっとずつ、おかしくなっていきました。
記憶が混だくしたり、幻覚をみたり、とつぜん怒り出したりするようになりました。
そのようすをみた家族はみんな、かなしみました。
家族想いでいつもやさしかったおとうさんが、『おまえらなんて本当の家族じゃない』などと声をあらげてにらみつけてくるそのさまは、家族にとってとてもつらいものでした。
あるとき、家族ぜんいんでお見舞いにいくと、おとうさんは会話のとちゅうで、とつぜん阿波踊りのように両手をかかげてひらひらさせだしました。
おかあさんが『何してるの?』ときいたら、おとうさんは『あそび』といいました。その顔には、しまりのない笑みがうかんでいました。
おかあさんがワッと泣き出しました。
ふたりの兄もつられたようにすすり泣き出しました。
おかあさんとふたりの兄は『かわいそうに』といって、はらはらと泣いていました。
そのなかでただひとり、ラブ蔵だけは、泣きませんでした。
ラブ蔵は、はげしい悲しみにかられながらもしかし、『涙はちがう』と思ったのです。
これは、世界中のどのクラブでも見られる、アタリマエの光景じゃないか。
ラブ蔵は拳を握り、くちびるを噛みしめて、ある決意を胸に刻みこみました。
それからラブ蔵は、おとうさんのお見舞いに行くとき、かならず、バッキバキの状態で行きました。
アルコールやら睡眠薬やら何やらかんやら、とにかく片っ端からあらゆるモノを摂取して、バッキバキのワケわかんない状態でおとうさんと会いました。
クスリでバッキバキになってワケわかんなくなっている人を、シラフの状態で見下ろしてかわいそうなどいうのは、なんだかとても失礼におもえたのです。
向こうがバッキバキなら、こっちもバッキバキになって、おなじ目線で向き合うべきだと、そうおもったのです。
ラブ蔵はとてつもないバカでしたが、このおこないがものすごく愚かで、まちがった行為であることぐらいはわかっていました。
ただ、そうわかっていてもなお、そうしなくてはいけないとおもったのです。
このことに関しては、このただ一点においては、じぶんはまちがい続けていたいと、ラブ蔵は心のそこからそうおもったのです。
ラブ蔵はバッキバキのままで、お見舞いに通いつづけました。
それからひとつきもしないうちに、おとうさんは亡くなりました。
病室に一人、とまりこんでいたおかあさんに、
『オレは今日はまだ死なないから、寝ろ』といって、つかれきったおかあさんがうとうとしている間に、息をひきとったということでした。
お葬式がおわり、火葬場のえんとつからのぼっていく白い煙をながめながら、ラブ蔵はひとりで立っていました。
あっけないぐらいわずかな煙が高い空にきえてゆくのを見届けると、
ラブ蔵は、なにかを、だれかに、強烈にいのりたい気持ちになりました。
けれど、なにを、どういのればいいかさっぱりわからなかったラブ蔵は、
喪服姿のまま、その場でおどりました。
頭の中でながれる音楽にあわせて、ダンスをおどりました。
ラブ蔵はとてつもないバカでしたが、いまじぶんの胸をひたしているものの正体は、はっきりとわかっていました。
それは『愛』とよばれるものでした。
『愛しか勝たん』とラブ蔵はつぶやくと、はらはら涙を流しながら、いつまでもいつまでも、おどりつづけたのでした。
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