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【実録】上海生活 #21「分相応」

先日、営業部と宣伝部の打ち合わせを今週中に行うから参加して欲しいという連絡が来た。言葉の壁もあるので通訳の方から後日報告だけ受けても良いのだが、議論している様子を見ているだけでもその口調や表情からも個々人の性格や組織でのパワーバランスなどが結構わかるものなので、そのような会議にはなるべく顔を出すようにしている。しかし、週末が近づいても会議がいつ、どこで行われるかの連絡が来ないので確認してみるとまだ日程が決まってないという。理由を聞いてみると、営業部と宣伝部のどちらが会議の日程を決めるかで揉めているらしい・・・。営業部の主張は、イベントに向けての宣伝内容を決める会議なのだから宣伝部が中心になって会議招集をするべきだというもの。宣伝部の主張は、営業活動の一環として行うイベントなのだから営業部が率先して会議を開催して宣伝部に出席してもらうようにお願いするべきというもの。日本人の感覚からすると信じ難いような話ではあるが、中国においてこのような戦いは決して珍しいことではない。本来の目的であるはずの事業の利益よりも個々人の面子、部門の面子のために仕事をしているということがよくわかるケースである。結局、イベント直前になってバタバタと仕事をこなし、それでもなお営業部が悪い、宣伝部が悪い、そもそも時間がないと言い訳は止まることはなく、当然、中途半端な企画しか出来上がらない。仕事を進める上で、生産性や合理性という概念が全く存在せず、これでよく会社が成り立っているなと不思議に思うが、それを改善しようと注意をする管理者もいないので、当の本人たちはそれが問題なのだということを知る由もない。このような社会全体にがっちりと根付いた矛盾は、どこでどのように崩壊していくのだろうか。

さて、本題に入るが、中国の社会は、誰もが同じゴールに向かって走り、「分相応」という概念が薄い、いわば「誰も諦めない社会」である。現在の中国の異様ともいえる発展スピードと、社会に満ち溢れた活力はまさにその賜物に違いない。しかし、その反面、誰もが同じ道を歩もうとするので、もともと勝算のない無駄な競争が多く、非常に疲れる生き方であると同時に、結果的には負けるべくして競争に負け、自尊心が傷つき、不満を感じる人の比率が高い社会になってしまっているのはないだろうか。
人は皆、価値観も人生観も違うし、持って生まれた能力も同じではない。全員が同じレースを走れば、幸せになれる人は少ないに決まっている。社会の価値観を多様化し、より多くの人々が、良い意味での「分相応」な幸福感と持てるようにすることが差し迫った課題である。ただし、この問題は歴史的な根が深く、現代でも一党独裁という政治の仕組みが根幹にあるだけに、その解決は容易ではない。

物質的な富がある一定の線を超えれば、「豊かさ」と「幸福であること」はイコールではない。これまでの中国は、物資的に豊かになることで社会的な矛盾を「目くらまし」してきたような面がある。とりあえず食うことには問題がなくなった中国社会にとって、次に迫り来る最大の危機は「人々の幸福感の貧しさ」にどう対応するかだろう。

中国社会では、IT長者のような明確な勝ち組ですら、「自分がどうしたいか」よりも「人から認められる行動とは何か」を考えて行動する傾向が強い。言い方を変えると、自分の行動を決める判断基準が自分の中にあるのではなく、自分の外にある。何かを決断したり、選択したりする際に、その判断基準を「自らの考え」よりも「周囲の意向」「社会の観念」に置く傾向が強いということだ。これは、欧米的な「自分で決めて自分で責任を取る」という「個の理論」とは大きく異なる。中国社会では、自分の行動は「自分でこうしたい」というだけでは決められない。「立派な人間」と認められるには、必ず周囲のことを考え、社会が期待する行動を取らねばならず、このように行動することが長い間に習慣化しているといえる。サバイバル精神に富み、組織より「自立」を優先し、他人任せの人生は送りたくないと願う一方で、社会常識(もちろん中国での)への忠実さ、他人からどう見られるかへの意識はある意味では日本人より強いのかもしれない。

次回に続く・・・。

ここまで読んでいただき、ありがとうございました!謝謝♫

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