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樋口円香の精神分析

『アイドルマスターシャイニーカラーズ』という、アイドルをプロデュースする育成ゲームがあるのですが、それに登場する樋口円香さんという女性についてお話したいと思います。


まず初めに申し上げておきたいのですが、私が彼女に対して抱いているのは恋愛感情ではありません。かと言っていわゆる父性愛的な、庇護欲というのでもなく、とにかく一言で表現することが難しいです。

しいていうなら『あらゆる感情が交錯している』というような状態なのですが、これは彼女を語るうえでもそのまま当てはまる言葉なのではないかと思います。


まず順を追って、『アイドルマスターシャイニーカラーズ』の主人公であるプロデューサーと樋口さんとの出会いから書いていきますが、彼女は元々アイドルを志望していたわけではありません。


樋口さんには浅倉透さんという幼馴染がいるのですが、浅倉さんがアイドルにスカウトされたことを知り、浅倉さんが所属するプロダクションが怪しい芸能事務所なのではないかと訝しんだ彼女が、それを探るべく事務所にやってくる。というのがそもそもの出会いです。


彼女は浅倉さんをスカウトしたプロデューサーを警戒しており、初対面の際にも事務所には入らず、近くの喫茶店で話し合いをします。そしてその対話の中で、アイドルとしての素質を見出したプロデューサーに勧められ、『事務所やプロデューサーを監視する』という大義名分も相まって、半ばなし崩し的に彼女はアイドルとしてデビューすることになるんですが、とにかくそういった経緯があるため、樋口さんは当初、アイドル活動に対する意欲が低いです。そんな樋口さんがアイドル活動を通して少しずつ変化してゆく、というのがシナリオの大まかなあらましなのですが、彼女を読み解く上での重要なキーワードは『アンビヴァレンス』です。

『アンビヴァレンス』とは、ある対象に対して相反する感情を同時に持ったり、相反する態度を同時に示すことなのですが、樋口さんは常にこれに引き裂かれている。


たとえば樋口さんは『プロデューサーを信頼したい一方で、幻滅してしまいたい』という複雑な心情を抱えています。自分の当初の見立て通り、プロデューサーがろくでもない、悪い大人であれば安心して嫌いになれるのに、プロデューサーがそうした大人ではないということを間近で感じるたびに、葛藤してしまうのです。


同時に、プロデューサーには自分を理解した気になって欲しくはないけれど、誤解されたくもないという感情を抱いている。彼女はつねに、相反する感情に引き裂かれています。まさしくアンビヴァレンスです。


そして浅倉透さんに対する心情もとても複雑です。浅倉透さんは誰もを惹きつける天性のオーラの持ち主なのですが、樋口さんは『浅倉にできることで私にできないことはない』と言います。


しかし、おそらく、ですが、樋口さんは本当はそうではないことを気づいている。浅倉さんのクリズマを誰よりもよくわかっているんです。

『知ってる、わかってる、私だけは、浅倉透を』という彼女のモノローグが、それを端的に表しています。自分こそが浅倉透の一番の理解者である、というのが樋口さんのアイデンティティです。

だからこそ、自分が知らない浅倉さんの一面を知るプロデューサーに、戸惑い、苛立つ。

ろくでもない大人だと解れば安心できるのに、どうやらそうではないということを知れば知るほど、葛藤は深まる。

樋口さんが浅倉さんに抱く感情は、ほとんど信仰といってもいいかもしれません。浅倉の隣に並べ立てるのは自分だけであり、またそうでなくてはならないのだという強い自意識。それが樋口さんを苦しめ、迷わせ、引き裂いているのです。彼女はそうしたあらゆる感情に引き裂かれるじぶんに対して、少なからず“自己嫌悪”を抱いているように見えます。自己嫌悪とは内的緊張を高める営為で、その緊張の解消のために嫌悪や軽蔑が必然的に他人へとスライドされます。彼女が事務所の先輩でさえもすげなくあしらったり、仕事に対してもどこか侮るような姿勢をみせるのは、端的に防衛本能なのです。

ここで少し、フロイド的な観点から『自己嫌悪』について論じますが、自己嫌悪というのは“自分を嫌悪する自分”と、“自分に嫌悪される自分”が存在するわけです。嫌悪されるのは常に、現実の自分がおこなった行動です。『お酒を飲んではいけないのに飲んでしまった』とか『ダイエットしていたのにスイーツをたくさん食べてしまった』とか、まごうことなき現実の自分の姿なのであります。

それに対し、“嫌悪する自分”とは、現実的な基盤が存在しません。自己嫌悪とは激しく自分を嫌悪しながらも、同じような場面になるとまた同じような行為を繰り返す己に対して生まれる嫌悪です。

本来、嫌悪というのはその対象の排除もしくは消滅の方向に作用する力をもつものなのに、その力がないとするならば、自己嫌悪とは果たして本当に嫌悪なのか、という疑問が生じます。

嫌悪する自分は現実に対する影響力を持たない。ということは、嫌悪する自分とは架空の存在なのです。

架空の自分が現実の自分を嫌悪している状態、これが自己嫌悪です。

“こうありたいと思う自分”、“人からこう思われたいという自分”が、現実の自分を諌めているというわけです。

そうした架空の自分さえいなければそもそも苦しみなどは存在せず、“現実の自分”の欲求を自由に満足させられるのですが、社会的承認を失い、自尊心が傷つくおそれがあるから“架空の自分”をもちだす。

別のレベルに自分を置き、現実の自分の行為は『真の自分』には関係も責任もないものだとみなし、『真の自分』の立場から嫌悪するわけです。心理学者の岸田秀はこれをして『自己嫌悪ほど卑劣なものはない』といっていますが、聡明な女性である樋口さんはおそらく、己が卑劣であるということさえも解っている。解っていながらもどうにもできないのです。

樋口さんはアイドルという一種のペルソナを演じながら、浅倉さんの隣に並び立とうと試みる。『それは自分にしかできない』と言いながら、内心では『自分にはできない』ということを理解している。

浅倉さんは仕事でもプライヴェートでもきわめて自然体であり、またそのキャラクター性が評価されているのですが、樋口さんはペルソナを演じない限りアイドル活動を全うできない。信仰的な存在としての浅倉さんがいて、その浅倉さんの隣にいるという自負がありながら、完全に理解することはできないジレンマを常に抱えている。そして浅倉さんはプロデューサーにだけ明らかに特別な感情を抱いている。自身もプロデューサーを憎からず思うようになっている。たいへんな地獄です。綱渡りのような、ひじょうに危なっかしいバランスに樋口さんはどうにか立脚している。理解したいが、理解したくない。理解されたくないが、理解されてしまう。あらゆるアンビヴァレンスが共存している状態です。


『百合』だの『三角関係』だのいう言葉では、到底片付けられない繊細で複雑な機微が、ここにはあります。

私はそれを感じていたいんです。

見守りたいというのとも少し違う、見つめていたいんです。


樋口さんは、浅倉透さん、市川雛菜さん、福丸小糸さんという幼馴染だけで構成されたユニット“ノクチル”で活動していくのですが、このユニット内の人間関係もひじょうに複雑なもので、たとえば市川さんは浅倉さんに対して常にストレートに好意をぶつけます。そして樋口さんはそんな市川さんを邪険に扱う。一見するとふたりは仲が悪いように見えるけれど、でもそういうことではない。かといって仲良しというのも違うんだけれど、でも、ずっと一緒にいる。幼馴染という関係性が持つ、なんともいえない割り切れなさがここにあります。

そして福丸さんは、見た目が幼く、小動物的な愛くるしさがあり、樋口さんはまるで福丸さんを愛でるかのように接している。でも福丸さんはこの関係性がいつか終わるのではないかという不安を抱いている。福丸さんは『みんな、わたしがいないとダメなんだから』と言うのですが、それはおそらく、祈りや願望が多分に含まれた、ひじょうに切実な言葉です。そうした関係の中で、樋口さんが放つティーンエイジャー特有の青さ、傷や痛みを見るにつけ、私は喜怒哀楽のどれでもない感情に苛まれるのです。そして、画面を見つめながら、こうつぶやくのです。

『樋口……俺は……』

いつもそこで言葉は断ち切られてしまう。
だから私は樋口さんをプロデュースする。
私は樋口さんをプロデュースしながら、“俺は”のあとに続く言葉をたえず探し続けています。

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